【福島県】悲劇の最期か、政宗の陰謀か……伊達政宗の父・輝宗の生涯
武将・大名の伊達政宗のことは、米沢や仙台に縁があれば特に歴史が好きでなくてもご存知の方が多いでしょう。
では政宗の父の輝宗(てるむね)はいかがでしょうか?
輝宗の存在がなければ政宗が生まれてこなかったことはもちろんですが、政宗の勢力拡大の基盤を築いたのも輝宗だったと言ってよいのです。
しかし、輝宗の最期は、少なくとも悲劇的なものであり、しかも政宗の陰謀によるものではないかとも考えられているのです。
伊達輝宗の誕生
伊達輝宗は天文13年(1544年)に、伊達晴宗(はるむね)の次男として伊達郡西山城(現在の福島県伊達郡桑折町)に生まれました。
幼名は彦太郎、後に総次郎となりました。
次男ではありましたが、長男である兄が母方の祖父の養嗣子になることが決まっていたので、早々に総次郎が伊達家の後継ぎと決まりました。
早速余談ですが、この時代に子だくさんの武将自体は珍しくありません(織田信長やその父・信秀、北条氏康、徳川家康など)。
しかし、伊達輝宗の父・晴宗は、正室の久保姫との間に生まれた子ばかりが多いことで知られています。
久保姫が生んだ子どもは輝宗を含む11人(6男5女)と伝わっており、これは前田利家の正室のまつ(芳春院)が生んだ11人(2男9女)に並んで多いと言われています。
1人の女性が生む子どもの数が現在よりも多い時代でしたが、それにしても驚異的な数です。
なお、輝宗が生まれた時代の伊達家は「天文の乱(てんぶんのらん)」の真っ最中でした。
天文の乱とは当時の伊達家の当主・稙宗(たねむね)と嫡男・晴宗による、6年間にも及ぶ内紛です。
この乱によって、伊達家の勢力は衰えてしまったと言われています。
乱は天文17年(1548年)に晴宗方の勝利に終わり、晴宗が伊達家の当主となります。
晴宗が居城を米沢城(山形県米沢市)に移したため、輝宗も母やきょうだい共々、米沢城に移るのです。
天文24年(1555年)に総次郎は12歳で元服。
室町幕府の第13代将軍・足利義輝から1字を拝領して伊達輝宗と名乗りました。
10年後の永禄8年(1565年)頃に、父・晴宗の隠居に伴い伊達氏の第16代当主となりました。
永禄10年(1567年)には、長男の梵天丸、後の伊達政宗が誕生しています。
父・晴宗との確執
伊達輝宗が当主となった時点では、家中の実権は晴宗や、家中の実力者である中野宗時・牧野久仲の父子に握られていました。
そこで輝宗は、妹を会津の蘆名盛氏の嫡男・盛興に嫁がせ、自分は山形の最上義守の娘・義姫を娶るといった縁組によって、外部に味方を増やしていきます。
永禄13年(1570年)には中野父子の謀反を鎮圧して父子を追放し、この際に輝宗に対して非協力的であった家臣も処罰しています。
織田信長に鷹を送るなどして、遠方の有力大名との外交も欠かしません。
天正5年12月(1578年1月)には、父・晴宗が死去し、家中の実権は輝宗のもとに名実ともに結集したのです。
父・晴宗がそうであったように、輝宗もまた父と対立し、そして父に打ち勝ったのでした。
伊達家の勢力を回復
家中を掌握した後の輝宗は、現在の福島県南相馬市の辺りを本拠にしていた相馬家に対する攻勢を強め、伊具郡(宮城県南部)全域を支配します。
天正12年(1584年)には祖父・稙宗の時代の伊達家の勢力圏をほぼ取り戻し、南奥羽全域に多大な影響力を及ぼす立場になりました。
この頃には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、本能寺の変で倒れた織田信長の覇業の後継者としての立場を確たるものとしていていました。
もしも秀吉の勢力が奥羽にまで及ぶことがあれば、奥羽の諸大名は協力して秀吉に対抗しようという意思を、輝宗は示していました。
それほどに輝宗の勢力や発言権は大きなものだったのでしょう。
隠居
天正12年(1584年)10月に伊達家の盟友である蘆名家の当主・盛隆(盛氏の養子)が家臣に殺害された結果、生後1か月の亀王丸が蘆名家の当主となります。
輝宗は亀王丸の後見人となり、これをきっかけに伊達家の当主を政宗に譲ることとしました
(家督を譲った理由は諸説ありますが、少なくとも「政宗がすごいヤツだから譲った」という単純な理由ではないようです)。
舘山城(米沢市)を新たな居城とした輝宗は、蘆名家・最上家と共に越後の上杉景勝に対抗するつもりでいましたが、当主となった政宗は上杉家と講和してしまいます。
このような輝宗と政宗の外交方針の違いが、父子の間に確執を生んだことは想像に難くありません。
祖父・稙宗、父・晴宗に続いて輝宗もまた、息子との対立を経験することとなったのです。
阿武隈川で射殺される
政宗の外交方針の転換により南奥羽の外交秩序は乱れ始めます。
戦火が拡大した結果、二本松城(福島県二本松市)城主の二本松(畠山)義継は、伊達家からの攻撃を受けていました。
そして、天正13年(1585年)10月に政宗に対して降伏を申し入れました。
降伏に際して、輝宗や伊達実元(さねもと・伊達稙宗の子=輝宗の叔父)が調停にあたっています。
そこで、10月8日に義継は「調停に対する謝意を示すため」という名目で、宮森城(二本松市)に滞在していた輝宗を訪ねます。
ところが面会を終えて玄関で義継を見送ろうとした輝宗は、義継とその家臣によって捕らえられます。
義継は輝宗を拉致して人質とし、二本松城へ帰ろうとしたのです。
伊達家の公式記録によると、輝宗・義継の面会に同席していた伊達成実(しげざね・実元の子)や留守政景(輝宗の弟)が兵を引き連れて輝宗・義継を遠巻きに追ったものの、二本松領との境目である阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗が自分を撃てと叫んだので、伊達勢は一斉に鉄砲を放ったとされています。
輝宗と義継以下の二本松勢は討ち果たされ、鷹狩の途中であった政宗が現場に到着した時には、既に全てが終わっていたと言います。
ただし、これはあくまで公式記録に残された経過で、輝宗の最期については諸説あります。
政宗が現場に駆け付けたので、もはや逃げきれないと悟った義継が輝宗を刺殺し、その後政宗によって二本松勢は撃たれたという説、やはり政宗は現地に到着していて、自ら輝宗と義継を撃ったという説などがあります。
また、政宗が輝宗を疎んじた結果、輝宗を排除するために仕組まれた政宗の陰謀だったという説も唱えられています。
伊達成実の残した記録には、鷹狩から現地に駆け付けたはずの伊達政宗の配下たちが、なぜか完全に武装していたと記されていて、これが政宗の陰謀であることの裏付けのひとつとされています。
いずれにしても、戦乱の絶えない世の中だったとはいえども、伊達輝宗の最期は、伊達家の繁栄の基礎を築いた英雄とも呼ぶべき人物のそれとしては、悲劇的であっけなく、そして早すぎるものでした。
享年42。
また、この件に対して政宗にどこまで責任があるかはともかくとして、政宗は父親を殺した人物という目で見られることになります
(現に、440年程も経った今もなお、父親を謀殺したのではないかと言われてしまっています)。
外交手腕に長けた輝宗を失った伊達家と近隣勢力の関係は一挙に悪化し、以後数年にわたって、政宗は苦しい戦いを余儀なくされることとなるのです。
まとめ
政宗との確執があったのかどうかはさておき、輝宗は嫡男である政宗の教育にはとても熱心でした。
多くの高名な学者や僧を招いて教養を積ませ、さらには神職の次男だった片倉景綱(小十郎)といった、後に政宗を支える人物を早くから政宗に仕えさせています。
また、陰りが見えていた伊達家の勢力を回復させたことは間違いなく輝宗の偉業です。
輝宗なくして、史実通りの初代仙台藩主・伊達政宗は決して存在しなかったのです。