【秋田県にかほ市】仁賀保氏ゆかりの3町が合併して誕生した「にかほ市」の歴史を知ろう

秋田県にかほ市は、秋田県の南部、山形県との県境に位置し、2005年(平成17年)10月に仁賀保町(にかほまち)、金浦町(このうらまち)、象潟町(きさかたまち)が合併して誕生しました。


念願の1万石の藩になった途端、初代藩主が死亡、藩は解体

にかほ市のある由利地方は、江戸時代初期には矢島(やしま)藩、本荘(ほんじょう)藩、亀田(かめだ)藩、仁賀保(にかほ)藩が成立しています。仁賀保藩は、戦国時代に由利地方を治めていた領主(由利12頭=ゆりじゅうにとう)のひとり、仁賀保氏が現在のにかほ市のほぼ全域を領地として、1623年10月に立藩されました。

仁賀保氏は、江戸時代初期に関ケ原合戦の論功で徳川幕府より常陸国(茨城県)武田5千石を与えられ、国替えとなっています。さらにその後の功績により1万石に加増され、仁賀保氏ゆかりの領地に凱旋しました。

仁賀保藩初代藩主、仁賀保挙誠(にかほきよしげ)は、以前居城としていた山間部の山根館を廃し、象潟に近い塩越(しおこし/にかほ市象潟町)にある前領主の居城塩越城を本拠としました。しかし挙誠は藩主就任から4か月後、1624年2月に死去してしまいます。


仁賀保藩領の多くは庄内藩や矢島藩、本荘藩、幕府領として分割統治

仁賀保藩
初代藩主仁賀保挙誠の死後、矢島藩、仁賀保氏領、幕府領などに分割された仁賀保藩。仁賀保之図 ©秋田県立博物館

挙誠の死後、遺言により仁賀保家は3人の息子たちに分割され、持ち分は長男7,000石、次男2,000石、三男1,000石となったのです。さらに、1631年には長男も後継ぎがいないまま死去してしまい、仁賀保宗家は断絶、その領地は幕府領となったのです。幕府領となった旧仁賀保藩の領地は、幕府から一時的に南隣の庄内藩(山形県)に預けられました。

仁賀保藩が廃された後の旧仁賀保領は、1640年矢島藩の立藩により庄内藩に預けられていた領地の多くが矢島藩に与えられ、最終的には次男、三男が継いだ3,000石の領地は仁賀保氏が治め、それ以外矢島藩、幕府領に分けられました。本荘藩は飛び地という形で象潟のあるエリアなどが領地として与えられました。複雑に分けられた境界は3つの村では村内に境界線が走ることとなり、ひとつの村を複数の領主が治める(相給村=あいきゅうむら)という複雑なことにもなっています。


明治以降、にかほエリアの町村が統合され、最終的に3つの町が合併しにかほ市が誕生

明治維新を迎え廃藩置県が実施され、由利地方には1871年(明治4年)7月14日に矢島県、本荘県、亀田県が誕生しました。旧仁賀保領は本荘県と矢島県に属することになったのですが、その年の11月2日に第1次府県統合が行われ、由利3県は秋田県に統合されることになり、旧仁賀保領も秋田県の所属となりました。

1889年(明治22年)に全国的に施行された市町村制によると、旧仁賀保領には35あった村が、平沢村、金浦村、塩越村、上浜村、上郷村、小出村、院内村の7村に統合されました。その後1896年(明治29年)に塩越村が象潟町に、1897年(明治30年)平沢村が平沢町、1902年(明治35年)には金浦村が金浦町になっています。さらに1955年(昭和30年)には象潟町、上浜村、上郷村が合併し象潟町、平沢町、院内村、小出村が合併し仁賀保町となったのです。

そして冒頭のように2005年(平成17年)10月1日に仁賀保町、金浦町、象潟町が合併してにかほ市が誕生しました。


戊辰戦争戦はにかほエリアに大きな戦禍を残す

明治維新の時には、東北地方に属する各藩が、新政府支持派と旧江戸幕府派とに分かれ、激しい内戦になってしまいます。最初は旧幕府派に属していた秋田藩と由利3藩は、最終的に新政府派となり、旧幕府派の庄内藩(山形県)や南部藩(岩手県・青森県の東半分)などと対立してしまいます。これが戊辰戦争(ぼしんせんそう/1968年)の秋田での戦い(秋田戦争)で、秋田南部では、1868年7月13日庄内藩と矢島藩の藩境、三崎口(にかほ市象潟小砂川)で戦いが始まりました。まずは秋田・新政府軍が攻め込み、それを庄内藩が圧倒的な戦力と武器で反撃、秋田・新政府軍は後退を余儀なくされたのです。

にかほ市と山形県の県境にそびえる鳥海山のすそ野が日本海に沈み込む、三崎の山中でで秋田での戊辰戦争が始まった ©鳥海山・飛島ジオパーク

庄内藩の勢いはすさまじく、1か月後には由利諸藩領ばかりでなく、久保田藩領の3分の2近くが戦場と化し、焼け野原となってしまいました。庄内藩を中心とした旧幕府軍は、久保田城の手前、椿台(秋田市雄和椿川)と長浜(秋田市下浜長浜)まで攻め込みます。椿台と長浜を突破されると久保田城は風前の灯火といった状態でしたが、ようやく新しい銃器を携えた新政府軍の援軍が力を発揮し、旧幕府軍を食い止め、秋田での内戦が終わりを告げます。

にかほ市三森の高昌寺にある、戊辰戦争の際松江藩(雲州/島根県)から応援に来て戦死した藩士たちの墓©にかほ市文化財保護課

秋田戦争といわれるこの内戦では、由利地方のすべての村々が焼き尽くされ、多くの人々の命が奪われました。にかほ市の文化財リストを眺めて、重要文化財や登録有形文化財などの国や秋田県指定の文化財がないことに気づきました。戊辰戦争という日本人同士の戦いが、大きな傷跡を残してしまったのです。


鎌倉時代に仁賀保氏の居館だった「山根館」。仁賀保藩立藩時に廃城

山根館
平安時代から江戸時代直前まで仁賀保地域を支配していた由利氏、その後仁賀保氏の居城だった山根館跡 ©にかほ市文化財保護課

仁賀保氏の居城だった「山根館」や「塩越城」は、戊辰戦争で焼け落ち建物等は全く残っていませんが、跡地は整備され見学が可能です。

山根館は、平安時代頃から江戸時代前まで、当初は由利氏、鎌倉時代は仁賀保氏一族の居城で、1602年徳川家康から常陸国(茨城県)に国替えを命じられるまで居住していました。

山根館は、にかほ市北部旧仁賀保町の中心部から南東方向に3kmほどの標高約200mの台地に立つ山城で、平安時代に由利(由利郡)を支配していた豪族由利氏が建てたといわれています。由利氏は平安末期に奥州の盟主藤原氏の重臣でしたが、藤原氏が源頼朝に攻められ滅亡した際に、当主由利維平(ゆりこれひら)が源軍に対し勇敢に戦っている姿を頼朝に認められたのです。その後敵将だった頼朝の御家人になり、鎌倉幕府から土地をもらい受ける代わりに忠誠を誓いました。

由利氏はその後滅亡し、由利郡は信濃の領主だった大井氏に委ねられました。室町時代の1468年には仁賀保氏の祖といわれる大井友挙(おおいともたか)が山根館を修復しています。

山根館の存在はかなり前から知られていましたが、実際に遺構調査が始まったのは1980年(昭和55年)で、その後も調査が続けられ建物の基礎となる礎石(そせき)や、室町時代の中国製陶器などの遺物が数多く発見されています。「山根館」は秋田県指定史跡です。

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  • 施設名称:山根館跡地
  • 住所:秋田県にかほ市小国字古館1-2など
  • 電話番号:0184-43-3230(にかほ市観光課)
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR羽越本線仁賀保駅からタクシーで約7分山根館跡駐車場
    • 車/日本海東北自動車道仁賀保ICから約7分山根館跡駐車場

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仁賀保藩立藩から9年だけ仁賀保氏の居城となった「塩越城」

塩越城
仁賀保藩の居城だった塩越城跡。「九十九島」のある象潟にあった ©にかほ市文化財保護課

塩越城は、1623年仁賀保氏が常陸国から1万石の大名として仁賀保に戻った際に居住した城です。もとは戦国時代の汐越の地侍、池田氏の居館だったと伝わっています。

仁賀保藩の初代藩主仁賀保挙誠が2年、家督を継いだ長男良俊が7年、計9年間居住しただけで良俊に子がいなかったため断絶、塩越城も廃城となりました。

塩越城は、にかほ市の中心部象潟の海岸部、現在の象潟町一丁目塩越と象潟町二の丸あたりに位置していたと考えられています。塩越城の遺構は石垣や居館跡の広場が残っているだけで、ほとんどが住宅街になっています。

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  • 施設名称:塩越城跡
  • 所在地:秋田県にかほ市象潟町字二の丸、象潟町塩越1丁目
  • 電話番号:0184-43-3230(にかほ市観光課)
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR羽越本線象潟駅からタクシーで約4分
    • 車/日本海東北自動車道象潟ICから約8分

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仁賀保家2,000石、仁賀保家1,000石の兄弟の家系が明治になるまで続いた共同の仁賀保陣屋

仁賀保陣屋
江戸時代の図絵に残された仁賀保陣屋 ©にかほ市文化財保護課

仁賀保宗家は断絶し領地を失いましたが、2,000石を継いた次男誠政、1000石の三男誠次は、仁賀保領の北側に領地を持ち、良俊と同じく幕府の旗本となり、この両家はともに明治になるまで家系が続いたのです。

仁賀保陣屋は、誠政、誠次兄弟が共同で領地を運営する陣屋として築かれたものです。跡地にはほとんど何も残っていませんが、仁賀保神社が創建され、「仁賀保公園」として整備されています。

古い写真に残されていた仁賀保陣屋 ©にかほ市文化財保護課

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  • 施設名称:仁賀保陣屋跡
  • 所在地:秋田県にかほ市平沢清水79
  • 電話番号:0184-43-3230(にかほ市観光課)
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR羽越本線仁賀保駅から徒歩約2分
    • 車/日本海東北自動車道仁賀保ICから約3分

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