【秋田県にかほ市】今では見られない幻の風景。松尾芭蕉が感激した象潟・九十九島

象潟・九十九島(きさかたくじゅうくしま)は、秋田と山形の県境にそびえる鳥海山の北麓、にかほ市の日本海沿岸にある景勝地です。田んぼが広がる田園一帯のあちらこちらに島のような小山が浮かび、日本三景と称えられる松島(宮城県松島町)の陸地版のような美しい風景が広がっています。

江戸時代の紀行家、松尾芭蕉や菅江真澄も象潟・九十九島を見て感激し、その美しさを絶賛しています。しかし、今私たちが見る象潟・九十九島と芭蕉や真澄の見た風景では大きな違いがあるのです。

江戸時代の九十九島。屏風絵の左隻(させき/左側) 「紙本着色象潟図屏風」 ©にかほ市文化財保護課
江戸時代の九十九島。屏風絵の右隻(うせき/右側) 「紙本着色象潟図屏風」 ©にかほ市文化財保護課

平安時代より、松島と並び称されていた象潟の風景

象潟・九十九島は、平安時代に日本各地の名所旧蹟(歌枕/うたまくら)をまとめた歌人、能因(のういん)や、同じ時代の僧侶、西行(さいぎょう)などによって和歌に詠い込まれ、江戸時代にも東北の絶景として知られていました。芭蕉や真澄が見たのは、松島と同じような小島が海に浮かぶ風景だったのです。私たちにはもう見れないのですが、幸いにも江戸時代に描かれた図絵などが残っていて、かろうじてその姿をうかがい知ることができます。


芭蕉が象潟を見たくて始まった? 「おくのほそ道」紀行

松尾芭蕉は、東北地方を中心とした紀行文『おくのほそ道(奥の細道)』を残していますが、訪れた地の多くは能因が記した歌枕の地です。

46歳の1689年3月27日(旧暦/現代の太陽暦では4月16日/以下『おくのほそ道』では旧暦で表記)に弟子の河合曽良(かわいそら)とともに江戸の深川(東京都江戸川区深川)を船出発し、千住(東京足立区千住)からは歩いて北を目指します。埼玉、栃木、福島を経由し宮城県では松島に感激(“松島や ああ松島や松島や”が有名ですが、詠んだのは弟子の田原坊とする説が有力)します。その後平安時代に奥州藤原氏が栄華を極めていた平泉(岩手県平泉町)で源義経終焉の地を眺め“夏草や兵どもが夢の跡”と詠み、奥羽山脈を越えて山形県に入り、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)や山寺(立石寺=りっしゃくじ)を訪れています。山寺では“閑さや岩にしみ入蝉の声(しずかさやいわにしみいるせみのこえ)”という有名な句を残しました。山寺を後にした一行は、最上川を船で下り(“五月雨を集めて早し最上川”)、東北の日本海側最大の港町酒田(山形県酒田市)に到着します。

1689年(元禄2年)6月13日酒田に着いた一行は、6月15日には象潟へ向けて旅立ちます。『おくのほそ道』は、どんどん先の目的地を訪ね歩く行程でしたが、象潟だけは酒田を発ち3日後には酒田に戻るという日程で組まれていました。芭蕉がどうしても見たかった風景で、『おくのほそ道』最大の目的地が象潟だったといわれているのです。


大雨に遭いながら難所の峠を抜け象潟に

鳥海山のすそ野が沈み込む日本海沿いを進む象潟への街道 「飽海郡吹浦村新道ノ内字南光坂ヨリ海上ヲ瞰ル図」 所蔵:山形県立図書館

酒田から象潟に行くには、酒田の北にそびえる鳥海山の麓を抜け、3つの峠を越えなければ行けません。鳥海山は日本海から直接すそ野を立ち上げている珍しい山で、海岸沿いは急激な崖。当時の街道は海ギリギリのところに造られていて、天候によってはひどく危険な道でした。また、秋田県との境には鳥海山噴火による溶岩でできた3つの岬(観音崎、大師崎、不動崎)があり、標高はそれほど高くないのですが、ここもまた難所として知られる峠道です。健脚とはいえ中年の芭蕉にとっては、相当の覚悟がいる峠越えだったのですが、象潟は“江山水陸(こうざんりくすい)の風光数を尽して、今象潟に方寸(ほうすん)を責(せむ)”(川や山、海陸の美しい風景は数限りなく見てきたが、今は象潟が見られると思うと心がせき立てられる)というほど行きたい場所です、難所など意にもとめず出発しました。

難所だった三崎の旧街道 ©にかほ市文化財保護課

酒田を朝出発した一行は、昼過ぎには鳥海山の手前、吹浦(ふくら/山形県遊佐町)に到着します。天候は大雨、やむを得ず吹浦に1泊し天候の回復を待ちます。しかし翌朝も雨。でも象潟へ早く行きたい芭蕉は、無理矢理出発します。暴風雨のため途中県境にあったといわれる有耶無耶の関(うやむやのせき)では船小屋に一時避難せざるを得なかったのですが、なんとかその日のうちに象潟に到着しました。

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  • 施設名称:三崎旧街道(三崎公園)
  • 所在地:秋田県にかほ市象潟町小砂川三崎
  • 電話番号:0184-43-6608(にかほ市観光協会)
  • アクセス:
  • 公共交通機関/JR羽越本線象潟駅から車で約15分
  • 車/日本海東北自動車道象潟ICから約15分

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古代中国の絶世の美女に例えて、象潟の美しさを表現した芭蕉

国を滅ぼすほど絶世の美女と芭蕉が称した九十九島「羽州象潟之図」 所蔵:東京大学石本コレクション

象潟のある塩越村(しおこしむら/にかほ市象潟町塩越)に着いて、宿泊予定だった能登屋を訪ね、着替えるとともにうどんを食べ、まだ雨が降っているにもかかわらず象潟・九十九島見学に出かけます。象潟の海に舟を出し、象潟を気に入った能因が3年間過ごしたといわれる能因島に渡りました。

能因島。芭蕉が見たときは海に浮かんでいた ©にかほ市

能登屋に戻った芭蕉たちでしたが、当日が塩越の祭りで空き部屋がなく、向屋(むかいや)という旅籠に泊まっています。翌朝は始め雨だったのですが、次第に晴れて坩満寺(かんまんじ)から九十九島の絶景を眺め、夕食後には舟で湾内を巡るなど象潟を満喫したのでした。翌6月18日には酒田に戻っています。

芭蕉は象潟・九十九島の景観に触発されて、いくつかの句を残しています。その中で

象潟や雨に西施が合歓(ねむ)の花

芭蕉は、昔の中国に西施(せいし)という絶世の美女がいて、王がその容姿に溺れ、ついには国を滅ぼしてしまったことに例えて、象潟の美しさを描き出しているのです。松島は笑っているような明るい陽の景色だったけれど、象潟は憂いを込めたなにかを恨むような陰の趣があるとも記しています。

芭蕉が訪れてから95年後の1784年に象潟を訪れた紀行家の菅江真澄は、芭蕉が見た風景を目の当たりにして、自書の『秋田のかりね(齶田濃刈寢)』の中で絶賛しました。


1日で海をすっかり陸地に変えてしまった象潟地震

菅江真澄が訪れてから20年後、1804年7月10日(太陽暦)にマグニチュード7.0(推定)の地震が象潟地方を襲います。九十九島は1日でその景観を全く変えてしまったのです。今まで海に浮かんでいた九十九島は、陸地に点在する小山に様変わりしてしまいました。

地震によって象潟の地は2mほど隆起します。浅い海だったところは干上がり、干拓地のようになってしまいました。この地震によって壊滅的な被害を受けた象潟ですが、象潟を領地とする本荘藩はすぐに復興に力を入れます。江戸幕府から臨時の貸し付けを受け、村の復興および隆起した土地の開墾にとりかかります。地震から40年ほどたった1846年の記録には、“潟だったところは田んぼになってしまっている”との記述もあり、九十九島だったところには水田が広がっていたのです。

今でも十分絶景の象潟九十九島 ©にかほ市

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  • 施設名称:九十九島(象潟)
  • 所在地:秋田県にかほ市象潟町字塩焼島
  • 電話番号:0184-43-6608(にかほ市観光協会)
  • URL:九十九島(象潟)
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR羽越本線象潟駅から徒歩で約15分
    • 車/日本海東北自動車道象潟ICから約8分

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象潟・九十九島の風景を守るため命がけで待ったをかけた覚林

坩満寺山門。坩満寺二十四世住職覚林が九十九島の風景を命をかけて守った ©にかほ市文化財保護課

本荘藩は島だった小山が邪魔だったのでしょう。山を崩して開墾を進めていきます。しかし、水面に小島が顔を出す九十九島の風景が忘れられない人たちは、その方針に異議を唱えます。特に、坩満寺の二十四世住職、覚林(かくりん)は、坩満寺が象潟を古くから寺領として預かっていることを理由に何度も藩に嘆願書を出しますが、その願いは聞き入れられませんでした。

覚林は一計を案じます。坩満寺が宮家(天皇および皇族)とつながる寺院となれば、寺領である九十九島には藩は手を入れることはできません。いろいろ奔走した結果、坩満寺を閑院宮(かんいんのみや)家の祈願所とすることに成功、小山の取り崩しを藩に中止させたのです。

しかし、覚林の行為に藩は激怒、藩命に背いた罪で追われる身になってしまいます。危険を感じた覚林は、江戸の上野寛永寺(かんえいじ/東京都台東区)に逃れますが、見つかってしまい本荘に連れ戻され牢に入れられてしまいました。覚林は牢に入れられたまま1822年死去。こうして九十九島の景観は覚林の死と引き換えに今に残ったのです。

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  • 施設名称:坩満寺
  • 所在地:秋田県にかほ市象潟町象潟島2
  • 電話番号:0184-43-3153
  • 拝観料:一般 300円、高校生 150円、小中学生 100円
  • 拝観時間:8:00~17:00
  • URL:坩満寺
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR羽越本線象潟駅から徒歩で約15分
    • 車/日本海東北道自動車道象潟ICから約8分

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象潟の歴史資料や古絵図などを展示「にかほ市郷土資料館」

にかほ市郷土資料館の外観 ©にかほ市文化財保護課

にかほ市象潟郷土資料館」は、象潟地震によって全く違った風景になってしまった九十九島を、隆起前の九十九島を描いた屏風絵『紙本着色象潟図屏風』や825分の1で再現した模型で見せてくれます。また、松尾芭蕉「おくのほそ道」の関連資料、江戸から明治期に北前船(東北・北海道と関西間を日本海の港を巡りながら大きな商売をした商船)の寄港地として栄えた塩越湊などの様子も展示しています。

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  • 施設名称:にかほ市象潟郷土資料館
  • 所在地: 秋田県にかほ市象潟町字狐森31-1
  • 電話番号:0184-43-2005
  • 開館時間:9:00~17:00
  • 休館日:月曜日、国民の祝祭日および振り替え休日の翌日、年末年始(12月29日~1月3日)
  • 入館料:一般 150円、高校生およびその他の学生100円、小中生50円
  • URL:にかほ市象潟郷土資料館
  • アクセス:
    • 公共交通機関/JR羽越本線象潟駅から車で約3分
    • 車/日本海東北自動車道象潟ICから約3分

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