【宮城県登米市】後編①東北で広がるキリスト教、隠れキリシタンの里となった宮城県北、岩手県南地域(宮城県北、登米市東和町のキリシタン史跡)

【宮城県北・岩手県南地域】東北で広がるキリスト教、隠れキリシタンの里となった宮城県北、岩手県南地域(前編)では

  • 日本で広まるキリスト教
  • 東北にも広がるキリスト教

の2つに分けて東北地方の禁教本格化まで書かせていただきましたが、今回の後編では現在の宮城県北・岩手県南地域に実際に訪れ、今現在どのように殉教地として残っているのかを、現地の写真とともにご紹介します。

尚、殉教地とされている箇所・隠れキリシタンにまつわる場所は膨大にあるため説明文は簡易的なものとなります。ご興味ある方は記事内を確認していただき実際に訪れてみることを強くお勧めいたします。


宮城県北、登米市東和町米川のキリシタン史跡

カトリック米川教会

カトリック米川教会

昭和29年頃、カトリック仙台司教区(小林有方氏)が登米市東和町米川が殉教地であることを知り、カナダの信者の浄財をもとに建設、現在の聖堂は昭和32年11月に落成しました。尚、同時に幼稚園も竣工されカトリック米川教会の隣には「米川聖マリア愛児園」があります。

米川では昭和30年に3回にわたり、大よそ300名の集団での洗礼式が行われています。カトリック米川教会ではキリシタンの貴重な遺物が収蔵されています。

Information

  • 所在地 : 〒987-0901 宮城県登米市東和町米川町裏41−2
  • 駐車場 : 有り
  • 見学 : ご希望の方は下記電話番号までお問合せください。
  • 電話番号 : 0220-45-2054

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三経塚

海無沢三経塚

宮城県登米市東和町の綱木川を挟んで「朴ノ沢、海無沢、経ノ森」の3か所を三経塚と言います。

この地域は享保年間(1716~1735)に主に製鉄や鉱山で働いていた人たち120名が伊達藩により処刑されています。その遺体は40名づつ経分とともに葬られ、海無沢の経塚は現在も昔のまま残っています。

尚、他2か所「朴ノ沢、経ノ森」は原型を留めておらず、詳しい場所は地元民でもごく一部の人しか分かっていないとされています。

切捨場霊場

切捨場霊場

ここはキリシタンの大量の血を吸った所と伝えられています。

桐木場屋敷の人たちが代々の口伝により秘かに供養していましたが、同家が昭和57年に北海道に移住する際、隣家の近親者に初めて明かされ世に知れることとなりました。三段の石段を形造る川石の並べ方は当時のままであるとされ、十字架は昭和60年に管理者個人で隣人工人に依頼して作成建立されました。

昭和60年に制作された十字架

瞑想の丘

瞑想の丘

伊達藩は鉄の生産の増大を図るために炯屋(どうやー製鉄所)で働くキリシタンを保護していましたが元和6年(1620年)に一転し、キリシタンを厳しく取り締まるようになりました。

享保5年(1720年)炯屋で働いていた隠れキリシタン120名が密告され、この丘に集められ、切捨場霊場で前のキリシタンが両手両足に五寸釘を刺されながら悶え苦しみ死んでいく様を見せつけられていたとされています。

その様を嫌と言うほど見せつけられても誰一人転ぶキリシタンはなく、残酷な処刑で120名が殉教されています。

ロザリオ坂

ロザリオ坂入口

海無沢三経塚へは麓の綱木親和会館から登るのとは別に「ロザリオ坂」から登るルートもあります。このロザリオ坂は昭和28年に仙台教区の浦川司教がこの坂道を登り三経塚の上に立つ老松の幹に愛用のロザリオをかけて祈りをささげ下山した際にロザリオを忘れたきたことに気付き、直ちに従者が引き返したがロザリオはどこを探しても見つからず、その行方は謎に包まれたままとされています。

その後、浦川司教の道案内をしていた郷土史家の沼倉良之氏がそのエピソードを記念するためにこの坂道を名付けたとされています。

Information

  • 所在地 : 〒987-0901 宮城県登米市東和町米川 字西綱木
  • 電話番号 : 0220-53-4111(東和総合支所市民課)

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大柄沢キリシタン洞窟

米川里山だよりから拝借 – 大柄沢キリシタン洞窟内部

大柄沢キリシタン洞窟は現在、倒木と土砂の流入により立ち入る事ができませんでしたが、ここは昭和48年8月に発見された洞窟で大籠キリシタン殉教公園から西へ1500m山奥へ入ったところにあり、水平の水成岩層を堀抜いて造られています。

奥には岩壁に掘られた2段の祭壇と思われるものがあり、直径3cmの灯火用と思われる穴の中には長さ3cmのくぎ状の金属も原形をそのままに残されています。

東北の隠れキリシタンを語る上ではこれ以上ない貴重な遺跡とされています。

Information

  • 所在地 : 〒987-0901 宮城県登米市東和町米川大柄沢

後藤寿庵の碑

壽菴之墓

ここは伊達政宗公の家臣でキリシタン武士であった後藤寿庵終焉の地といわれています。

後藤寿庵は現在の岩手県奥州市水沢の領主であり、領民に対する仁政により大きな支持を得ており、現在も稼働している「寿庵堰」の元を作り「胆沢平野開拓の祖」とも言われている方です。

元和6年からの仙台藩のキリシタン取り締まりが厳しさを増し、政宗公からの「転宗せよ」との命令を拒み続けていましたが元和9年、ついに抗しきれず南部領に逃れたとされています。その後寿庵の足跡は全く途絶えていましたが寛永のはじめ、現米川の及川家の世話でこの地の山へ庵を建てて住み、その後西上沢に移り住んだと伝わっています。

ただ、この地での生活も長くは続かず、密告によって、ある朝役人に寝込みを襲われ成敗されたといわれています。墓はキリシタンであったことから立てることが出来ず、目印とした無名の丸石が寿庵の墓として長い間大事に供養されていました。

その後、昭和26年に宮城県史編纂委員によって碑が発見され、昭和29年に当時の米川村が供養碑として建立しました。

Information

  • 所在地 : 〒987-0901 宮城県登米市市東和町西上沢103

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後編②岩手県南、一関市藤沢町大籠地域のキリシタン史跡へ続きます。


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