【秋田県北秋田市】江戸時代には日本一といわれていた久保田藩を支えた阿仁鉱山
目次
阿仁鉱山(あにこうざん)は、秋田県の北部、岩手県に接する北秋田市に1986年(昭和61年)まで操業していた日本有数の銅山です。
院内銀山とともに久保田藩の財政を支えた阿仁鉱山
東北地方では、中尊寺金色堂(岩手県平泉町)や南部鉄器(岩手県)などに代表されるように、古くから近くの鉱山から産出する金、銀、銅などが使われていました。鉱山の多くが東北地方の分水嶺となっている奥羽山脈に存在しているのです。阿仁鉱山も秋田県と岩手県の県境となっている奥羽山脈内にあり、近くには尾去沢(おさりざわ)鉱山(鹿角市)、院内銀山(湯沢市)、小坂鉱山(小坂町)などが点在しています。
阿仁鉱山は阿仁地域に広がるいくつかの鉱山の総称
阿仁鉱山は旧阿仁町の阿仁川両岸に存在していたいくつかの鉱山の総称で、“阿仁鉱山”と名付けられた単独の鉱山は存在しません。阿仁ではじめて金が発見されたのは平安時代で、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が発見したと伝わっています。また13世紀には板木沢金山(後の真木沢銅山)が開山したともいわれていますが、いずれも伝承ではっきりしたことは分かりません。
阿仁エリアに鉱山があったということは、室町時代の古文書に初めて登場します。それによると阿仁川沿いには川を挟んで板木沢金山と向山銀山という2つの鉱山があり、大きな鉱山町が形成されていたのです。この2つの鉱山は、室町時代から戦国時代にかけてはその地を領有していた豪族(板木沢金山=高田氏、向山銀山=松橋氏)が経営していました。江戸時代に入り1602年に佐竹氏が秋田に入部してからは、1702年以降久保田藩(秋田藩)の直営となったのです。
江戸時代、阿仁鉱山一帯の人口は1万人超
久保田藩直営の阿仁鉱山には小沢銅山、三枚銅山、萱草(かやくさ)銅山、一ノ又銅山、二ノ又銅山、真木沢銅山の“阿仁六カ山”と呼ばれた銅山が稼働しており、1716年には阿仁鉱山の銅産出量が日本一になったのです。多いときには鉱山周辺の人口は1万人を超えたといわれるほど繁栄しました。阿仁鉱山は院内銀山とともに久保田藩の財政を支えました。
阿仁鉱山から産出する銅は、江戸幕府にとって貨幣原料であるとともに、海外への輸出品として重要視されました。最盛期には幕府の調達した銅のほぼ半分が阿仁鉱山の銅だったともいわれていて、久保田藩は大いに潤ったのです。
平賀源内が鉱山技術の改良に尽力
しかし、その賑わいも長続きはしませんでした。1750年代頃になると阿仁鉱山での銅の生産量が減り、財政困窮に追い込まれた久保田藩では、倹約するなどの対策に追われます。また、1770年頃には、日本で初めてエレキテル(摩擦型起電機)を製作した科学者であり、鉱物に関しても詳しかった江戸在住の平賀源内(ひらがげんない/1728年~1780年)を招き、鉱山技術の改良に取り組みました。その結果、阿仁鉱山から産出する銅から、銀を分離する製錬法が完成します。それにあわせて、経営を鉱山開発・経営に長けていた民間の大坂屋に任せることによって阿仁銅山の立て直しに成功したのです。
欧米からの“お雇い外国人”が鉱山技術の近代化を推進
明治政府はそれまで効率の悪い日本の技術だけに頼っていた鉱山技術の改革に乗り出します。そのため阿仁鉱山には1880年(明治13年)にドイツ人のアドルフ・メッケル(メツゲル)をはじめ、“お雇い外国人”と呼ばれていた欧米の鉱山技師5人が着任します。
メッケルは、阿仁鉱山各所で産出される鉱石を集約させることを計画します。三枚銅山と真木沢銅山などから鉱石を小沢銅山に運び、選鉱と製錬を一元化させることで、効率化を図るというもので、各鉱山から小沢銅山、製錬所への鉄道も敷設され、メッケルの計画は1884年(明治17年)に完成しました。それにより、阿仁鉱山の生産量は幕末の約3倍にまで増加したのです。
外国人技術者の宿舎跡は国の重要文化財
メッケルら外国人技術者のために1881年(明治14年)、2棟の居宅が建設されました。当時としては珍しいレンガ造りの建物ですが、メッケルは1882年(明治15年)に任期が終わり、阿仁鉱山を離れています。また他の外国人技術者も翌年までには全員離任したため、この建物が居宅として使われたのは4~5年間だけでした。その後は鉱山事務所、迎賓館、宿泊施設などに転用されましたが、2棟のうち1棟は1954年(昭和29年)に焼失してしまいました。残りの一棟は現存しており、1990年(平成2年)に国の重要文化財として指定を受けています。現在は北秋田市の所有となり『阿仁異人館』として一般公開されています。
古河財閥の礎を築いた阿仁鉱山
阿仁鉱山は、1885年(明治18年)に古河市兵衛(ふるかわいちべえ/1832年~1903年)に払い下げられます。市兵衛は1875年(明治8年)に渋沢栄一(1840年~1931年)の援助を受け草倉銅山(くさくらどうざん/新潟県鹿瀬町/大正3年休山)の経営をスタートさせ、1877年(明治10年)には足尾銅山(栃木県日光市)を買収して成長し、その後も足尾銅山(栃木県)や阿仁鉱山など多くの鉱山経営に携わり、古河鉱山(現古河金属機械株式会社)を中心とした古河財閥を形成した鉱山王です。
昭和末期に資源枯渇で休山に追い込まれる
阿仁鉱山は、古河鉱業に経営が移ってからも鉱脈の枯渇や世界的な銅価格の低下などもあって順風満帆な経営とはいきませんでした。明治時代の後半から昭和初期には阿仁六ケ山の多くが休山、閉山に追い込まれています。
それでも1936年(昭和11年)奥羽本線鷹ノ巣駅(北秋田市)から阿仁鉱山の最寄り駅である阿仁合駅まで阿仁合線(現秋田内陸縦貫鉄道)が開通します。さらに1938年(昭和13年)には新しい小沢選鉱場も建設され、銅山として活動は続けられました。小沢選鉱場跡は現在も残る数少ない阿仁鉱山遺構のひとつになっています。
しかし、1970年(昭和45年)7月に古河鉱業は、鉱源の枯渇により阿仁鉱山の生産を停止します。しかし、生産停止後も阿仁探鉱所として探鉱事業を継続した結果、いくつか鉱脈群を発見できたため、阿仁鉱山(株)を設立し採掘を再開しました。しかし、その事業も採算がとれるまでには至らず、1986年(昭和61年)9月に休山となり、事業休止の状態が長く続いています。休山後の鉱山は古河グループの足尾精錬株式会社阿仁鉱山により施設の管理や安全対策が行われています。※この項協力:古河金属機械株式会社経営企画部広報・IR課
明治時代初期に建てられた「旧阿仁鉱山外国人官舎」(阿仁異人館)
「阿仁異人館」は、1881年(明治14年)に建てられた秋田県最古の洋風建築です。建物は当時技師長として赴任したメッケルが設計したといわれており、ベランダや装飾された手すりのある階段、半円形の窓など造りは、和風建築しか見たことのない日本人にとっては驚きの連続だったようです。外壁に使われているレンガも、彼が指示して地元で焼かせたといわれています。
阿仁鉱山の資料や鉱山道具類を展示する「阿仁伝承館」
「阿仁伝承館」は、「阿仁異人館」に隣接して建てられた資料館で、阿仁鉱山で採掘されていた黄銅鉱(銅の原料)をはじめ、黄鉄鉱、石英などの鉱物標本や道具類、江戸時代の絵図などを収集、展示しています。また、阿仁地方に伝承されている、「根子番楽(ねっこばんがく)」(国指定重要無形民俗文化財)の民俗資料など民俗文化財も紹介。「阿仁異人館」とは地下通路でつながっています。
INFORMATON
- 施設名称:北秋田市阿仁異人館、北秋田市郷土文化保存伝承館
- 所在地:秋田県北秋田市阿仁銀山字下新町41-22
- 電話番号:0186-82-3658
- 開館時間:9:00~17:00(最終入館16:30)
- 入館料:おとな 400円、高校生、大学生、専門学校生 300円、小中学生 200円(北秋田市の小中学生は無料)
- 休館日:月曜日(祝休日の場合は翌日)、12月29日~1月
- URL:阿仁異人館・阿仁伝承館
- アクセス:
- 鉄道/秋田内陸縦貫鉄道阿仁合駅から徒歩で約5分
- 車/東北自動車道盛岡ICから約2時間10分