歴史

【福島県】福島県の戦国武将「群雄割拠で激しい勢力争い」

戦国時代の福島県は、今と同じく3つの地方、海道(浜通り)、仙道(中通り)、会津で大名や国人領主などが勢力拡大で争っていました。

これら国人領主たちは、鎌倉幕府の奥州藤原氏討伐(奥州合戦)後、領地を与えられた御家人の末裔がほとんどでした。

そして16世紀後半は会津の蘆名氏と、北の伊達氏が仙道を中心に争い、国人領主たちはそれぞれ集合離散を繰り返しました。

「武田信玄から高い評価を受けた」蘆名盛氏(あしな・もりうじ:1521~1580)

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蘆名氏は桓武平氏流の三浦氏の一族で、鎌倉幕府から会津を与えられて相模の蘆名から移り、蘆名家を起こします。16代当主の盛氏は、会津守護を名乗りながらも強大な伊達稙宗の影響を受けていましたが、伊達家の父子争いである天文の乱で、息子の晴宗に味方し勝利したことで大名としての地位を固めます。

実は盛氏は、父の稙宗方に付くつもりでしたが、稙宗方の田村氏と衝突したために晴宗方に付くことになったもので、これが晴宗を勝利に導くことになりました。

会津から仙道への進出

黒川城(会津若松城)を居城とした盛氏は仙道進出を企て、遠方の大大名である相模の北条氏康や甲斐の武田信玄と同盟を結び、蘆名の仙道進出を阻む常陸の佐竹氏をけん制します。そのなかで武田信玄が優れた武将として「丹波の赤井直正、近江の浅井長政、三河の徳川家康」とともに盛氏の名前を挙げたと伝えられています。

盛氏は内政も非凡で、金山開発や物流体制の整備で収入を確保したほか、家中の子どもを集めて「不断衆」と称させ彼らの話を聞き、見込みのある者を武将に取り立てて人材育成にも努めました。

盛氏の隠居と後継者問題

会津支配を盤石にした盛氏は、永禄4年(1561年)に嫡男・盛興に家督を譲り隠居しますが、当主としての実権は事実上握ったままでした。

しかし、仙道の二階堂氏、田村氏を降した年に盛興が急死します。盛氏にはほかに男子がおらず、人質の二階堂盛隆を後継ぎとしますが家中に反発が生じます。

天正8年(1580年)盛氏は60歳の生涯を閉じ、その後の跡目争いで蘆名氏は衰え、伊達との「摺上原の合戦」で大敗し没落したのでした。

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  • Google Map 会津若松城(鶴ヶ城)

「伊達政宗との死闘を繰り返した」相馬義胤(そうま・よしたね:1548~1635)

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戦国時代の海道は南が岩城氏、北の陸奥中村が相馬氏で2分されていました。相馬氏は桓武平氏の平将門の子孫とされ、鎌倉時代以前から今も続く神事「相馬野馬追」は、将門が領地に野生馬を放して軍事訓練をしたことに由来し、甲冑を着けて旗指物をなびかせた騎馬武者が勇壮に神旗を奪い合います。

16代当主・義胤は父・盛胤に従い幼いころから各地を転戦し、常に合戦にその身を置き、領地を接する伊達政宗とは何度も刃を交え、時には滅亡の危機に直面しつつも戦国を戦い抜き相馬中村藩の礎を築きました。

犬猿の仲の伊達政宗を巡る慶長出羽合戦でのエピソード

関ケ原の戦いの前、伊達政宗がわずかな供回りを連れて相馬領の通過と宿泊を求めてきました。政宗は国元から上杉領に攻め込むことを家康より命じられていましたが、仙道が上杉領であるため海道の相馬領を通過する必要があったのです。

相馬家中では「政宗を討ち積年の恨みを晴らすべし」との声が挙がりましたが、義胤は、老臣・水谷胤重が窮地の敵のだまし討ちを諫めたのを受け、政宗の通過と宿泊を許します。

関ケ原後に改易のピンチ!

義胤は東軍参戦を示していたが目立った働きがなく、当時の相馬氏が西軍の佐竹氏の与力であったために改易されかけますが、撤回の訴えを起こします。徳川家重臣本多正信のとりなしなどで何とか撤回され6万石の所領が安堵されました。義胤は88歳で死去しますが、遺言で甲冑と武器を身に帯び、伊達家のある北向きに埋葬させたと伝わっています。

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  • Google Map 相馬中村城跡

「伊達政宗の舅(しゅうと)」田村清顕(たむら・きよあき:生年不詳~1586)

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田村氏は日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫と伝わり、鎌倉幕府の御家人出身の国人領主が多い「街道七家」のなかで、田村氏だけが違っていました。清顕はその第25代当主で三春城を居城とし、知略に明るく武に優れた武将として評価が高く、群雄割拠の仙道で田村氏の存続をかけて、一人娘の愛(めご)姫を政宗に嫁がせたことが慧眼だったとされています。

清顕没後の田村家

愛姫のほかに子はおらず、1586年に清顕が急死すると田村家中は家督相続で分裂します。ここから相馬・佐竹・蘆名・二階堂の連合軍と伊達・田村連合軍による郡山合戦が起こり、伊達・田村連合軍が勝ち、田村・伊達両家はさらに結び付きます。

まとめ

小勢力が林立していた福島県内で、名を残した戦国武将はほかにもいます。とくに仙道と呼ばれた中通りは、伊達・蘆名・佐竹など周辺の大大名の影響下で小勢力が争う状況でしたが、そのなかで幕末まで続いたのは、浜通り中村藩の相馬氏だけでした。

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