【連載①:前九年の役・後三年の役】平安時代末期の奥羽戦役はなぜ起こったのか?
目次
「奥州十二年合戦」とも呼ばれ、平安時代末期に陸奥(むつ)と出羽(でわ)、現在の岩手県と秋田県が戦場となったこの戦いは、ただの局地戦ではなく鎌倉時代への架け橋となった戦役です。
この2つの戦いが異国との戦争を表す「役」と呼ばれたのは、当時の朝廷が意に従わない東北の住民を「蝦夷(えみし)」と呼び「異国」とみていたからでした。
朝廷から派遣された国司に税を搾り取られ、国府軍の略奪に遭うなど住民の不満は高まり、奥六郡(岩手県内陸部)の統治を任されていた安倍(あべ)氏は、反攻の姿勢を見せるようになります。
前九年(ぜんくねん)の役・後三年(ごさんねん)の役とは?
前九年(ぜんくねん)の役・後三年(ごさんねん)の役とは1051年(永承6年)~1062年(康平5年)と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)にかけて、東北(岩手県および秋田県)で戦われた2つの戦役です。
前九年の役は、陸奥(岩手県)で勢力を伸ばす安倍(あべ)氏の反乱を、朝廷から派遣された源氏の将軍が清原(きよはら)氏の助力を得て平定した戦役を指しています。
その役後、陸奥から出羽の国にかけて支配を強めていた清原氏に内紛が起こり、そこから始まった家督争いが戦いに発展したのが後三年の役で、これにも源氏が深くかかわることになります。
この2つの戦役によって岩手県平泉に奥州藤原氏が興り、源氏と東国武士との絆が深まり、やがて源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉に幕府を開くことの礎となったのでした。
平安時代の東北地方情勢について
このころの東北地方のほとんどは、大和朝廷に従いながらも完全には組み込まれておらず、蝦夷と呼ばれて属国のような扱いをされていました。
前九年の役が起こる1051年から250年ほど前、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が桓武天皇から征夷大将軍を任じられて蝦夷の首長の阿弖流為(アテルイ)を降伏させます。
しかし、敗れたとはいえ強大な力を持つ蝦夷を大和朝廷は完全に服従させることが出来ず、遠く離れていることもあって、現地の統治を蝦夷に任せて税を納めさせる形での支配を行います。
そのなかで平安末期に統治を任された安倍(あべ)氏が勢力を拡げ、やがて朝廷側が築いた柵を越えてその支配下地域に侵攻するほどになっていました。
前九年の役はこうして起こった
「奥六郡(おくろくぐん:岩手県胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡)」を統治していた安倍頼良(あべのよりよし)は、力を蓄えながら次第にその版図を拡大する動きを見せはじめます。
そのため朝廷が設置した柵を越えて南下する事態がしばしば起こり、朝廷が設置していた陸奥鎮守府(むつちんじゅふ)との間で緊張が高まります。
朝廷からの安倍氏追討命令は出されていませんでしたが、陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)は、安倍氏が納税を拒み続けながら勢力を強めて行く状況を「よし」とはしませんでした。
そして1051年、藤原登任と秋田城介(あきたじょうすけ)とも呼ばれる出羽国司・平繁成(たいらのしげなり)の連合軍は、安倍頼良を討ち果たすべく、安倍氏の勢力圏のはるか南にある鬼切部(おにきりべ:宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)で対峙し、前九年の役が始まりました。
安倍軍の強さを示した鬼切部の戦い
鬼切部では安倍頼良が鬼切部城を築き、天然の要害のこの城を拠点に安倍軍はさらに南下する動きを見せ、国府の多賀城を発した朝廷軍は平繁成と合流し、鬼切部城を落とそうと攻めかかります。
そして、鬼切部城の東にある荒雄岳の山頂に到達すると、そこから雪崩のようにふもとに陣を構えていた朝廷軍に襲いかかります。
後ろからの奇襲に驚いた朝廷軍は総崩れとなって大損害を出して退却し、藤原登任は命からがら逃げ戻り、安倍軍の大勝利に終ったのでした。
この時、安倍頼良の息子である安倍貞任(あべのさだとう) 、宗任(むねとう)兄弟の別働隊が、衣川(ころもがわ)の柵から祭畤(まつるべ)、須川(すかわ)を経て栗駒山を越えて接近していました。
鬼切部城跡<Information>
- 史跡名:鬼切部城跡
- 所在地:宮城県大崎市鳴子温泉鬼首
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源頼義(みなもとのよりよし)の登場
安倍軍に敗れた藤原登任はその責任により更迭され、後任の陸奥守には河内源氏(かわちげんじ)の源頼義が任命され、さらに鎮守府将軍をも兼任する形で軍の統括も委ねられて鎮圧に向かいます。
しかし、頼義が多賀城(宮城県多賀城市)に到着すると安倍頼良は恭順の意を示し、諱(いみな)の「よりよし」が同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と改め従う姿勢をみせたのです。
さらに朝廷では、国母である上東門院(じょうとうもんいん:藤原道長の娘)の病気平癒祈願の恩赦が発表され、安倍氏が許された事もあって、奥州の争乱は収拾されることとなったのでした。
源頼義を生んだ河内源氏とは?
「源氏」とは臣として降下した皇族のことで「平氏」もまた同じであり、さまざまな系統があります。
河内源氏は第56代の清和天皇から別れた「清和源氏」の系統で、頼義の父である源頼信(みなもとのよりのぶ)を祖として、河内国壷井(大阪府羽曳野市)を本拠地としたためこの名で呼ばれました。
源頼信が坂東で起きた「平忠常の乱」を平定したことから武門の家とされ、その武威は蝦夷にも届いていたとみられ、安倍頼時が「敵わない」として頼義に平伏したとの見解もあります。
河内源氏の嫡流は源頼朝(みなもとのよりとも)に繋がり、庶流として武田氏・佐竹氏・足利氏・新田氏・今川氏などがあり、東北所縁の武家では南部氏の祖でもあります。
壷井八幡宮<Information>
- 施設名:壷井八幡宮
- 所在地:大阪府羽曳野市壺井605-2
- 電話番号:072-956-2824
- URL:壷井八幡宮公式サイト
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まとめ
武勇で知られる河内源氏の源頼義の登場によって、1052年に「前九年の役」は終わりを迎えるかと思われました。
しかし4年後に起こる「阿久利川事件」により、再び国府軍と安倍軍は戦闘状態に陥り、しばらくはどちらが有利ともつかない一進一退の戦況が続くことになります (前九年の役・後三年の役②へ続く)。