【連載⑥:前九年の役・後三年の役】清原一族の内紛から家督争いに、私戦とされた後三年の役
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清原真衛(きよはらのさねひら)が病死したことで、清原氏の内紛は一度収まりを見せます。
真衛の所領であった奥六郡は、陸奥守(むつのかみ)の源義家(みなもとのよしいえ)の裁定により、家衛(いえひら)と清衛(きよひら)の2人の兄弟に3郡ずつ分け与えられました。
しかし、このことがきっかけとなって、兄弟間の家督争いが勃発することになりました。
前九年の役・後三年の役(ぜんくねんのえき・ごさんねんのえき)とは?
平安時代末期の1051年(永承6年)~1062年(康平5年)と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)にかけて、東北(岩手県および秋田県)で戦われた2つの戦役です。
前九年の役は、陸奥(むつ:岩手県)で勢力を伸ばす安倍(あべ)氏の反乱を、朝廷から派遣された源氏が清原(きよはら)氏の助力によって平定した戦役です。
そして、その後に陸奥から出羽(でわ:秋田県)にかけて支配を強めていた清原氏に内紛が起こり、そこからの家督争いが戦いに発展したのが後三年の役で、ここにも源氏が深くかかわります。
この2つの戦役によって岩手県平泉に奥州藤原氏が興り、源氏と東国武士との絆が深まり源頼朝(みなもとのよりとも)の鎌倉幕府につながっていきます。
義家の領地分配に不満をつのらせる家衛
義家が家衛と清衡に陸奥の奥六郡をどのように分け与えたかは、確実な記録が残っておりません。
一説によると、家衛に岩手郡・紫波郡・稗貫郡の北三郡を、清衡に和賀郡・江刺郡・胆沢郡の南三郡を与えたとされていますが確証はありません。
肥沃な平地が多く作物の収穫が多い南三郡に比べ、山が多く農地が少ない北三郡を与えられた家衛は、義家の沙汰に納得できず不満を感じていたと言われています。
その根底には、同じ母を持つ2人ながら清原武貞(きよはらのたけさだ)の血を引く家衛は、藤原経清(ふじわらのつねきよ)を父に持つ清衡と違い、自分が正当な後継ぎとの意識があったようです。
義家が奥六郡を半分ずつ分けたのはなぜ?
真衛の死後、後継ぎとされていた養子の成衛(なりひら)は討ち死にしたとも、義家に守られて下野(しもつけ:栃木県)に落ち延びたとも言われていますが、不明です。
真衛の跡目を家衛が継いだとする記録は残されておりませんが、家衛の居館は出羽にあり以前からの清原氏の所領だった出羽三郡は家衛が治めていたとされ、実質的には家衛が棟梁だったと思われます。
それが奥六郡を面積のうえでは平等に半々にされ、しかも実りの多い地域を清衡に与えられたのですから心中穏やかではなかったのでしょう。
ただ、この家衛の反発を義家が予測していて、あえて平等にすることで家督争いを起こさせそれに関与することで、清原氏や奥羽での影響力を強めようとしたのではないかとする説があります。
義家の都での評価は弟の義綱(よしつな)に比べて低く、河内源氏の求心力は義綱にあるとされていて、義家が清原家の内紛を利用して東国の坂東や奥羽に活路を見出そうとしたのかもしれません。
家衛が清衡を急襲!清衡は義家に援軍を求める
1086年(応徳3年)家衛は突如、清衡の館を襲撃し、清衡はからくも脱出できたものの妻とこどもなど一族をすべて殺害されてしまい、義家に助けを求めます。
家衛の襲撃に激怒した義家は、家衛を討つとして朝廷に弟の義綱の派遣を要請しますが認められず、自分の手勢と清原勢で家衛がこもる沼柵(ぬまのさく:秋田県横手市)を攻撃します。
清衛を支援した陸奥守が敗れた沼柵の戦い
義家と清衡の連合軍は、柵を攻撃するための攻城戦の用意が無かったとされ、攻めた時期が冬ということもあって苦戦した挙句に退きます。
家衛の叔父の武衛(たけひら)は武門の誉れ高い源義家に勝ったことを喜び、味方として参じるとともに、難攻不落とされた金沢柵(かねざわのさく:秋田県横手市)で連合軍に抵抗することを提案します。
悲惨な兵糧攻めとなった金沢柵の戦い
朝廷は清原家の争いを私戦と判断し、義家に援軍を送るどころか、「奥州合戦停止」を伝える官使の派遣を決定するだけでした。
そこで兄の苦戦を聞き及んだ義家の弟の1人である義光(よしみつ)が、朝廷に無断で官職などすべてを投げうって陸奥に下向します。
1087年(寛治元年)の秋、義家・清衡連合軍は、金沢柵の家衛・武衛を攻めますが守りが堅いこの柵をなかなか落とせず、連合軍は兵糧攻めで落としたのでした。
家衛と武衛は柵から逃亡して潜んでいるところを捕らえられて、斬首されました。
こうしてつまらない身内の内紛から始まった後三年の役(後三年の合戦とも呼ばれる)は終結を迎え、清原氏は血のつながりのない清衡が棟梁となったのでした。
後三年の役の詳細と案内はこちら
後三年の役(後三年の合戦)について、より詳しく解説された記事があります。もう少し詳しく知りたい方や柵跡などを訪れてみたい方は、こちらの記事もご参照ください。
【秋田県横手市】横手盆地で繰り広げられた骨肉の争い「後三年合戦」
まとめ
後三年の役について、朝廷はあくまで義家の私戦でしかないとして、恩賞はもちろんかかった戦費の支払いも無いうえに、義家は陸奥守を解任されてしまいました。
また、戦費を朝廷に収める税から調達していたため、その咎めもあってしばらく官職に付けないなど不遇の時間を過ごすことになります(前九年の役・後三年の役⑦最終回へ続く)。