会津東軍墓地「阿弥陀寺」

【福島県会津若松市】戊辰戦争における会津藩戦没者埋葬地と新選組「斎藤一」の墓がある阿弥陀寺

福島県会津若松市の中心市街地西寄りに位置する七日町。

藩政時代は越後街道、米沢街道などが通り、街道沿いには旅籠、料理屋が並び、近代、昭和の中頃からは会津一の繁華街として賑わっていた地域です。現在では大正ロマンを感じるレトロな洋館づくりの蔵や木造建物が並ぶ観光スポットとして観光客を楽しませています。

そしてこの七日町の一角にある阿弥陀寺(あみだじ)には、幕末の時代、戊辰戦争(会津戦争)にて命を落とした会津藩士の墳墓と、会津藩とともに新政府軍と戦った新選組三番隊組長「斎藤一(藤田五郎)」の墓が存在します。


良然上人により開基された浄土宗の寺院「阿弥陀寺」

阿弥陀寺の本堂と御三階
阿弥陀寺の本堂と御三階

阿弥陀寺を開基した良然上人は元々、陸奥国安積郡(現在の郡山市~二本松市周辺)の善導寺の住職でしたが、あるとき病を患ってしまい、その湯治治療のため会津の東山温泉を訪れました。

その際、会津蒲生家の家臣だった板倉修理の勧めで会津に移り住むこととなり、板倉修理、倉田為実など、多くの人間の尽力によって1603年に阿弥陀寺が開基されたといわれています。

当時の阿弥陀寺は仏殿・衆寮・方丈・小院など、様々な建物を備える立派な寺院で、多くの人々が集まり隆盛を極めました。

しかし、四代目良頓住職の時代に大火に遭い寺の建造物は全て失われてしまいます。さらに年を経ると、檀家や城下の他寺と衝突するなど多くの問題を抱え、寺は徐々に衰え、幕末頃には復旧が困難なほどに荒廃しつくしていたようです。


戊辰戦争の会津藩戦没者の埋葬地に指定される

幕末期、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争(会津戦争)では、両陣営に多くの戦死者を出しました。

1868年9月22日(新暦11月6日)の鶴ヶ城開城後、新政府の民政局が設置され、鶴ヶ城(会津若松城)城郭内外に放置された遺体を埋葬するようにという通達が出されます。しかし埋葬の作業期間は10月7日から15日までのわずか9日間しかなく、満足な埋葬作業は行われませんでした。

融通寺に接して設けられた西軍墓地に手厚く葬られた新政府軍の戦死者に対し、粗末に葬られた会津藩の戦死者の亡骸には様々な問題が発生し、後に改葬(埋葬地を移すこと)するように指示が出されます。その改葬先の一つとなったのが当時荒廃しきっていた阿弥陀寺でした。

阿弥陀寺の明治戊辰戦争殉難者墓
阿弥陀寺の明治戊辰戦争殉難者墓

阿弥陀寺への改装作業は明治2年(1969年)の2月24日(新暦4月5日)から4月22日(新暦で6月2日)の約二か月間をかけて行われ、約1300名の遺骸が埋葬されたといわれています。

現在の墓域は立ち入り禁止となっており、取り付けられた柵には会津松平家の家紋「会津葵紋」が確認できます。


新選組三番隊組長「斎藤一(藤田五郎)」の墓所

映画、小説、アニメと、現在でも様々なメディアで取り扱われるほどの人気を誇る新選組。その新選組の三番隊組長であった斎藤一(藤田五郎)の墓所もここ阿弥陀寺に存在します。

新選組は旧幕府軍の一部隊として戊辰戦争に参戦し、1868年1月の鳥羽・伏見の戦い、3月に甲州勝沼、4月の宇都宮城の戦いと転戦を繰り返しながら北上し、若松城下に入りました。

その後は会津藩の指揮下に入り、白河口の戦い、母成峠の戦いなどに参加します。徐々に敗色が濃厚となってくると新選組の土方歳三らは庄内、仙台への北上転戦を決定します。

1897年に撮影された斎藤一(藤田五郎)
1897年に撮影された斎藤一(藤田五郎) 出展:Wikipedia

しかし斎藤は「新選組を庇護してくれた会津藩を見捨てることはできない」と十数名の新選組隊士とともに会津に残留し、新政府軍への抵抗を続けました。

1868年9月22日(新暦11月6日)に会津藩が降伏開城したあとも戦い続け、会津藩主 松平容保が派遣した使者の説得によりやっと投降したそうです。

投降後は、捕虜としての謹慎や斗南藩(現在の青森県)への移住と、会津藩士と行動を共にし、この斗南藩の滞在中に会津藩の藤田家の養子となり藤田五郎と改名しています。

新選組の斎藤一(藤田五郎)の墓所
新選組の斎藤一(藤田五郎)の墓所

その後は東京へと移住し警視庁に勤務。1877年に九州で起きた「西南戦争」にも警官隊として参戦しました。

警視庁退職後は東京高等師範学校の撃剣師範や同校附属東京教育博物館の守衛長などを勤め、1915年に胃潰瘍のために東京にて死去しました。享年72歳。

「死後は会津に葬ってほしい」という本人の遺言から、この阿弥陀寺の藤田家の墓に葬られました。


寺の仮本堂として移築された鶴ヶ城の櫓「御三階」

1971年、戊辰戦争の戦闘中に発生した火災によって消失した阿弥陀寺の本堂の仮本堂として、鶴ヶ城にあった御三階(おさんがい)が移設されました。

外側から見ると3層の建物ですが、内部は4層になっており、物見の他に密談や秘密会議の場所として使われていたといわれています。

阿弥陀寺の御三階
阿弥陀寺の御三階

もともとは鶴ヶ城の物見櫓であったため、仮本堂としての体裁を整えるために本丸御殿の玄関の一部である唐破風(からはふ)を継ぎ足して移築されました。

当時の鶴ヶ城の遺構として唯一現存する貴重な建築物です。

阿弥陀寺<Information>

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