【戊辰戦争時の山形県】庄内・米沢・山形・上ノ山・天童・新庄各藩の決断とは?
目次
戊辰戦争時の山形県内では、会津藩とともに朝敵とされた庄内藩を巡る戦いが展開されます。
県内は庄内藩17万石と米沢藩18万石のほかは5万石以下の小藩であり、大藩の動きにほんろうされながらも、それぞれ生き残りをかけて奮闘しました。
領民の信頼厚く豪商が支えた東北最強・庄内藩
11代藩主の酒井忠篤(さかい・ただずみ)は徳川四天王の酒井忠次(さかい・ただつぐ)の嫡流で、酒井家17代当主です。
鶴岡市に居城の鶴ケ岡城、酒田市に亀ヶ崎城を構え、2つの支藩がありました。
戦争では清川口の戦いで官軍を撃退し、新庄城、天童城を落とし、さらに秋田の横手城も落とすなど圧倒的な強さを見せています。
総兵力4,000名の半数が町民や農民の志願兵で、300人以上の死傷者を出しても、最後まで戦い抜きました。
庄内藩はなぜ朝敵とされたのか?
藩主・忠篤は有力譜代大名として江戸市中取締役を命じられ、警備組織の新徴組を預かり、治安が悪化していた江戸市中の治安を回復させました。
朝廷から倒幕の密勅を受けた薩摩が薩摩御用盗を組織し、犯罪行為による挑発を行っている事実をつかみ、庄内藩は幕府の命で他藩とともに薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちします。
これが戊辰戦争の口火となり、薩摩藩の恨みを買い朝敵とされたのでした。
なお、庄内藩は列藩同盟には入らず、会津藩と会庄同盟を結んでいます。
庄内藩を支えた豪商、本間家
庄内藩を財政で支えたのは酒田の豪商・本間家で、献金で最新式兵器を購入し、庄内藩の装備は官軍以上に充実していました。
また、戦後に藩主・忠篤は謹慎、領地没収となりましたが、本間家を中心に藩士・商人・地主などが明治政府に30万両の献金を行い、忠篤は12万石の減封で藩主に復帰しています。
この庄内藩への寛大な措置は、薩摩の西郷隆盛(さいごう・たかもり)のおかげとされています。
鶴ヶ岡城跡<Information>
- 名 称:鶴ヶ岡城跡
- 住 所:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町4
- URL:鶴岡市HP
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奥羽越列藩同盟の副盟主・米沢藩
上杉家の28代当主で、米沢藩12代藩主の上杉斉憲(うえすぎ・なりのり)は名君として名高い人物でした。
戦前の藩論は、割れていましたが、かつてお家断絶の危機に会津藩主・保科正之(ほしな・まさゆき)の取り計らいで免れた恩義から、斉憲は会津藩と新政府との仲介を務めようとします。
しかしこのことで新政府側から怪しまれて朝敵とされ、列藩同盟の副盟主となりました。
新政府への恭順
列藩同盟に参加した米沢藩でしたが、縁戚の土佐藩主・山内豊資(やまうち・とよすけ)からの勧告を受け、新政府に恭順を示し列藩同盟から離脱します。
戦後18万石から14万石に減封、斉憲は家督を長男・茂憲に譲り隠居します。
米沢城跡<Information>
- 名 称:米沢城跡
- 住 所:〒992-0052 山形県米沢市丸の内1丁目4−13
- URL:やまがたへの旅HP
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大藩の狭間でほんろうされる小藩その1・山形藩
近隣の大藩に従い列藩同盟に加入しますが、藩主・水野忠弘(みずの・ただひろ)は13歳で、同盟加入当時は隠居していた父・忠精(ただきよ)とともに上洛中でした。
同盟加入は国元筆頭家老・水野元宣(みずの・もとのぶ)が責を負って処刑され、忠精、忠広親子は、近江(滋賀県)の朝日山藩5万石に移封されました。
山形城跡<Information>
- 名 称:山形城跡
- 住 所:〒990-0826 山形県山形市霞城町1
- URL:山形城公式HP
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大藩の狭間でほんろうされる小藩その2・上ノ山藩
米沢藩と山形藩の間にあり、列藩同盟入りして官軍についた久保田藩攻めに参加します。
南の米沢藩が恭順したことで、背後からの攻撃をおそれ兵を引き揚げて恭順を示し、戦後3万石から2万7千石に減封、藩主・松平信庸(まつだいら・のぶつね)は隠居、家督は異母弟の信安(のぶやす)が継ぎました。
上山城郷土資料館<Information>
- 名 称:上山城郷土資料館
- 住 所:〒999-3154 山形県上山市元城内3−7
- URL:上ノ山城公式HP
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新政府からの命令を断れなかった・天童藩
藩主は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)から9代目、天童藩2代藩主の信学(のぶみち)です。
戦争直前に新政府から上洛命令を受け、病のため嫡男・信敏(のぶとし)を上洛させたところ、奥羽鎮撫使先導に任じられたことで官軍側につきました。
官軍の新庄攻めを先導しましたが、新庄軍の猛反撃で逆に天童城を焼き討ちされました。
その後列藩同盟に加入して官軍に降伏、3代藩主の信敏は隠居しますが、後に許されて再び藩主となりました。
天童城跡<Information>
- 名 称:天童城跡
- 住 所:〒994-0000 山形県天童市大字天童字城山
- URL:天童市HP
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列藩同盟と官軍の間で揺れ動く・新庄藩
藩主の戸沢氏は鎌倉時代からの出羽の豪族でしたが、関ケ原の後、常陸に移封された後に再び出羽に戻り新庄藩を起こします。
庄内攻めの官軍が領内を通過したことで、行動をともにしますが敗退します。
その後、列藩同盟として庄内藩と共闘しますが、久保田藩が官軍についたことで離脱します。
ゆえに庄内藩に攻め込まれ、新庄城は落城して11代藩主の戸沢正実(とざわ・まさざね)は久保田藩に落ち延びますが、戦後に加増されました。
新庄城跡<Information>
- 名 称:新庄城跡
- 住 所:〒996-0085 山形県新庄市堀端町6−86
- URL:新庄市HP
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まとめ
戊辰戦争での山形県諸藩では庄内藩の強さが際立っていましたが、これは酒田の豪商の経済的な支えと、新兵器を取り入れる先見性があったためとされています。
とある雑誌で「幕末の雄藩最強ランキング」という企画がありましたが、庄内藩は第5位にランキングされ、東北最強藩として仙台藩よりも上位でした。