歴史

【岩手県】戊辰戦争と奥羽越列藩同盟、盛岡藩と一関藩の事情と決断とは?

東北一帯が戦場となった戊辰戦争において、岩手県内は戦場にはなりませんでした。

当時の岩手県は北半分強が南部氏の盛岡藩、南の半分弱が仙台藩とつながりが深い一関藩で、

盛岡藩も一関藩のどちらも奥羽越列藩同盟に参加していたために戦いがなかったのでした。

三日月の丸くなるまで南部領・盛岡藩

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清和源氏から甲斐源氏の流れを汲む南部氏は戦国時代、24代当主・晴政(はるまさ)の時に最盛期を迎えました。

その時の広大な領地を指してうたわれたのが「三日月の丸くなるまで南部領」との文言でした。

これは、南部領を通過しようと、端から端まで歩いて移動すると、三日月が満月になるほど日数がかかるほど広いとの意味です。

それほど広い領地でしたが、津軽が独立し八戸藩と分割されるなどして、表向きは10万石の外様大名でしかなく、後に高直しによって20万石とされますが、藩政の内実は非常に苦しいものだったとされています。

割れる藩論と2人の家老・楢山佐渡と東政図

南部氏40代当主で盛岡藩15代藩主の利剛(としひさ)は文武奨励に積極的で、温厚で争いを好まない性格から政務の決定を重臣に委ねていました。

そのため家老の楢山佐渡(ならやま・さど)と東政図(ひがし・まさみち)の対立を激化させたとも言われ、列藩同盟参加を主張する楢山派と、官軍への参加を主張する東派に分かれ藩論が定まりませんでした。

仙台藩の軟禁から逃れた奥羽鎮撫総督府一行が盛岡に到着した際も、藩主・利剛は一行に1万両を献金したものの、旗色は曖昧なまま一行を秋田に送り出しています。

新政府要人と接触した楢山佐渡は打倒薩長を決意

1868年、楢山佐渡は鳥羽・伏見の戦いが終わったばかりの京都へ御所警備のために赴任します。

そこで我が物顔の薩摩と長州長藩士の行動を苦々しく思い、面談した西郷隆盛(さいごう・たかもり)を「作法を知らず格式もなく、天下の政治をとる人物でない」と評価しています。

さらに、岩倉具視に面会し「武力を持たない朝廷は薩長に委ねているが将来を憂いている」、「彼らと戦えるのは奥羽諸藩しかなく、立ち上がれば日和見の藩が呼応するだろう」と諭され、新政府に対抗する決意をしたとされています。

さらに帰国途中に仙台藩家老の但木土佐(ただき・とさ)と会見し、帰国後は優勢だった勤皇派を抑え込み、奥羽越列藩同盟への参加へ藩論を統一しました。

三閉伊一揆と楢山佐渡と仙台藩

楢山佐渡が22歳の若さで家老になった1853年、岩手県の沿岸部で「三閉伊一揆」が起こります。

江戸時代でも最大規模とされるこの一揆を鎮める際に、楢山佐渡は仙台藩の力を借り、さらに幕府への報告をしないように依頼して盛岡藩を救いました。 このことから列藩同盟への参加は、仙台藩の恩義に応える意味があったともみられています

秋田戦争と盛岡藩

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1868年旧暦の8月9日に盛岡藩は久保田藩側に宣戦布告し、鹿角地区(秋田県鹿角市)に将兵を集め、楢山佐渡が陣頭に立って大舘城を目指して進軍し、藩境の十二所地区を落とします。

22日の朝5時に大館城の総攻撃を開始し、激戦の後、久保田藩兵は総崩れとなり、大舘城代の佐竹大和(さたけ・やまと)は城に火をつけ脱出し、盛岡藩兵が城内に突入して落城しました。

きみまち阪の攻防戦

久保田城を目指す盛岡藩に対して、久保田藩は難所の要害である「きみまち阪」を防衛拠点として、到着した佐賀藩兵の前衛とともに迎え撃つ態勢を整えます。

8月25日に盛岡藩は要害に対し本道と間道から攻撃するも、抜くことができず撤退します。

さらに佐賀藩本隊300名が最新式のアームストロング砲や銃とともに到着し、盛岡藩は大きく後退しました。

岩瀬会戦と大館戦、そして降伏へ

9月2日早朝からの岩瀬会戦は盛岡藩の戦いのなかで最大の激戦となりました。

楢山佐渡の指揮のもと盛岡藩は奮闘し、一時は佐賀藩を撤退寸前まで追い詰めますが、最新式兵器を持つ官軍に次第に押され昼過ぎには撤退します。

その後、大舘城周辺で激戦が展開されますが、退路を断たれることを恐れた盛岡藩は藩境まで撤退し、22日に降伏するまで藩境を守り抜いたのでした。

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  • Google Map 盛岡城跡

仙台藩の支藩から外様大名の田村氏へ・一関藩

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一関藩は仙台藩の内分分地(伊達家の分家)から始まり、その後の田村氏も伊達家から分地されて立藩したことから戊辰戦争では仙台藩と行動をともにします。

田村氏は坂上田村麻呂の子孫とされ、伊達政宗の正室・愛姫の実家でもあります。

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  • Google Map 一関城跡

まとめ

奥羽越列藩同盟に参加する前の盛岡藩では新政府派が優勢でした。

敗れて盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡は、留守中に藩を掌握した勤王勢力によって捕縛され、その翌年、敗戦の責を負わされ盛岡市内の法恩寺にて処刑されます。

辞世の歌は「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道」でした。

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盛岡を愛し東北六県を愛し、歴史・グルメ・旅行・スポーツ・お酒・合唱大好きな元江戸っ子オヤジです。
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