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【青森県】金沢と青森を12時間かけて結んだ急行「しらゆき」
目次
今(2025年)から40年程前まで、石川県の金沢駅から青森県の青森駅までを、12時間以上かけて走る急行列車が運行されていました。
急行「しらゆき」という列車です。
運行区間・時間の長さや、電車で運行できる設備が整っても最後まで電車にされなかったことなど、現在のJRの列車では考えられないような特徴を持っていました。
770km以上を走った急行「しらゆき」
急行「しらゆき」が運行を開始したのは、JRがまだ発足していない国鉄時代の1963年のこと。
当初は金沢駅から秋田駅までの下り列車と、青森駅から金沢駅までの上り列車の1日各1本が運行されました。
運行開始翌年の1964年10月の時刻表によると、下り列車は金沢駅を6時45分に出発。
途中の主な停車駅は、高岡、富山、糸魚川、直江津、柏崎、長岡、新津、新潟、新発田、坂町、鶴岡、酒田、羽後本荘。
北陸本線(当時。現在はJRの北陸本線ではなくなっています)、信越本線、羽越本線、白新線、奥羽本線といった日本海沿岸の路線(以後まとめて「日本海縦貫線」と呼びます)を延々と走り続けて、秋田駅には17時5分の到着でした。
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上り列車は青森駅を6時25分に出発。
上りの「しらゆき」には、秋田駅まで「あけぼの」という別の急行列車が連結されていました。
秋田駅までの主な停車駅は、弘前、大館、鷹ノ巣、東能代。
秋田駅で「あけぼの」とわかれたあとの主な停車駅は、下りの「しらゆき」と同様でした。
終点の金沢駅には20時36分の到着。
運行区間長は770kmを超えており、所要時間的にも14時間11分もの長旅でした。
1965年には下り列車が青森行きに延長され、上下共に金沢駅~青森駅間での運行となります。
この時代の青森駅には、青函連絡船が発着していて、青森駅から船に乗って北海道の函館駅へ渡ることができました。
しかし「しらゆき」と青函連絡船の乗換待ち時間は上下共に2時間程度と長く設定されていました。
後年には「しらゆき」と青函連絡船との接続が全くなくなるので、この列車は青森駅から北海道へ渡る人たちや、北海道から来る人たちからの需要を見越した列車ではなかったことがうかがえます。
また、既に日本海縦貫線では、大阪駅と青森駅を結ぶ特急「白鳥」が、1961年から運行を開始していました。
北陸地方と東北地方を直結する旅客輸送は、主に「白鳥」が担っていたと考えられます。
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こうした理由で「しらゆき」を金沢駅~青森駅の全区間にわたって利用する旅客は少なかったのです。
金沢駅から新潟駅まで、新潟駅から秋田駅や青森駅までといった具合に、一部区間だけを利用する旅客が多く、主要な駅では車内の多くの乗客が入れ替わっていたようです。
電車にできるはずなのに引き続き気動車で運行
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Olegushka – 投稿者自身による著作物, CC0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=156459014による
「しらゆき」には、1963年の運行開始当初より、キハ58系気動車という車両が使用されていました。
当時の国鉄の路線は、主要な幹線であっても電車が走行できる設備がない非電化の路線がまだまだ多く、軽油を燃料として走る気動車が幅広く使われていました。
キハ58系は、そんな国鉄の気動車の中でも数多く作られたグループの車両です。
日本海縦貫線では、電車が走れるように電化が進められていき、1972年に全線の電化が完成しました。
そこで1972年10月に、特急「白鳥」は早速、キハ82系気動車から485系という電車に車両が変更されています。
485系もまた、国鉄の特急形電車の中でも数多く作られたグループの車両です。
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Gohachiyasu1214 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=123866005による
一方で「しらゆき」は気動車のまま存置されました。
電車で運行することが可能になったにもかかわらず、気動車のままだった理由として、2つが考えられます。
1つは「しらゆき」を電車に変更しようにも、調達できる急行形電車が足りなかったのだろうということ。
特に「しらゆき」の運行区間では、西側から順に交流60Hz、直流、交流50Hzの3つの電化方式が存在したため、電車に変更するためには、3種類全ての電化方式に対応した高価な電車を用意する必要がありました
(当然のことながら特急「白鳥」に使用された485系電車は、3種全てに対応しています)。
そしてもう1つは「しらゆき」は既に他の気動車急行列車と連結して運行されているし「しらゆき」に使用される気動車は別の用途でも使用されているので「しらゆき」だけを電車化することはできなかったのだろうということです。
理由がどうあれ「しらゆき」は1982年に廃止されるまで、気動車のまま運行されることになりました。
770km超という運行区間長は「電化されている路線だけを走った気動車急行列車」に限れば、おそらく日本史上最長です。
「しらゆき」は、長い区間、長時間運行される列車としてのみならず、気動車なのに架線の下だけを走る列車としても有名になっていくのです。
※なお「電化されている路線だけを走った気動車特急列車」ならばもっと長いのがあります。
大阪駅から西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)を鹿児島本線経由で運行されていた特急「なは」です。
1970年の電化完成後も1973年に485系電車に置き換えられるまで引き続きキハ82系気動車で運行されており、運行区間長は900kmを超えていました。
「しらゆき」と共に走った列車
既に触れたように「しらゆき」には、途中の区間で連結して運行される列車がありました。
繰り返しになりますが、1964年10月時点(おそらく1963年の運行開始当初から)では、金沢行きの「しらゆき」に、始発の青森駅から秋田駅まで、急行「あけぼの」が連結されていました。
秋田駅で「しらゆき」から切り離された後は、奥羽本線・横黒線(おうこくせん:1966年に北上線へ改称)・東北本線を経由して仙台駅まで行く列車でした。
下りの「しらゆき」が青森行きに延長された後は、下り列車にも「あけぼの」が連結されるようになっていました。
また、ヨン・サン・トオと呼ばれるダイヤ改正が行われた1968年10月の時刻表からは「あけぼの」が「きたかみ」に改称されたことが読み取れます(運行区間は変わらず)。
1972年3月の時刻表では、金沢駅と新潟県の糸魚川駅の間で、新たに「白馬」という急行列車が「しらゆき」と連結するようになっています
(日本海縦貫線の一部区間に、急行「白馬」と特急「白鳥」が走っていて、紛らわしくなかったのかなあと筆者は思います)。
糸魚川駅からは大糸線に入り、長野県の松本駅まで運行されていました。
大糸線内では列車名が示す通り、スキー場や避暑地で有名な、長野県の白馬村にある白馬駅に停車していたのです。
北上線は非電化で、大糸線も一部区間が電化されていないので(現在も同様)「きたかみ」や「白馬」は電車で運行することはできませんでした。
そのため、これらの列車と連結して走る「しらゆき」にも、引き続き気動車が使用されたものと思われます。
筆者の手持ちの時刻表の中で「しらゆき」が最後に登場するのは1982年6月号。
下りは9時49分金沢発、22時18分青森着。
上りは6時50分青森発、19時17分金沢着でした。
運行を開始した時代よりは所要時間が短くなっていましたが、それでも全区間乗車すれば12時間以上もの長旅をすることになりました。
特急「白鳥」に格上げされて急行「しらゆき」は廃止
1982年11月のダイヤ改正では、東北新幹線の本格開業と上越新幹線の開業を踏まえて、日本海縦貫線を走る特急・急行列車について再編が行われました。
「しらゆき」は、福井駅~青森駅間の運行に延長された上で、特急「白鳥」に格上げされることとなり、急行「しらゆき」という名の列車の歴史には幕が下ろされました。
連結相手だった「白馬」も同時に廃止。
「きたかみ」は快速に格下げの上で運行区間が変更されたために、日本海縦貫線に乗り入れることはなくなりました。
なお、この時設定された福井駅~青森駅間の「白鳥」1号・4号は、青森駅で青函連絡船と乗り継げないことは急行時代と変わりませんでした。
そして利用者が少なかったのか、わずか2年あまり後の1985年3月のダイヤ改正で、福井駅~新潟駅間の運行に短縮された上で「北越」に改称されてしまいました。
2度復活した「しらゆき」
国鉄時代の急行「しらゆき」は1982年に廃止されましたが、JR発足後に「しらゆき」という名前の列車が2度登場しています。
1度目は1997年で、秋田駅と青森駅を奥羽本線経由で結ぶ快速「しらかみ」が、快速「しらゆき」に改称される形で再登場を果たしました。
しかし、2002年に快速「しらゆき」は名前のない快速に変更されたため「しらゆき」の名前は再び消滅しました。
そして2015年3月から、新潟県の新井駅または上越妙高駅から、直江津駅を経て新潟駅までを結ぶ特急「しらゆき」が運行を開始したのが2度目の復活です。
この特急列車は現在も運行されており、新潟駅と、北陸新幹線の列車が停車する上越妙高駅とを結ぶことで、新潟市等と北陸地方の間の移動手段の一端を担っています。
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これらの「しらゆき」は国鉄時代の「しらゆき」よりも運行区間が大幅に短く、いくら愛称が同じではあっても、直接の関係はないようにも思えます。
しかし、快速「しらゆき」は秋田駅~青森駅の全区間、特急「しらゆき」は運行区間の大部分である直江津駅~新潟駅間が、急行「しらゆき」の運行区間と重複しています。
また、国鉄時代の「しらゆき」の後身が特急「白鳥」後に特急「北越」であり、2015年の北陸新幹線の長野駅~金沢駅間延伸開業に伴って廃止される「北越」の代替として「しらゆき」が設定されたという経緯があるので、現在の「しらゆき」は、国鉄時代の「しらゆき」の後身であると受け止めることも可能です。
したがって、かつての急行「しらゆき」にあやかって、この名前にした可能性は考えられます。
そして「しらゆき」という愛称は、日本海沿岸を走る列車によく似合う愛称なのだなとも、個人的には思うのです。