
【後編】会津の武士がりんごを育てた! 不屈の会津魂で結実させた新産業
目次
北海道にもたらされたアメリカ産のりんご苗とは

余市に移住した旧会津藩士たちが栽培に成功したりんご「19号(緋の衣)」と「49号(国光)」の苗はアメリカからもたらされたことを先に述べましたが、これらは本来どういった品種だったのでしょうか。
それぞれの来歴を見ていきましょう。
緋の衣=King of Tompkins County
当初19号と呼ばれた緋の衣は、「King of Tompkins County」というのが本来の名前です。
「トンプキンス郡の王」の呼び名はニューヨーク州トンプキンス郡に因むものですが、原産は同地ではなく1804年にニュージャージー州ウォーレン郡から接ぎ木でもたらされたことが判明しています。
赤い表皮には小さな黄色の斑点が無数に浮かぶのが特徴で、果肉は黄色がかって蜜が入るケースも確認されています。
食味が豊かである一方で他の品種と比べると日持ちがせず、日本国内ではほぼ余市でしか栽培されなかったと伝わることから希少といえるでしょう。
果実が大きくなる傾向のある三倍体品種でもあり、明治の初め頃まで一般的だった和りんごがピンポン玉ほどのサイズであったことを考えると、300g程度に育つこの品種は当時において驚きの大きさだったのではないでしょうか。
国光=Ralls Janet
当初は49号と呼ばれた国光は、「Ralls Janet」というのが本来の名前です。
他にも「Ralls Genet」あるいは「Rawls Jennet」などといった呼び名もありますが、アメリカのバージニア州が原産とされています。
19世紀初めの第3代アメリカ合衆国大統領のトーマス・ジェファーソンが、フランス大使のエドモン・シャルル=ジュネがもたらしたりんごの枝を、同地のアマースト郡にあったカレブ・ロールズ果樹園に託したことが起源とも伝わっています。
日本で国光と呼ばれる当種は10月下旬から収穫でき、春以降に冷蔵は必要ですが翌年の6月頃まで貯蔵可能という保存性の高さが特徴です。
果実は150g~200g程度で緋の衣より少し小ぶりですが、明治期から以後100年にわたって日本国内の中心的なりんご品種として栽培されました。
現在でもよく知られるりんご品種「ふじ」の交配親でもあり、たとえば青森県では明治末期には栽培りんご品種の50%近くが国光で占められていました。
このことからも、当種は日本の気候風土によく合ったりんごだったと考えられるでしょう。
余市における旧会津藩士の暮らしぶりとは
北海道に入植した開拓団の想像を絶する労苦は今に伝わっていますが、余市に移った旧会津藩士たちも過酷極まりない環境を生き抜きました。
りんごが収穫できるようになってようやく生計が軌道に乗るまで、どのような開拓生活を送ったのか紐解いてみましょう。
湿地帯だった余市の地
余市の本来の地名はアイヌ語で「シュプントー」と呼ばれていました。
シュプンは淡水魚のウグイのこと、トーは沼を表す言葉であることから、旧会津藩士たちが移住してきた余市川下流域は三日月湖も残る湿地帯であったのです。

こうした立地条件からもともと耕作に適さない土地であり、しかも開墾は多くの北海道開拓地がそうであったように幹周りが1m以上もあるような巨樹の伐採・伐根を人力で繰り返すという気の遠くなるような重労働の連続でした。
湿地であることから焼畑農業をしようにも思うように木は燃えず、当時は北海道で生育できるコメの品種がなかったことから水田も開くことができません。
開拓使から3年間は最低限の生活補助が支給されるものの、それを切り詰めての過酷な生活だったと伝わっています。
ようやく開墾した農地ではトウモロコシ・カボチャ・エンドウ豆・瓜などが栽培されましたが、これを狙う野生動物とのせめぎ合いも苛烈でした。
興味深いことにこの時すでにトマトも栽培されていたといいますが当時はまだ不人気で商業ベースに乗せることはできなかったといいます。
この後の基幹産業がりんご栽培へと移行していく背景には、このような耕作に不適な立地条件も大きく影響したと考えられるでしょう。
日々の糧と武士のプライド
余市に移住した旧会津藩士たちには開拓使より3年間の扶余が与えられ、当座の食糧や住居、開拓に必要な物資等の調達に充てられました。
たとえば移住初年度には移民団700名に対し、一人につき1日に玄米7合5勺が割り当てられる計算です。しかしこの米はそのまますべて食するものではなく、換金して必要なものの購入に使ったり財産として保管したりするため、厳格な倹約が行われたといいます。
規定の年月が経つと開拓によって得られた農作物等の収入で自立することが前提であったため、当然3年後には開拓使からの扶余が終了しました。
しかしながら充分な自活には程遠い状況であり、移民団は農地開拓を続けながら現金収入の道を模索する必要に迫られました。
具体的には収穫した農作物の販売や漁業への従事などが挙げられますが、ここで問題となったのが長らく保持してきた武士としてのプライドであったといいます。
収穫した大豆を担いで売りに出たものの、「買ってほしい」と直接声をかけて営業することがどうしてもできずにぐるぐると町を巡り続けたという話が伝わっています。

また、当時非常に栄えた漁場だった余市では漁業の日雇い労働の口が多くありましたが、これも頭を下げて雇ってもらうことが大きなハードルであったのです。
現代的な感覚からは想像しづらい状況かもしれませんが、「武士である」という旧会津藩士の人々にとってアイデンティティと現実とのギャップは、耐え難い苦しみの一つとして立ちふさがったのだといえるでしょう。
付きまとう「逆賊」の汚名と不屈の赤心
戊辰戦争において新政府軍が錦の御旗を掲げ、「官軍」としての立場を戦略的に示したことは有名です。
かつて京の都を守り、幕府にも朝廷にも身命を賭して仕えてきた会津藩にとって、朝敵とされてしまったことは存在意義を根底から覆す深い傷となりました。
維新後においても会津出身者に対する風当たりは強く、願い空しく「逆賊」と誹謗する声が続いたのです。
それは開拓団が移住した余市においても払拭されず、たとえば会津出身者の葬儀を請け負う在地の寺はどこもなかったといいます。
そのため神職資格を持つ者を中心として神葬祭を行うなど、神道形式での祭儀が執り行われるようになりました。
会津の移民団にとって朝敵の汚名を雪ぎ、名誉を回復することは切なる願いであったといえるでしょう。
そのためにも、与えられた機会に全身全霊を尽くすという固い決意のもと、当初の樺太移住計画で一時的に余市に留まった移民団は「御受書(おんうけしょ)」という請願書を明治4年(1871)正月に開拓使へと提出しました。
そこにはこのような一文が記されています。
別紙御規則に随い実効を以可奉天恩之処方一御法度に背き産業等を惰り候輩は厳科料可仰付趣奉畏候
つまり「規則に従って天皇の御恩を奉じ、法に背いたり業務に怠惰であったりする者があれば厳罰を申し付けられたし」との文意であり、徹底して行動により叛意のないことを示した宣言でもあったのです。
ここには226名の氏名に加えて血判も捺されていることから、別名を血判状ともいいます。
血判とは命を賭して天地神明に誓約するといった意味合いもあり、武士がこれを行うのは絶対の不退転を示すものです。
余市の会津移民団が不撓不屈の精神で開拓、ひいてはゼロからのりんご栽培を結実させた事績は、こうした激烈な意思に支えられていたといえるでしょう。
会津武士のりんごがもたらした産業への影響
会津移民団の手によって一大産業へと成長した余市のりんごは、その後も経済に大きな影響を与えました。
潤沢となったりんご資源を加工利用すべく、明治43年(1910)に「余市林檎酒株式会社」が創設。翌年からりんごサイダーやりんご酒が製造されるようになりました。
これらの製品はたちまち大好評となり、特にサイダーは皇室にも献上されたことから「緋の衣」などと同様に会津の名誉回復に大きく貢献したと考えられます。
また、時代は下りますが余市のりんごが産業に与えたインパクトとして、洋酒メーカーの「ニッカウヰスキー」との関係が挙げられるでしょう。

ニッカは創業資金捻出のため、前段階として余市りんごを使ってジュースなどを製造する「大日本果汁」が昭和9年(1931)に創立され、この社名の「日」「果」が「ニッカ」の由来となったのは著名なエピソードです。
ニッカ余市本店の当時の写真には加工を待つおびただしい量のりんごが露天に集積されている様子が写っており、落果したものであったり傷があったりするものでも買い取られたことから、在地のりんご農家にたいへん喜ばれたといいます。
こうした歴史的な経緯も、源流をたどれば余市の地において会津移民団があきらめることなくりんご栽培を実現させたからこそといえるでしょう。
おわりに
昭和59年(1984)、北海道・余市を一人の人物が訪れました。
それは当時の福島県知事、松平勇雄氏。最後の会津藩主・松平容保の孫にあたる人です。
余市のりんご栽培ではかつて隆盛を極めた「緋の衣」でしたが、昭和20年代以降は新たな品種の台頭でその姿を消しつつありました。
会津移民団が艱難辛苦の末に余市でりんご栽培を成功させたという歴史を知った松平知事は自ら渡道し、当地の方々に松平容保の孫として感謝の意を伝えたといいます。
このことがきっかけで緋の衣の再興運動が巻き起こり、前編の冒頭で述べた余市と会津若松との親善交流へとつながるのでした。 時を超えてりんごが結び直した、二つの土地の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
主要参考Webサイト
- 余市町 – 余市町でおこったこんな話 その124「『緋の衣』の命名」
- 会津若松商工会議所 – リンゴ「緋の衣」を知ってください~新たにPRの看板を設置~
- 会津若松市 – 余市町・会津若松市親善交流提携10周年
- 會津藩校 日新館 – PDF




















