
【中編】会津の武士がりんごを育てた! 西洋種がもたらされた経緯とは?
目次
明治期までの国内りんご栽培の事情

会津藩士の移民団が北海道・余市の地で実らせた「緋の衣」や「国光」が、本邦初の民間による商業りんご栽培の成功例とされていることは既に述べたとおりです。
では、それまで日本にはりんごという果物自体が存在しなかったのでしょうか。
これは「民間による商業りんご栽培」なる細かい定義からも推測できるように、緋の衣以前にもりんごは実り、食されていた歴史があります。
ただしそれは「和りんご」と呼ばれる小ぶりな種類であり、緋の衣のように大ぶりな西洋種とは異なるものです。
そこで、日本史上に登場するりんごのトピックをいくつか拾い上げ、余市の緋の衣へとつながる歴史を概観してみましょう。
平安時代の観葉植物としての「利宇古宇」
日本史で初めてりんごの存在が確認できるのは平安時代中期の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という辞書に、「利宇古宇(りうこう)」として収録されていることによります。

この時代には既に中国からもたらされていましたが、粒が小さく酸味の強い原種で食用というよりは観葉植物のような位置づけであったと考えられています。
生薬として使える成分を含むことはもちろんですが、バラ科のりんごは桜にも似た花を咲かせることから平安貴族に好まれたのかもしれません。
戦国時代、贈答品にもされたりんご
平安時代以降もりんごの栽培は続けられ、小粒ながらもやがて食用として流通するようになりました。
たとえば出羽山形藩の初代藩主となった戦国大名で、伊達政宗の伯父でもある最上義光(もがみよしあき)は、家臣の北楯利長から鮭やりんごを贈られこれに礼状をしたためています。
また、織田信長の義弟にあたる北近江の戦国大名・浅井長政もりんごの献上を受けていた記録が残っており、当地では小ぶりで酸味の強い和種が復元栽培されています。
戦国時代においても贈答品のやりとりは主従の絆を確かめるだけではなく、非常に重要な政治的意味合いを含んでいました。
そうした贈り物には各種の果物も季節ごとに用いられ、そのうちの一つにりんごの実という選択肢があったことはたいへん興味深い事実であるといえるでしょう。
江戸時代中期の飢饉で配られた御所のりんご
江戸時代中期の天明7年(1787)には、りんごにまつわるこんな話が残っています。
折からの飢饉の末、人々が京の御所に押し寄せてその周囲を回る「御所千度参り」というムーブメントが起きました。
救済や飲食などを民衆が求めてのことで、有力な公家もこの対応に尽力したといいます。
そんななか、時の後桜町(ごさくらまち)上皇は、宮中に保管されていた3万個にも及ぶりんごを民衆に振る舞ったと伝わっています。
ちなみに後桜町上皇は2025年現在において歴史上最後の女性天皇でもありました。
仮にこの故事を幕末の会津藩士たちや松平容保が知っていたとしたら、移住先の余市で結実したりんご栽培事業にも、より特別な感慨を覚えたのではないでしょうか。
幕末に加賀藩邸で作られたりんごジャム
江戸期までを通じてりんごといえば現在のものよりも小ぶりで酸味の強い和種だったことを先に述べましたが、幕末にはついに西洋りんごの栽培を試みる動きが見られるようになります。
安政元年(1854)には加賀藩によって江戸・板橋の藩下屋敷でりんごが収穫された事例があり、文久2年(1862)には越前福井藩の松平春嶽によって江戸・巣鴨の藩下屋敷で栽培されたことが記録されています。
加賀藩の下屋敷では収穫したりんごをジャムのように加工したといわれ、これを小さなお餅に塗って食べたそうです。
余市の緋の衣などが本邦初の商業りんご栽培として「民間の」と冠されるのにはこうした理由もあり、幕末の時点ではすでに西洋りんご栽培の産業としての可能性が着目されていたといえるでしょう。
国内初の近代農法導入は外国人の手によるものだった
余市のりんごは日本人の手による国内初の商業栽培でしたが、実はこれ以前に函館近くの現・七飯町で外国人によって開始された事例があります。
幕末から明治にかけて多くの外国人が日本を訪れるようになり、新たな西洋の技術をもたらしたことは周知の通りです。
北海道においてもりんごをはじめとした農業においてはじめて近代的な農法を導入したのが、プロイセンの貿易商「ライノルト・ガルトネル」でした。
ガルトネルは江戸幕府解体の直前に函館奉行から七飯町の土地開墾許可を取り付けており、明治2年(1869)には榎本武揚の蝦夷島政府と交渉して当該地の99年租借の条約を締結しました。

結果としてはその翌年、明治新政府が違約金を支払うことによってこの契約は解消されますが、ガルトネルがもたらしたりんごを含む果樹栽培や酪農などの大規模近代農業の技術により、七飯町は「西洋農業発祥の地」とも呼ばれています。
余市におけるりんご栽培との技術的な接点は不明ですが、少なくとも早い段階から西洋諸国の農業技術者たちがりんごの生育に適した土地として北海道に着目していたのは興味深い事実といえるでしょう。
歴史上、北方警備を担ってきた会津武士
歴史的なりんご栽培を成功させた旧会津藩士らの移民団が、樺太入植を前提とした建前で北海道・余市に移住したことは先に述べたとおりですが、唐突に北の地が選ばれたわけではありません。
会津藩は歴史上、度々北方警備の任務を受けて蝦夷地と呼ばれていた北海道の各地に展開していたのです。
りんご栽培そのものの話題からは少し遠ざかりますが、北海道への入植はある意味で自然なルートだったとも考えられることから、会津藩士と北の地の関係性について概観してみましょう。
宗谷・奥尻・樺太の防備
江戸幕府が東北海道を幕領として弘前藩と盛岡藩に警備を命じたのは寛政11年(1799)のことで、北方に外国船が多く訪れるようになった国際情勢を受けての措置でした。
鎖国体制をとっていた当時の幕府にとっては多分に緊張感をはらんだ事態であり、当地では外国船との間に衝突も多発していました。

これを受けて幕府は文化4年(1807)に北海道全域を直轄地とし、230名にものぼる津軽藩兵が北海道最北端の宗谷に派遣されたのです。
しかし越冬時に生鮮食品等が容易に入手できないことからビタミン類の不足に起因する水腫病を発症する者が続出し、多数の死亡者を出す事態となります。
そこで翌年春に津軽藩兵と交代したのが会津藩兵で、587名が投入されました。そのうち241名が稚内西方の利尻島に駐屯して当地を警衛。さらに別動隊706名が直接樺太に渡航し、駐屯本拠地である陣屋を構築しています。
会津藩兵が樺太から引き揚げたのは文化5年(1808)10月から翌年にかけてのことで期間としては短い駐留でしたが、この時に持ち帰った情報が同時代に北方を調査した間宮林蔵らの事績に貢献したといわれています。
その後外国船の来航が減少したことなどにより、文政4年(1821)に北海道は幕府直轄から松前藩による管理へと回帰しました。
東蝦夷地の防備
幕府が再び北海道を直轄したのは、ぺリー艦隊来航の2年後である安政2年(1855)のことです。
その際に弘前藩・秋田藩・仙台藩・盛岡藩の東北四藩が北海道警備の命を受けて派兵。安政6年(1859)には北海道を諸藩によって分割統治されることとなり、前記四藩に加えて鶴岡藩と会津藩が北海道の土地を分与されました。
会津藩は東北海道の一部にあたる紋別・斜里・標津が藩領となり、さらには箱館奉行が統括した網走領地の警衛も担ったのです。

標津に所在する全長26㎞にもおよぶ日本最大の砂嘴(さし)、野付半島にも万延元年(1860)に会津藩兵が派遣され、ここには文久3年(1863)に当地で亡くなった会津藩士・稲村兼久ら3名の墓が残されています。
このように会津藩は江戸時代を通じて北海道の防備に尽力してきた歴史があり、幕府や朝廷の厚い信頼を得て幕末には京都守護職という重責を引き受けた経緯がありました。
北方警備については会津から北海道への距離という立地的条件のみならず、北国で鍛えられた藩兵たちに寒冷地行動への適応が期待されたことも大きいといえるでしょう。
とはいえ不十分な知識と装備での越冬、とりわけビタミン補給や低温対策など生命維持に関わる課題との直面は過酷極まりない任務だったことが想像されます。
維新後に旧会津藩士たちを樺太に入植させるという当初計画には、こうした北方での経験値を有するという合理性を根拠にしたとも考えられ、余市への移住もこのような背景の延長線上にあったものといえるでしょう。




















