
【前編】会津の武士がりんごを育てた! 日本初の民間栽培品「緋の衣」「国光」とは?
目次
はじめに
2015年10月、福島県会津若松市と北海道余市市の間に親善交流都市の締結が宣言されました。
一見遠く離れた二つの街ですが、実は歴史上分かちがたい絆で結ばれています。
その起源は維新期の戊辰戦争にさかのぼり、敗戦によって故郷を離れた会津藩士たちが行き着いた土地の一つが現在の余市だったのです。
北海道開拓の言語を絶する労苦は語り継がれているとおりですが、余市に入植した会津藩士たちは艱難辛苦の末に一つの産業を結実させました。
それは、民間日本人による国内初の商業りんご栽培です。
後に「緋の衣」と名付けられたそのりんごは一時代を築き、日本のりんご産業に大きな功績を残しました。
そして2000年、余市に残っていた緋の衣から接ぎ木用の枝が会津若松にもたらされ、父祖の地でその実が実るようになったのです。
冒頭の親善交流都市調印式では、余市と会津双方で実った緋の衣が交換されたといいます。
本記事では激動の時代を乗り越え、北の大地に見事な赤いりんごを実らせた会津藩士の物語についてご紹介します。
戊辰戦争での敗北による会津藩士の移配
会津とりんごの関係について語る前に、そもそもなぜ余市へと移住することになったのかその概略を見ておきましょう。

戊辰戦争を通じて最終的に会津藩が降伏したことは周知のとおりですが、その戦後処理にはさまざまな困難が待ち受けていました。
会津藩は庄内藩と共同で戦前から戦中にかけ、蝦夷地に有していた領土をプロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部)に割譲し、その代価として軍事的援助を受ける条約を締結していました。
しかしながら会津藩の敗戦によってこの条約が新政府にとって不都合となったことから、会津藩領を没収して改易するという体裁をとることで対外的な責任主体を消滅させるという手段をとったのです。
そこで旧会津藩士らを移配するため、青森県東部に新設されたのが斗南藩でした。
斗南藩を会津の後継藩ではないと位置付けることによって、プロイセン王国との間に締結された蝦夷領地の割譲条約が有効化するのを回避したのです。
しかしそれよりわずか一年あまりの明治4年(1871)7月、廃藩置県によって斗南藩そのものが消滅してしまいます。
再び寄る辺を失った旧会津藩士たちでしたが、並行して現在の北海道各地への移住も試みられていました。特にこれをバックアップしたのが、後に第2代内閣総理大臣を務めることとなる薩摩の黒田清隆です。
このとき開拓使の樺太専務次官の職にあった黒田は、樺太開拓を会津の人たちの新たな受け入れ先として提言。その移民団が上陸した土地の一つが余市だったのです。
しかし樺太開拓政策は実現せず、会津移民団は余市の土地に留まって開拓者となり、黒田も当初からそうした施策を想定していたともいわれています。
そして、そんな黒田が北海道の気候風土に合った農作物を求めてアメリカから導入したものの一つがりんごでした。
その苗は余市の会津移民団の元にももたらされ、これが歴史に名を刻む本邦初の民間による商業りんご栽培の嚆矢となったのです。
会津藩士が育てた、北海道・余市のりんご「緋の衣」

黒田清隆は北海道開拓事業の一環として、明治4年(1871)7月にアメリカからホーレス・ケプロンを開拓顧問として招聘します。
ケプロンは南北戦争(1861~1865)に北軍義勇兵として従軍後、合衆国政府の連邦農務省長官を務めていた人物でした。
そしてケプロンの元で北海道への西洋式農業導入を担当したのが、園芸の専門家であったルイス・ベーマーです。
ベーマーは特に北海道の気候風土にりんご栽培が適していることに着目し、明治8年(1875)から道内各地へさまざまな種類のりんごの苗を配布しました。
それは会津藩士たちの移住先である余市にももたらされ、4年後の明治12年に初めて結実の報告がもたらされました。
ベーマーはりんごの種類をナンバーで管理しており、余市で実ったのは「19号」と「49号」。のちにそれぞれ「緋の衣」「国光(こっこう)」と名付けられたものです。
旧会津藩士の庭に実ったりんごたち
余市に配布されたりんごの苗はおよそ500本あったともいわれていますが、栽培法に対する知見や技術を有していたわけではないこともり、そのほとんどが枯れてしまったといいます。
しかし明治12年、余市に入植した旧会津藩士・赤羽源蔵宅の19号が6つほど、同じく金子安蔵宅の49号が7つほど実ったのです。
非常に食味のよかったこれらのりんごは翌明治13年、札幌で行われた農業博覧会に出展され大好評を博します。
これを契機として余市ではりんご栽培が盛んとなり、一本の木から50㎏弱もの果実が収穫できるようになりました。
余市りんごは評判を呼んで一貫(約3.75㎏)が白米四升(約6㎏)という優良価格で取り引きされるようになり、これを機に会津の開拓移民団はついに窮状を脱することができたといいます。
「緋の衣」の銘に込められた会津の想い

「19号」とナンバーで呼ばれていた余市のりんごに与えられた「緋の衣」という銘が全国で統一されたのは、明治28年(1895)11月の帝国苹果名称選定会第3回会議でのことでした。
「苹果」とはりんごの実のことで、この頃には緋の衣をはじめとして海外からもたらされたりんごが各地で結実し、それぞれに異なる日本名で呼ばれていたのです。
したがって同じ品種でも地域によって銘が違うという混乱をきたしていたことから、それを統一しようというのが狙いでした。
緋の衣は余市だけではなく山形県でも同じ名で通用していましたが、同じ品種がたとえば青森県の津軽地方では「松井」の銘で呼ばれるなどの混在が見られます。
余市のりんごが「緋の衣」と名付けられたのは、幕末から戊辰戦争にかけて会津藩士らが辿ってきた栄誉と辛苦の歴史が関係しています。
会津藩が幕末に京の治安維持のため「京都守護職」を務めたことはよく知られていますが、藩主・松平容保が初めて朝廷に参内した折り、時の孝明天皇から特別に賜った御衣の色が「緋」であったのです。
緋といえば公家の官位である四位と五位の者が着用を許された色であり、十歳にして従四位下となっていた容保に相応しい、有職故実に則ったものだったといえるでしょう。
孝明天皇ははるか東から推参した武人を讃え、陣羽織か鎧直垂(よろいひたたれ)などに仕立て直すよう伝えたといいます。
武士がこうした御衣を賜る例は歴史上稀有なことで、これに感激した容保は陣羽織にして着用しました。
これが、余市のりんご「緋の衣」に込められた一つ目の想いです。
しかしもう一つは栄光とは程遠い、残酷な運命に関わるものです。
朝廷を、京の都を命がけで守護してきた会津藩士たちですが、維新の動乱を通じてついに戊辰戦争で敗北。策略から朝敵の汚名を着て新政府軍に降伏する次第となります。
その時、降服調印の式で敷かれたのが緋毛氈でした。
会津藩士たちはこの悲しみと屈辱を胸に刻むべく、緋毛氈を細かく切ってそれぞれが肌身離さず身に着けるようになり、これを「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼んでいます。
つまり緋の衣の「緋」とは、松平容保が孝明天皇から賜った御衣にちなむ栄光と、敗戦の記憶を忘れじとする苦難の両方を表す色であったといえるでしょう。
そしてこのりんごは、以後40年ほどにもわたって皇室に献上されたといいます。






















