古代エミシの英雄アテルイと東北三十八年戦争とは?【前編】|ヤマトの朝廷軍を退けたイサワの勇士

古代エミシの英雄アテルイと東北三十八年戦争とは?【前編】|ヤマトの朝廷軍を退けたイサワの勇士

はじめに

一口に「日本」といっても、歴史上では時代とともに少しずつその範囲が変わってきたことは周知の通りです。

たとえば北海道が日本領として確定されたのは明治2年(1869年)のことで、太平洋戦争後はアメリカの統治下であった沖縄が本土復帰したのは昭和47年(1972年)でした。

古代においても「日本」という国家区分が明確にあったわけではなく、列島にはヤマトの施政が及ばない土地で暮らす人々がいたのです。

東国、あるいは東北に住まう「エミシ」と呼ばれた人たちもそうでした。古くは『日本書紀』の神武天皇即位前記に「愛瀰詩」の語が見られ、これがエミシの初出であるとも考えられています。

ヤマトの王権はその発展過程でエミシたちが住まう東国や東北へと版図を広げ、その結果として両者の衝突が引き起こされました。

エミシにとっては支配や圧政への抵抗でもありましたが、史上もっとも苛烈に緊迫したのが奈良時代終わり頃~平安時代初め頃で、この時代のヤマトとエミシの対立を「三十八年戦争」と呼ぶことがあります。

そんな折、広域の連合体を持たなかったといわれるエミシの中から、幾人かの強力なリーダーが誕生しました。

そのうち特に名が知られている人物の一人に「アテルイ」が挙げられます。奈良時代末期から平安時代初めに、現在の岩手県奥州市にあたる陸奥国胆沢辺りを本拠としていたエミシの族長です。

本記事ではそんなアテルイを中心として、ヤマトとエミシの間に起った東北三十八年戦争についてひも解いていきましょう。


古代蝦夷の英雄「アテルイ」とは

岩手県束稲山のアテルイ像
岩手県束稲山のアテルイ像

まずはエミシの高名な族長・アテルイについて、わかっていることをまとめておきましょう。

先にも述べたように胆沢のエミシの族長で、8世紀末~9世紀初めにかけて活動したことが記録され、東北経営に進軍してきたヤマトの朝廷軍をさんざんに苦戦させたことが伝えられています。

アテルイの名が記されているのは、律令国家によって編纂された一連の史書である『六国史』においてです。

六国史とは『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀(にほんこうき)』『続日本後記(しょくにほんこうき)』『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』『日本三大実録(にほんさんだいじつろく)』の6つの正史をまとめたものです。

神話時代から9世紀終わりごろまでの歴史を記し、8世紀初め頃~10世紀初頭までのおよそ200年をかけて段階的に刊行されました。

これらの史書に名が記されたエミシは複数確認できますが、アテルイは朝廷との戦闘の規模や抵抗期間の長さなどから特に大きなインパクトを残した族長の代表格といっても過言ではありません。

アテルイの事績について

アテルイの名が初めて史書に登場するのは『続日本紀』の延暦八年六月甲戌条、西暦(以下、ユリウス暦)789年の記録です。

既に長期にわたって東北地方を体制下に組み込むことを企図していた朝廷側は、この年「延暦八年の征夷」という大規模な軍事行動を起こしました。

同年5月下旬~末頃に勃発したと考えられている「巣伏(すぶし)の戦い」で、合計で1500名ほどのエミシ軍がおよそ4000名の朝廷軍を撃退したと記されています。

この戦闘が起こった地点がアテルイの住まいの近辺であったとされ、彼が直接エミシたちを指揮したかどうかは詳らかではありません。

しかしながら地の利ばかりでなく、的確な軍略を駆使して兵力でまさる相手を打ち破る強力なリーダーが存在したことをうかがわせる記述内容で、アテルイが実質的な指導者として関与していた可能性も想定されています。

次にアテルイが登場する史書は『日本後紀』で、延暦二十一年(802年)の「四月庚子条」です。

これは抗戦を続けたアテルイが同じくエミシ族長の「盤具公母禮(いわぐのきみもれ)」および500名の仲間らとともに、ついに朝廷軍に降伏したと報告されたことの記事でした。

このとき朝廷軍を率いていたのが後世にも名高い征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」で、平安京に伴ったアテルイとモレの助命と東北での統治委任を意見具申したといいます。

結果として田村麻呂の願いは通らず、朝廷側の決定によりアテルイとモレは処刑されてしまいますが少なくとも史書に現れる13年、おそらくそれ以上の長きにわたって朝廷軍と戦ってきたことは特筆すべき事実です。

アテルイは武勇のみならず政治的手腕や精神性をも、当代随一の武人に認められた人物だったと考えられるでしょう。

アテルイの名について

この六国史のうち、アテルイは『続日本紀』延暦八年(789年)六月甲戌条に「阿弖流為」の表記で登場します。

また、六国史を再編集した『類聚国史(るいじゅうこくし/るいじゅこくし)』や、平安時代に編纂された歴史書『日本紀略(にほんきりゃく)』では延暦二十一年(802年)の記事で「大墓公阿弖利為」と記されています。

「阿弖流為」と「阿弖利為」の二通りの表記があることから、実際には「アテルイ」と「アテリイ」の中間くらいの発音だったのかもしれません。

さらに『類聚国史』と『日本紀略』に見られる「大墓公」の姓(かばね)も特筆すべき点でしょう。

姓とは古代においてヤマトの王権が有力な氏族に与えた称号のことです。

天武13年(684年)には真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の「八色の姓(やくさのかばね)」が制定されました。

それ以前の姓には臣(おみ)・君(きみ)・連(むらじ)・直(あたひ)・造(みやつこ)・首(おびと)などが挙げられ、アテルイの「大墓公」は地方の有力豪族などに本拠地の地名を付して呼ぶ「君」が、エミシの族長に与えられたのちに「公」へと表記変更されたものです。

もっとも、アテルイは長期間にわたって朝廷軍と戦っていたため、「大墓公」の姓は降伏後に与えられたものであると考えるのが自然だという指摘もあります。

「大墓」をどのように読むのかについてはいまだ判明しておらず、「たも」「おおつか/おおはか」などさまざまな仮説が提示されています。

「たも」はアテルイが朝廷軍を撃退した地域における地名の訓読案から、「おおつか/おおはか」とはその本拠地である胆沢に所在する前方後円墳・角塚古墳に由来するもの、といった説などです。


アテルイとともに散った「モレ」とは?

京都・清水寺にある阿弖流為・母禮の碑
京都・清水寺にある阿弖流為・母禮の碑

アテルイが田村麻呂率いる朝廷軍に降伏した『日本後紀』の記事に「盤具公母禮」という人物がともに記されているのは先に述べた通りです。

「モレ」と通称され、降伏から処刑までの記事に登場するのみのため詳しい来歴は不明ですが、アテルイと同じく「公(きみ)」の姓(かばね)を有していることや名前そのものが記されている点などから強力なエミシ族長の一人だったと考えられます。

この姓には首長が活動した地域の名を冠するという原則などに当てはめ、モレの拠点に関するさまざまな考察がありますが明確にはどこの族長であったのか定かではありません。

読みや漢字の誤写の可能性なども含めて現在の岩手県奥州市の地名と比較する研究もありますが、いずれにせとアテルイと連携してエミシ軍を率い、平安京にまで伴われるほどの重要人物であったことは間違いありません。

しばしば「副将」と説明されることもありますがそれも明確ではなく、記録の少なさからやや印象が薄くなっているのは否めないでしょう。

しかしながらエミシたちが長期にわたって朝廷軍を相手に抗戦することを可能としたのは、部族同士の連携をはじめとした巧みな軍略に由来することが想像されます。

そうした集団としての指揮系統を考える際、司令官だけではなくそれを補佐するチームとしての幕僚や実働部隊を率いる隊長格等々、多くの人材が必要となります。

アテルイのみならずモレの名が史書に記されているのはそうした背景をうかがわせ、かつて敵であったはずの田村麻呂からも惜しまれる能力と人徳を備えた、優秀なリーダーだったのではないでしょうか。


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