
古代エミシの英雄アテルイと東北三十八年戦争とは?【中編】|古代東北での主な戦闘とその経緯
目次
古代東北はなぜ戦場になったか
アテルイたちエミシがヤマトの軍と長い戦闘状態にあったことはこれまで見てきた通りですが、ではなぜそもそも東北が戦場にならねばいけなかったのでしょうか。
第一にはヤマトが国家としての勢力を拡大していく中で、列島に住まうさまざまな人々を統治下に収めようとしてきたことが挙げられます。
その目的は領土的な広がりであったり生産拠点としての土地であったり、独特な産物や資源など経済基盤の入手も含まれるでしょう。
アテルイの名が初めて登場するのは奈良時代終わりごろのことですが、それ以前の8世紀初めごろまでには南九州を中心に居住していた「隼人(はやと)」と呼ばれる人々との間にも大規模な戦がありました。
神話上も先住民と思しき人々を平定する描写が散見され、現代の感覚からは侵略的なイメージを否定することは難しいでしょう。
古代のヤマトがどういった意志のもとに版図拡大に血道をあげたのかはあずかり知れませんが、東国・東北も非常に古くからそのターゲットとして前線であり続けたのです。
以下に神話や史書に見られる、エミシの土地への派兵の歴史を概観しておきましょう。
神話の時代から語られる「エミシ」
「エミシ」と読むと考えられる語のもっとも古い例は『日本書紀』の神武天皇即位前期戊午年十月条のことで、「愛瀰詩」とあるのがそうとされています。
これは神武天皇が初代天皇として即位する前、つまり完全にヤマトの地を拠点とする以前の平定戦に関するものです。
大伴氏の祖とされる「道臣命(みちのおみのみこと)」が「八十梟帥(やそたける)」の残党に勝利した際の祝いの歌に登場する言葉ですが、現在理解されている東国や東北地方のエミシとイコールかどうかは詳らかではありません。
ちなみに神武が八十梟帥の存在を認識したのは菟田(うだ:現在の奈良県宇陀市および宇陀郡のあたり)であり、特定の人物名というよりも敵対する数多くの勇士を総称した可能性も指摘されています。
神武天皇の即位は神話の時間軸であって無理に西暦に置き換えると紀元前7世紀のこととなり、「愛瀰詩」という言葉が出てくる歌も本来は神武天皇とは関係のないものと考える研究もあります。
それを踏まえたうえで、ヤマトの創世記そのものが先住勢力を統治下に置く戦闘の日々と不可分であることは、のちに言うエミシとの関係性にも重大な影響を与えているといえるでしょう。
古墳時代のエミシの記録
古墳時代になるとヤマトの王権が宗(中国南朝)の皇帝・順帝へ上表文を送ったことが、『宋書』「倭国伝」に昇明二年(478年)のこととして記録されています。
そこでは倭国では先祖代々(王みずからが)甲冑をまとい
東は毛人を征すること五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること九十五国
と、諸国を平定してきたことを述べています。
いわゆる小中華思想を軸に国家としての体裁をアピールするもので、この上表文を出した「倭王武」とは「雄略天皇」のこととするのが一般的です。
ここにある「毛人」の語がエミシを指すと考えられており、のちに「蘇我蝦夷(そがのえみし)」を「蘇我豊浦毛人」と表記したり、「小野毛人(おののえみし)」や「佐伯今毛人(さえきのいまえみし)」といった高位の官人や公卿の人名にも用いられたりしている点は重要です。
倭王武の上表文に見られる数字の具体性はともかくとして、毛人(エミシ)の勢力圏を「東」と明記していることも注目されるでしょう。
飛鳥時代から律令体制下の版図拡大
6世紀半ばから後半にかけてヤマトの統治範囲はさらに拡大し、史書の『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』によるとこの間に「国造(くにのみやつこ/こくぞう)」と呼ばれる地方行政を司る職位が設置されてその数は130にもおよんだと記録されています。

この段階で本州島に置かれた国造の北限は宮城県最南部の亘理・伊具地方、新潟県中部~北部に広がる越後平野の中ほどまでで、山形県全域と福島県の会津地方には設置されていません。
おおむね上記の国造北限地帯より北方が、当時のエミシの土地と認識されていたといえるでしょう。
645年の大化の改新によって律令国家体制の構築が進んでいくと、支配領域での班田収授や徴税が行われ、朝廷の東北経営もさらに本格化していきました。
7世紀を通じて大きなエミシの反攻は記録されていないものの、従来の国造北限地を押し上げていくかのように続々と城柵官衙が設置されるようになります。
城柵官衙は純粋な官庁ではなく防御性の機構を持つ軍事拠点としての性質をあわせ持っており、「柵戸(さくこ)」と呼ばれる移住民を内包するものでした。
これはつまり周辺地域の同化政策を前提とした側面があり、支配領域を拡大していくうえでの拠点ともなっていました。
このようにしてエミシたちを朝廷の統治下へと段階的に吸収していく施策がとられましたが、8世紀に入ると徐々に両者の軋轢が顕著になっていきます。
エミシの領域への介入を強めた朝廷は和銅元年(708年)、現在の山形県庄内地方に「出羽郡(いではぐん)」を新たに設置しました。
しかしこのことは在地のエミシたちの反発を強めたと考えられ、以降たびたび出羽の柵戸らが襲撃される事件が起きます。
これを理由として翌和銅二年(709年)、朝廷は鎮圧を名目とした軍を発し、陸奥方面には「陸奥鎮東将軍」の「巨勢麻呂(こせのまろ)」、越後方面には「征越後蝦夷将軍」の「佐伯石湯(さえきのいわゆ)」がそれぞれ派遣されました。
特に後者は「征越後蝦夷」とあるように、この方面のエミシたちが具体的な実力行使に出ていたことがうかがえます。
これ以降、朝廷側はエミシの武装蜂起をいずれも「反乱」として位置付けるようになり、派兵という軍事行動によって影響をさらに強めていくこととなります。
奈良時代の様相
和銅三年(710年)に藤原京から平城京へと遷都され奈良時代が始まると、その翌年には陸奥方面のエミシ族長らに「君」の姓(かばね)を与えるようになります。これは戸籍への記載や口分田の付与、納税義務などヤマトの公民同等と位置付けすることを意味しました。
「君」の表記が「公」へと変更されたのは天平宝字三年(759年)のことで、アテルイの「大墓公」やモレの「盤具公」もこれに相当します。
奈良時代を通して続々と朝廷の傘下に加入してヤマトの公民になることを選ぶエミシの部族が増えてゆく一方、頑強に抵抗して朝廷側の史書に「乱」と記される衝突も増加の一途をたどりました。
エミシの抗戦は徐々に大規模化していき、いわば反朝廷の連合的な組織へと拡大していったことも容易に想像できるでしょう。
朝廷側もやがて城柵をさらに強化した防御機構で各地に築くようになり、本来は臨時職としての令外官である「征夷将軍」や「鎮狄将軍」などの率いる軍がしばしば発せられるようになります。

特に東北の重要拠点に位置付けられた陸奥には軍政府が常設され、養老六年(722年)頃には「陸奥鎮所」と呼ばれました。神亀元年(724年)に大野東人(おおののあずまひと)によって「多賀城」(宮城県多賀城市)が築かれると、やがてここにその機能を移転して天平年間(729~749年)には「鎮守府」と呼称するようになります。
鎮守府には「鎮兵」という常備兵力があり、陸奥は他国と比べて突出して多い最大7個の軍団を擁しました。鎮兵のピーク員数は弘仁元年(810年)時点の3800名ほどであり、いかにエミシに対する軍事力を必要としていたかがうかがえるでしょう。
古代東北での「三十八年戦争」
東北統治への圧力を強める朝廷側とエミシたちとの緊張状態はやがてピークに達し、宝亀五年(774年)から弘仁二年(811年)まで常時戦争状態と表現される時期が続きました。
これを「三十八年戦争」あるいは「三十八年騒乱」などと呼びますが、本稿では前者の呼称を用いることにします。
以下にその期間の主な戦闘をピックアップしてみましょう。
宝亀五年(774年)の騒乱
朝廷の支配拡大に反発するエミシの勢力がその抵抗を激化させていたことは既に述べてきた通りですが、三十八年戦争の端緒になったとされるのが宝亀五年(774年)の「桃生城(ものうのき)襲撃事件」です。
現在の宮城県石巻市にあった陸奥国桃生郡の城柵、桃生城が「海道蝦夷」という勢力の襲撃を受けた事件で、城の一部が攻略されるという切迫した状態だったことが『続日本紀』宝亀五年七月壬戌条に記されています。
海道蝦夷とは三陸沿岸から北上川下流域のエミシのこととされ、地域ごとの総称としてその勢力を捉えていたことがわかります。
これに先立ち、元日の儀礼において毎年平城京へと朝貢に訪れていたエミシたちが、出羽の者を除いて姿を見せないという事件がありました。その後夏にかけて海道蝦夷の蜂起によって治安維持のために農作業ができなくなるといった事態を招きます。
当時の鎮守将軍であった「大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)」は時の光仁天皇に鎮圧の是非を奏上しますが、天皇はこれを却下。しかし駿河麻呂の再度の奏上により許可されますが、直後に海道蝦夷が橋を焼き討ちして交通路を封鎖し、桃生城の西廓を攻略する事態へと発展しました。
この報告を受けた朝廷は増援の兵力を待機させる命を下しますが、不思議なことに駿河麻呂は同年八月に被害が大きくないことと草木の繁茂する時期の作戦行動に利がないことを根拠として軍事行動の中止を奏上したのです。
このことは光仁天皇の逆鱗に触れ、譴責された駿河麻呂は命に従って海道蝦夷の遠山村(現在の宮城県登米市あたり)に侵攻して制圧。従軍した1800名弱が位を授けられ、駿河麻呂らも昇進するという大規模な戦となったことを伝えています。
宝亀十一年(780年)の騒乱
また、宝亀十一年(780年)には朝廷に帰順していたエミシの強力な族長が反旗を翻すという「伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱」が勃発しました。

これは陸奥国此治郡の大領(だいりょう:郡司の最高位)であったエミシの呰麻呂が、伊治城(これはりじょう:現在の宮崎県栗原市)に駐留することになった「紀広純(きのひろずみ)」と「道嶋大盾(みちしまのおおたて)」を殺害、鎮守府のある多賀城を襲撃して焼き払うという大事件でした。
呰麻呂というヤマト風な名前やその地位、外従五位下という地方豪族として最高レベルの官位等々から完全に朝廷側の立場と思われていた人物の離反は、相当なショックをもたらしたと考えられます。
『続日本紀』には呰麻呂が受けてきた差別的な処遇への怨恨が反乱の理由として挙げられていますが、統治体制は完全でなくしかも恨みを買うような脆弱性のある関係性だったことがうかがえるでしょう。
呰麻呂は朝廷に捕縛されることはなく、以降の記録にも名が残ることはありませんでした。




















