
院内銀山の繁栄とともに祀られた鉱山守護の社|金山神社【秋田県湯沢市】
秋田県湯沢市院内(いんない)地区。この山あいの静かな集落は、かつて「東洋一の銀山」と呼ばれた院内銀山の町として栄えました。
今ではその他の銀山遺構とともに山中にひっそりと佇む金山神社(かなやまじんじゃ)ですが、かつては数千人の鉱夫たちが安全と繁栄を祈り、日々の労働の合間に手を合わせた鉱山町の信仰の中心でした。
かつては「東洋一」とも呼ばれた院内鉱山
院内銀山の発見は慶長11年(1606年)。村山宗兵衛なる人物が仲間たちと山中で銀鉱脈を見つけたのが始まりと伝えられています。その後、久保田藩(秋田藩)の支配下に置かれ開発が始まり、藩の直営で採掘が進められました。
金と銀を主として江戸時代を通じて日本最大の産出量を誇り、技術が発達した天保年間(1830年代)には「天保の盛り山」と呼ばれる黄金期を迎え、年間千貫(約3.75トン)を超える銀を産出したといいます。

最盛期の鉱山町は鉱夫、職人、商人、僧侶などで賑わい、最大で人口1万5千人あまりに達したとも伝えられ、久保田城下をも凌駕するその繁栄ぶりは「出羽の都」と称され、産出される金と銀は藩の財政を支える大きな柱となりました。
銀山を守る信仰 ― 金山神社の創建
金山神社の創建は慶長14年(1609年)とされ、銀山の開発が始まった直後に「採掘の安全と鉱脈の繁栄」を祈願するために祀られたのが始まりとされています。

当初は山中の採掘現場近くに小さな祠を設け「山神宮」と称して祀られていました。現在の場所に社地を定めたのは宝暦10年(1760年)のことといわれています。

祭神は、鉱山・金属・火を司る金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)と金山姫大神(かなやまひめのおおかみ)。この二柱は鍛冶や鋳物、鉱山に関わる職人たちの守護神として古来より信仰されてきました。
また、山の神と結びついた山岳信仰も根付いており、坑内守護を願う坑夫たちは「山の神に嫌われぬよう」「事故が起きぬよう」と金山神社へ参拝し祈願したと考えられています。
明治以降の近代化と閉山
明治維新後、院内銀山は政府の管理を経て民間企業へと引き継がれ、洋式の採掘・精錬技術の導入で再び活況を呈しました。しかし明治末期の銀価格暴落により採算が悪化、鉱山の規模は大幅に縮小されてしまいます。
昭和に入っても細々と採掘は続けられていましたが、ついに昭和29年(1954年)に閉山。およそ350年続いた院内銀山の歴史に幕が下ろされました。

多くの人が去り、鉱山町は急速に廃れましたが、金山神社だけは地域の人々によって守り続けられました。境内には奉納碑や石灯籠、採掘の安全を祈った祈願石等が残り、往時の信仰の深さを今に伝えています。
現在の金山神社
金山神社は現在も院内銀山跡の高台に鎮座しています。現地の解説板によると社殿は江戸後期の文政13年(1830年)に久保田藩によって建築されたもののようです。

多くの人で賑わった鉱山最盛期の頃は「山と鉱山の守護神」として崇められ、現在は「商売繁盛、五穀豊穣、交通安全の神」として祀られています。

金山神社を含めた院内銀山跡全域にはかつての繫栄の面影はなく「山に飲み込まれ始めている」といった印象です。

草の生い茂った参道や苔むして風化し始めている狛犬等からも、現在は人の往来が極端に少ないことが見て取れます。

その他にも神社周辺には坑口跡や石碑群、旧採掘施設跡が点在しており、秋田県史跡「院内銀山遺跡」に指定されています。しかし近年、クマをはじめとした野生動物の出没が頻発しているので散策には細心の注意が必要です。
院内銀山跡からほど近い、奥羽本線の院内駅に併設されている院内銀山異人館(資料館)では、当時の採掘道具や鉱石、写真資料を見学することもできます。
金山神社<Information>
- 名 称:金山神社
- 住 所:〒019-0113 秋田県湯沢市院内銀山町上本町40
- 電話番号:0183-52-3480
- 公式URL:秋田県神社庁 – 金山神社






















