
古代エミシの英雄アテルイと東北三十八年戦争とは?【後編】|アテルイ終焉の地は現在の大阪府だった⁉
目次
延暦八年(789年)~弘仁二年(811)の征夷と終結
呰麻呂の乱以降、さらにエミシへの軍事的圧力を強めた朝廷はたびたび大規模な武力行使に出るようになりました。

「延暦八年(789年)の征夷」と呼ばれる作戦行動もそのうちの一つで、前年には朝廷により多賀城に5万2800名余りの兵を終結させること、そのための兵糧などを準備すること等々、おびただしい軍備が命じられたことが記録されています。
アテルイの名が史書に登場するのがこの延暦八年の征夷における巣伏の戦いで、彼が直接戦闘の指揮を執ったかどうかは定かではないものの関与の可能性は高いと考えられるでしょう。
この戦いで合計4000名ほどの兵を率いたのが征東将軍の「紀古佐見(きのこさみ)」でしたが、しめて1500名ほどのエミシ軍による陽動・待ち伏せ・挟み撃ちの戦術により撃退されました。
完膚なきまでの惨敗であったにもかかわらず朝廷軍の作戦を立案した副将らは自ら指揮を執らず、エミシの村多数が焼き討ちされたものの古佐見は独断で軍事行動の中止を決定し軍を解散。この報を受けた桓武天皇の怒りを買い厳しい譴責を受けることとなります。
このように朝廷軍の士気も必ずしも高いわけではなく、精強なエミシ軍との戦闘を避けたいという本心が垣間見えます。

次いで延暦十三年(794年)の征夷では朝廷軍の副将軍として高名な武人である坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が起用され、以降の行動では中心的な役割を果たしたものと考えられています。
二年後の延暦十五年に田村麻呂は鎮守将軍を兼任する形で陸奥守および陸奥出羽按察使に就任、延暦二十年(801)年には征夷大将軍として桓武天皇より節刀を賜るなど、名実ともに東北経営の最高司令官といえる地位になりました。

その翌年には陸奥国胆沢郡(現在の岩手県奥州市水沢)に「胆沢城」を造営するため再び田村麻呂が派遣され、そこにアテルイとモレが投降してきたことは既に述べた通りです。
以降も城柵の設置は続きますが、長らくの戦闘をはじめとして民は疲弊しきっており、延暦二十四年(805年)に桓武天皇は「藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)」と「菅野真道(すがののまみち)」に政治方針の議論「徳政相論」を行わせました。
緒嗣は都の造営とエミシへの軍事行動中止を進言し、桓武天皇は持論を改める形でこれを採用、朝廷は大きな方針転換を行うこととなります。
しばらく軍事行動は続きますが弘仁二年(812年)、段階的に陸奥方面の兵力を削減していくことが決定され、ここに東北の三十八年戦争が一応の終結を迎えることとなったのです。
蝦夷の族長・アテルイと大将軍・坂上田村麻呂
13年以上もの長きにわたってエミシ軍を率いてきたと考えられるアテルイ、そしてモレが降伏した坂上田村麻呂とは、いったいどういう人物だったのでしょうか。

後世の伝説が独り歩きしている感のある田村麻呂ですが、出自の坂上氏は後漢・霊帝の後裔を称する渡来系氏族の「東漢氏(やまとのあやうじ)」と同じ一族とされています。
弓馬の道などの武芸に精通する一族として高名で、疾駆する馬上からの弓術である「馳射(はせゆみ)」などの特殊武技でも知られました。父である苅田麻呂は六か月ほどの短期間ながら陸奥鎮守将軍の任にあり、少年期の田村麻呂も多賀城で暮らした可能性が指摘されています。
仮にそうであるとすれば、後年の東北経営における人事は田村麻呂の武勇だけではなく、エミシの文化や言葉に対する知見などが加味されたとも考えられるでしょう。
エミシ軍はゲリラ戦の名手?
エミシの軍が朝廷軍を悩ませ、大兵力を投入しての長期戦となったことはこれまで見てきた通りです。
ではなぜエミシの軍はそれほどまでに精強だったのでしょうか。
一つに当然「地の利」のあったことが考えられます。地形を熟知している在地の勢力は戦略を立てやすく、寡兵であっても陽動や挟撃といった戦法をとりやすかったと思われます。
いわばゲリラ的な戦い方で、そうした兵法に苦戦した例は古今東西枚挙にいとまがありません。
エミシを精強たらしめた武技と武器
もう一つはエミシが「騎射」を得意としていたことが挙げられるでしょう。

田村麻呂の一族が精通していいた「馳射」と同じことで、高速機動を伴う馬上からの射撃は脅威であったと想像できます。
こうした技を実現させるにはまずもって必要数の馬とそれを飼養する体制を備えられること、技能を身につけるための訓練を集団で行えることがポイントです。
名馬の産地としても知られる東北を拠点とするエミシ軍には、日常の狩猟等でそうした基盤があったことが考えられるでしょう。朝廷軍が歩兵に加えて騎兵戦力を増強していった痕跡が認められるのも、そうした戦闘経緯を示す証の一つです。

また、エミシたちは「蕨手刀(わらびてとう)」という独自の刀剣を使用していたことも、白兵戦で威力を発揮したと考えられます。
鉄原料に恵まれた東北では刀剣が発達し、馬上戦闘の激化ともあいまって徐々に反りのある湾刀へと変化していったことがわかっています。
奈良の正倉院にも完全な形で蕨手刀が伝わっており、当時の朝廷にもこの独特な刀の存在は知られていたのでしょう。
余談ながら、蕨手刀は朝廷軍の刀剣類にも大きな影響を与えたと想像されており、やがて日本刀の誕生へつながると考えられるようになりました。
河内国での処刑と「首塚」の謎
最後に、アテルイとモレの最期にまつわる記録と、現代によみがえった伝説に関わるエピソードをご紹介しましょう。
『日本後紀』延暦二十一年八月乙酉条には「河内国□山」で二人が斬られたと、簡潔にその終焉を記しています。
この前段には田村麻呂による助命嘆願があり、エミシの土地を統治するために必要な人材であると強く意見具申したことがうかがえます。
しかしながら朝廷側はかつての呰麻呂の乱のように再び反旗を翻すことを恐れ、斬刑に処す決定を下したのです。
これは朝廷のトラウマといっても過言ではなく、苛烈な処置には相応の根拠があったといえるでしょう。
アテルイとモレが刑死した河内国とは現在の大阪府東部からあたりを指しますが、具体的な地点は不明です。「□山」とされているのは書物によってさまざまに表記されていることから、どれが正しい地名であるのかわからなくなっていることを示しています。
ところが大阪府枚方市の牧野公園には「首塚」と呼ばれる古墳があり、これがアテルイのものであるとして現在はここに「伝 阿弖流為 母禮之塚」と刻まれた碑が建立されています。
興味深いことにここをアテルイの墓とする伝承は古くからあるわけではなく、1979年頃に枚方市史編さん室に地域住民から寄せられた問い合わせに始まるといいます。
いわく、その人物は夢で白髪白髭の老人が地中から身を乗り出して何かを訴えている様子を見るため、当地で何か事件があったのかと質問してきたそうです。
編さん室は真に受けなかったものの、かつてエミシの族長であるアテルイが河内で斬られた記録のあることを情報提供しました。
その一件を耳にしたマスコミが大きく報道し、以降ここがアテルイ終焉の地であるという言説が醸成されたといいます。
このことは史実としての整合性はともかく、時代を超えて古代の悲劇に多くの人が共感した結果引き起こされたムーブメントといえるでしょう。

同じように田村麻呂が創建に関わったとされる京都・清水寺でも、平安遷都1200年の記念として「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」と刻された石碑が建立されました。
いずれにせよ、古代の英雄たちへの哀惜の念が現代によみがえった事例といえるでしょう。


























