
合気道の源流は会津にあり⁉大東流合気柔術と武田惣角【後編】|惣角は合気柔術の開祖?その系譜と紀伊との絆
「大東流」の再編? 誕生?
従来いわれてきた大東流合気柔術伝承の経緯について、元会津藩家老であった西郷頼母から継承して全国に広めるよう言いつかったとされているのは以前の章でも述べた通りです。しかしこのことは史実との照合や諸々の記録から、現在ではほぼ否定されています。
西郷頼母自身が御式内を伝承していたことの証が乏しいこと、惣角がこれを学んだ師は岳祖父の佐藤金右衛門であると考えられること等々の根拠があり、なおかつ惣角が頼母の修行を受けたという霊山寺修験道場は当時まだ存在していませんでした。
古く平安時代にまでさかのぼる技や会津で秘伝された御式内の術などを惣角が再編し、大東流を名乗ったとされていますが実際には自身が修めた武術を総合して一流を開いたのではないかと考えられるようになりました。
西郷頼母はその際に流派の歴史や流名についてアドバイスをした人物である可能性も同様の指摘です。
流派の歴史についてルーツを古い有名武将などに仮託することは古流武術によく見られることで、さらには開祖が修行の果てに神託を得て開眼したなどの伝説的事績も珍しくありません。
仮に大東流合気柔術がさまざまな流派や技をベースとして惣角によって編み出されたものであるとしたら、彼は中興の祖ではなく開祖ということになるため、むしろ会津の偉人として再評価の動きも活発化しています。
現に生まれ故郷である 会津坂下町の郷土学修副読本 では「武田惣角」の項で日本近代武術に大きな影響を与えた人物として紹介する記述に改められました。
いずれにせよ精妙無比な合気の技を世に問うた武田惣角の実績は、武道史において今後もその位置付けの重要度が増してくるのではないでしょうか。
特定の道場を持たない漂泊の教授法
武田惣角が明治30年(1897)頃に大東流合気柔術を世に広めるべく全国行脚の旅に出たとされていることは既に述べた通りですが、これは実際に旅先にしばらく逗留して術の教授を行うというスタイルをとっていました。
つまり特定の拠点道場を持たず旅をしながら、あるいは招請を受けて技の伝授に赴くという独特の形式で伝承がスタートしたといえるでしょう。
そのためにはもちろん大東流という当時の社会にとって未知の武術の有用性を示す必要があり、道中ではさまざまな他流仕合や野仕合を重ねて武名を高めていったといいます。
惣角はこのように道場を持ちませんでしたが、教授した人物を記した「英名録」、そして受け取った謝礼の明細である「謝礼録」という詳細な記録を残しました。
これによって惣角の交流関係や大東流という団体運営の一部を窺い知ることができるといえるでしょう。
そうした点においては明確な経営の観点があったともいえ、生業としての武術家の早い段階における成功例といった評価も可能です。
惣角の指導法は現在のように体系だったものではなく、その場でのフィーリングによってさまざまな技を示したり、あるいは相手によって教える内容を少しずつ変えたりといった形式でした。
そのため伝系によっては異なる点もあるとされ、現在見られる伝書のすべてが当初から存在したものであるかどうかは判明していません。
全国を巡って大東流を広めた惣角でしたが、不思議なことに故郷である会津ではその技を享受した痕跡が見当たらないといいます。
何か思うところがあったのか、あるいは御式内や会津藩伝の武術関係者との関りを避けたものかはわかりませんが、現在では惣角の玄孫にあたる武田宗光氏が、玄祖父の故郷である会津坂下町を本拠として大東流を指導しています。
植芝盛平と武田惣角との出会い
一説によると惣角の指導を受けた門人は3万人にもおよぶといわれていますが、中には後の武道史に名を残す人物も含まれていました。
その代表格が合気道の創始者である、和歌山県田辺市に生まれた植芝 盛平(うえしば もりへい)です。

盛平が大東流合気柔術や自身がそれまで学んできた各種の武術、また大本教による宗教的修行や実戦を通じてやがて合気道を開いたことはよく知られる通りですが、惣角との出会いはまさに劇的でした。
会津と紀伊、遠く離れた生まれ故郷の二人が邂逅したのは北の果て、北海道は遠軽の地です。
それというのも、当時29歳だった植芝盛平は北海道開拓団の長として、54戸を率いて明治45年/大正元年(1912)に紋別郡上湧別村白滝原野へと入植していました。
盛平が大正4年(1915)2月に所用で遠軽の旅館を訪れた時、そこにいたのが旅の途上にあった武田惣角だったのです。
盛平もおよそ156㎝と小柄な体躯ながら軍歴や武術修行、日々の開拓労働で筋骨隆々の剛力を誇ったものの、150㎝に満たない惣角に手も足も出ずねじ伏せられたことに感服。
旅館への宿泊を一か月延長して指導を乞い、翌年には白滝に道場を建てて惣角を招き大東流の免許を授かるまでになりました。
盛平は惣角の巡回指導にも随行しやがて師範代的な役割を果たすなど、名実ともに高弟の一人といって差し支えない存在になっていきます。
しかし大正8年(1919)、父危篤の報に接した盛平は帰郷を決意。白滝の全財産を惣角に譲渡して北海道を離れました。
その後の合気道創始の歴史については割愛しますが、このようにして不世出の達人同士が師弟として奇跡的な出会いを果たしたことが、武道史に巨大な足跡を残すこととなったのです。
会津と紀伊、維新期からの意外なつながり
武田惣角が生を受けた会津と植芝盛平の故郷である紀伊とは、相当な距離があることから北海道での出会いがなければ交わることはなかったのではないかと思わせるほどです。
しかし実は二つの国には、歴史的に深いつながりがありました。

紀伊には古くから熊野の神々に対する信仰があり全国に広がっていましたが、東北地方では殊に盛んでそのうち福島県が最多の熊野分霊を勧請しています。
和歌山の熊野地方にも往時の福島県を含む「奥州」と刻された参詣者の碑を見ることができます。江戸時代なかばに奥州、たとえば岩手県の久慈と熊野を往復するとおよそ2か月かかったといい、これを何度も行うほど熱心な参詣者が古来いたのです。
また、会津の松平氏は当然ながら徳川氏の血縁であり、御三家である紀伊家とは遠い親戚とえるでしょう。
さらに慶応4年(1861)1月に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは、敗退した会津藩兵らは紀伊へと落ち延びました。紀伊本国は不戦を貫いて反攻の兵力を出すことはありませんでしたが、朝廷の命をはぐらかす形で負傷した会津将兵らを救助。さらにアメリカ商船などもチャーターして海路脱出の手引きを行いました。
この時紀伊は朝廷より会津将兵らを匿うことを禁止されていましたが、船で脱出した頃を見計らって形だけ追捕令を発するなどの立ち回りをしたといいます。
この折には京都見廻組の隊長として名高い佐々木 只三郎もおり、戦傷により当地で死亡、和歌山の紀三井寺に葬られました。

また、会津家老の孫で後に陸軍少将や貴族院議員を歴任した山川 浩(やまかわ ひろし)も、現在の和歌山県御坊市にあった「中屋」という旅人屋で手厚い看護を受け、後に会津塗の椀を送るなど交流が続いたことがわかっています。
会津出身の惣角がこうした紀伊との関連を示す逸話を知っていた可能性は充分にあるといえ、北海道で和歌山出身の植芝盛平に出会ったときにそうした両国の絆に思いを馳せたことがあったのかもしれません。
おわりに
合気道の源流となった大東流合気柔術を世に広めた会津の武田惣角は、経歴に謎が多く修行時代の全容は神秘のベールに包まれていたといえるでしょう。
そのなかで丹念な研究を重ねてさまざまなことがわかってきましたが、そのうち惣角には実は双子の妹がいたという事実があります。
彼女は幼いころに失明し、惣角は妹の世話を通じて目に見えないものを鋭敏に感じ取る能力を身につけたともいいます。
それは危機を事前に察知する洞察力であったり、相手のわずかな動きに含まれた情報を深く読み取ったりする観察力と言い換えてもよいのではないでしょうか。
合気柔術も合気道も相手を取り押さえて傷付けずに制圧することが主眼であり、これは相手も自分も救う武技と表現できるでしょう。
これは逆説的なやさしさでもあり、武田惣角も強さの果てにある思いやりや和合の境地を求めていたのではないだろうかとも思わせます。
参考サイト
- 大東流合気柔術 眞武館:http://www.daito-ryu.org/
- 財団法人 合気会:https://aikikai.or.jp/
- 日高新報「御坊で会津藩士寄贈の椀見つかる」2017年10月19日:https://hidakashimpo.co.jp/?p=28685



















