【山形県】山形県の戦国武将3選!最上義光・直江 兼続・志村 光安
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慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いのおり、山形県では慶長出羽合戦という大きな合戦が起こります。山形城を本拠とする東軍の最上勢と、西軍に与した会津・米沢の上杉勢の戦いは後世に語り継がれる大激戦となりました。
もう一つの関ケ原「慶長出羽合戦」とは?
豊臣秀吉の死後、徳川家康が会津の上杉景勝征伐のため出陣していた7月24日、大阪城で石田三成が打倒家康を掲げて挙兵します。下野(栃木県)にいた家康は江戸に戻り、会津征伐で集まっていた東北の諸将も自城に帰還します。
家康と秀忠が東海道と中山道に分かれて江戸を出陣すると、山形の最上氏だけが取り残された形となり、直江兼続に率いる上杉勢が山形に攻め込んで起こった合戦です。
「羽州探題家を再興した名将」最上義光(もがみ・よしあき:1546~1614)
最上氏は清和源氏足利氏、三管領の斯波家の流れで「羽州探題」の家柄です。
義光は文武に秀でた名将で、伊達氏に押されていた最上氏の版図を着々と拡げ、関ケ原後は現在の山形県のほぼ全土と秋田県の由利本荘(後に佐竹氏の秋田県内陸部と交換)などを領有する、57万石の大大名となりました。
なお、義光の妹、義姫は伊達輝宗に嫁ぎ政宗を生んでおり、義光は政宗の叔父にあたります。
悲劇の花嫁の父
義光は娘の駒姫を関白・豊臣秀次の側室として嫁がせますが、望まない輿入れだったとされています。15歳の駒姫が上方に到着する直前に秀次が処刑され、運悪く到着した駒姫も、まだ輿入れ前であるにもかかわらず処刑されてしまいます。
この事で、義光は秀次との関係を疑われ謹慎処分となるなどしたため最上家中は豊臣を恨み、以後徳川家康に傾倒していきます。
上杉景勝の会津転封で高まる緊張
慶長3年(1598年)に、庄内地方で争い続けた上杉景勝が越後から会津に転封され、境界を接したことで最上家との衝突は時間の問題となります。
やがて上杉家の軍備増強を疑う家康に、直江兼続が宣戦布告となる「直江状」を送り会津征伐が催され、義秋は東北勢総大将として米沢口からの会津侵攻を命じられます。
しかし、石田三成の挙兵で会津征伐は中止となり、家康は次男の結城秀康、伊達政宗、そして義光に上杉の監視を命じ大阪に向かいます。最上領内に集結していた奥羽諸将は引き揚げ、伊達政宗が上杉と講和したことで最上勢7千は孤立し、2万を超える上杉勢と対峙することになったのでした。
長谷堂城の戦いとその後の山形藩
直江兼続率いる上杉の大軍の猛攻を長谷堂城の志村光安が耐えていると、関ケ原で西軍敗戦の報が伝わり上杉勢が退却しますが、兼続が見事な撤退戦を展開したため、攻勢に出た義光は兼続を逃してしまいます。
その後、義光は庄内を攻めこれを奪還して領有を認められ、57万石の出羽山形藩初代藩主となりますが、義光が亡くなると跡目争いが起こり、それが元で山形藩は改易されてしまいます。
山形城跡<Information>
- 名 称:山形城跡(霞城公園)
- 住 所:〒990-0826 山形県山形市霞城町1
- 公式URL:国指定史跡 – 山形城
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「戦国屈指の名軍師」直江 兼続(なおえ・かねつぐ:1568~1646)
「愛」の前立ての兜で知られる兼続は謙信にその才を見出され、直江家の養子となる以前から景勝の臣下だったことは書状が残されています。上杉家の内政・外交・軍事を一身に背負い主君景勝を支えました。
元は越後の武将ですが、景勝が会津に転封された際に、臣下ながら秀吉から米沢を与えられ、関ケ原後に、上杉家が米沢に減封された後は、石高を高め、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなどして米沢藩政の基礎を築いたことから、山形県の武将としました。
長谷堂城攻めと撤退戦
慶長出羽合戦では家康が大阪に出陣した後、景勝から18,000の兵を授かり、東軍諸将が帰国して孤立していた最上勢を攻めます。山形城の最後の砦とされた長谷堂城を攻めあぐねている間に、関ケ原での西軍敗戦の報が入り、米沢に向けて撤退を決断します。
やがて伊達政宗が派遣した留守政景隊3,000が着陣し最上義光も山形城から出陣したため、米沢に向けて撤退を始めますが、執拗な追撃を受けながらも見事に完了させ、その様子は最上義光が賞賛するほどだったとされています。
米沢城跡<Information>
- 名 称:米沢城跡(松が岬公園)
- 住 所:〒992-0052 山形県米沢市丸の内1丁目4−13
- 公式URL:山形県公式観光サイト – やまがたへの旅
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「18倍の敵と対峙」志村 光安(しむら:あきやす:生年不詳~1609または1611)
最後に慶長出羽合戦で大きな戦功を挙げた最上家家臣の志村光安をご紹介します。
最上家譜代の家臣・志村光清の子として出羽国漆山地区志村に誕生したと伝わりますが真偽は不明。
SLG「信長の野望」ファンの間では、有能な武将として人気ですが、実際に最上家中随一の弁舌優れた知将だったと言われており、織田信長に使者として派遣され、主君・最上義光の出羽守叙任を許可させたという逸話も残っています。
慶長出羽合戦では長谷堂城に兵1,000でこもり、直江兼続率いる18,000の上杉勢から城を守り抜き、武勇も優れた武将であることを天下に知らしめました。
長谷堂城跡<Information>
- 名 称:長谷堂城跡
- 住 所:〒990-2363 山形県山形市長谷堂
- 公式URL:ー
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まとめ
ほかにも山形県にはたくさんの優れた戦国武将がいます。伊達氏も縁があり、伊達政宗は米沢生まれです。また、最上家の家臣にも志村光安のほかに鮭延秀綱などの武勇・知略に優れた武将が揃っています。