歴史

【青森県】青森県の戦国武将「津軽と南部の不仲は戦国時代から」

江戸時代の青森県は大きく西の津軽藩と、東の南部藩に分かれていて、明治に今の県境となりました。この2つの藩は言葉も文化も違い、さまざまな確執があり仲が悪いと言われていますが、その理由は戦国時代にあります。

なぜ津軽と南部は仲が悪くなったの?

テレビのバラエティ番組などで面白おかしく取り上げられていますが、今はそれほど仲が悪くはないようです。ただ、明治時代までは本当に仲が悪かったと言われています。

戦国時代の青森県は、陸奥国司の末裔・北畠家の領地のほかは、ほぼ全域が南部領でしたが、南部氏につながる大浦為信(後の津軽為信)が、津軽で独立します。

南部家はそれを裏切りとして許さず、江戸時代に盛岡藩士の津軽公暗殺未遂が起こるなど揉め事が絶えず、さらには幕末の戊辰戦争で、津軽藩が南部藩を裏切り攻撃したことで大きな確執が生まれました。

「知略で下克上」津軽(大浦)為信(つがる・ためのぶ:1550~1608)

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青森県の戦国武将筆頭は、やはりこの人でしょう。陸奥随一の知略の武将・津軽為信は、大浦氏の養子となる前の出自に岩手県久慈市説など諸説ありますが、いずれも南部氏とのつながりがあるとされています。

石川城を攻略し独立を果たす

為信は元亀2年(1571年)、津軽地方を治める石川高信の石川城を攻め落とし、下克上を成し遂げます。

このころ三戸南部家中は、晴政とその実子の晴継派と、石川高信の実子で養子となっていた信直派が争っていて、石川家弱体化を狙う晴政が、裏で為信を動かしたとも言われています。

為信は南部家の内輪もめに乗じ周囲の城を次々に落とし、津軽の支配を確立させました。

秀吉から本領安堵と義兄弟の契り

豊臣秀吉が天下を取ると察知した為信は、臣従を誓うため上洛を試み何度も失敗しますが、やがて家臣を上洛させ、秀吉から所領を安堵されます。

さらに秀吉の小田原征伐の際は、南部信直より先に秀吉に接見して独立大名として認知され、南部家が起こした領地略奪の訴えを退ける事に成功します。さらに、秀吉に藤原性を与えた近衛家に接近して藤原性を許され秀吉と名目上の「義兄弟」となり、性を大浦から津軽に改めました。

東軍に与した関ケ原の戦い

関ケ原には三男・信牧を連れ東軍として参戦し、家康本陣に従い関ケ原に参陣していたとみられています。しかし、嫡子の信建は秀吉の小姓として大阪城にあり、西軍敗戦後に石田三成の息子・重成と娘を連れて津軽に帰国します。

為信は秀吉との接見や南部家の訴え棄却などで石田三成に恩義を感じていたため、家康に隠れ二人を匿い、このことから地元では、為信が単に非情の謀略家でなく義を重んじる武将であったとして慕われています。

弘前城の築城と晩年

関ケ原の後、居城の堀越城が攻略されやすいため、為信は現在の弘前城を築きますが、為信の代では完成できませんでした。

このころ上洛中の嫡男・信建が病となり、見舞いのため為信も上洛します。しかし、到着前の慶長12年(1607年)10月に信建が病死し、その2ヶ月後には為信も京にて58歳で亡くなります。津軽家は信牧が家督を継ぎ、津軽藩は明治まで存続しました。

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  • Google Map 盛岡城跡

「信頼のナンバー2」石川(南部)高信(いしかわ・たかのぶ:1495~没年不詳)

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南部家23代当主・南部安信の弟とされ、知勇兼ね備えた名将として伝えられています。家中の信頼が厚く津軽地方の統治を任され、さらには晴政の補佐役も努めたとされる一方、晴政の弟であったとする説もあり、正確な生没年月日はわかっていません。

為信に討たれた?留守だった?

元亀2年(1571年)5月5日、大浦為信に石川城を落とされ津軽地方を奪われます。この際に高信は討ち死に説と、留守だったとの説がありますが、生き延びたとして高齢とはいえ名将の誉高い信高が、その後の記録に全く名が出てこないのは違和感があります。

豊かな津軽を奪われた南部家は、その力を大きく削がれたのでした。

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  • Google Map 石川城跡(大仏ヶ鼻城跡)

「陸奥の貴種」浪岡(北畠)具永(なみおか・ともなが:1487~没年不詳)

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浪岡氏は南北朝の南朝鎮守府大将軍・北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)の末裔とされ、その居城の浪岡城は敬意をもって「浪岡御所」と呼ばれていました。

北畠顕家はかの足利尊氏を2度まで窮地に陥れた名将でしたが、わずか20歳の若さで討ち死にします。

その後の北畠家は、嫡流の「浪岡御所」が庶流の「川原御所」を従える形で栄え、具永と子の具統の代で最盛となりましたが、永禄5年(1562年)、北畠氏一族の間で「川原御所の乱」が起こると、北畠氏の勢いは急速に衰え、津軽為信に滅ぼされました。

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  • Google Map 浪岡城跡

まとめ

津軽藩と南部両は奥州街道でつながり、藩境から南部側の馬門(野辺地町)と津軽側の狩場沢(平内町)の距離は1km程度ですが、文化と言葉が交わることがなく、旧藩の境界と方言の境界が一致しており、日本では唯一ここだけとされています。

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