【戊辰戦争時の福島県】会津・白河・棚倉・二本松…その他諸藩の決断とは?
目次
戊辰戦争では、朝敵とされた会津藩にまつわる悲話が数多く語られています。
ただ、福島県ではほかの諸藩もまた列藩同盟として官軍に対抗し、二本松、白河口、浜通りなどの各地で激しい戦いが繰り広げられました。
火中の栗を拾う忠義の心・会津藩
会津藩初代藩主の保科正之(ほしな・まさゆき)は、徳川第3代将軍・家光(いえみつ)の異母弟で、よく兄を助け幕府の重鎮として信頼の厚い存在でした。
徳川一門として「親藩・御家門」とされ、第3代・正容(まさかた)の時、松平性に改めています。
会津家家訓(かきん)15ヵ条
初代・正之が残した15ヵ条の家訓は徳川将軍家に絶対的忠誠を誓うもので、年3回城中では家臣一同が拝聴するなど、会津藩では絶対的な家訓でした。
武士の鑑と称されるこの家訓から、会津藩は戊辰戦争の中心に巻き込まれていきます。
会津戦争への道のり
9代藩主・容保(かたもり)は英明で、藩政改革などに尽力した名君でした。
文久2年(1862年)会津藩の幕府への忠誠が評価され、京都守護識に任命されます。
上京した容保は新選組を用いて京都の治安維持にあたりますが、この際の尊王攘夷派志士取り締まりや長州藩との対立が、会津戦争につながっていくのでした。
京都守護識退任後も、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)や実弟で京都所司代の桑名藩主・松平定敬(まつだいら・さだあき)とともに政局を動かす存在でした。
「禁門の変」と2度の「長州征伐」を経た後、「鳥羽・伏見の戦い」に敗れた事で朝敵とされ、会津に戻り官軍となった新政府軍を迎え撃つことになります。
鶴ヶ城落城と白虎隊
慶応4年(1868年)、官軍は会津盆地への侵攻口のひとつ、母成(ぼなり)峠を破って会津若松城(鶴ヶ城)城下に乱入します。
ほかの侵攻口に主力を分散配備していた会津藩は、予備兵力の少年隊(白虎隊)をも投入しますが敗れます。
鶴ヶ城は落ち、白虎隊の自刃や家老の西郷頼母(さいごう・たのも)一族全員の自害などの悲劇が起こり、今も語り継がれています。
会津若松城跡<Information>
- 名 称:会津若松城跡(鶴ヶ城跡)
- 住 所:〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
- URL:鶴ヶ城公式HP
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白河口の戦い小峰城争奪戦・白河藩(幕府天領)
白河藩は「寛政の改革」の松平定信(まつだいら・さだのぶ)で有名ですが、その後藩主となった阿部家の失脚で幕府直轄の天領となり、戦争時は官軍が管理していました。
会津藩家老の西郷頼母が旧幕府軍を率い白河小峰城を落としましたが、官軍に奪還され、その後旧幕府軍は3ヵ月間に渡り攻め続けますが奪回できませんでした。
白河小峰城跡<Information>
- 名 称:白河小峰城跡
- 住 所:〒961-0074 福島県白河市郭内
- URL:白河市HP
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多勢に無勢での奮戦・棚倉藩
白河藩と同じ奥州への入り口にあたる棚倉藩は、白河から移封の藩主・阿部正静(あべ・まさきよ)とともに白河口の戦いで奮戦するも、守備が手薄だった棚倉城は官軍の板垣退助(いたがき・たいすけ)率いる800名に攻撃され落城してしまいます。
棚倉城跡<Information>
- 名 称:棚倉城跡
- 住 所:〒963-6131 福島県東白川郡棚倉町棚倉城跡
- URL:棚倉町公式HP
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悲劇の籠城戦・二本松藩
二本松藩は、織田信長の宿老・丹羽長秀(にわ・ながひで)の末裔、丹羽長国(にわ・ながくに)が藩主で、中通りでは有力な10万石の藩でした。
白河口の戦いへ主力を派遣中に、棚倉城と浜通りを落とした官軍の急襲を受け、周囲の藩が降伏するなか孤軍奮闘しますが、二本松城は落城します。
この際に動員された少年隊(当時は隊名がなく、後日命名)がほぼ全滅したことは、白虎隊とならぶ悲劇として語り継がれています。
二本松城跡<Information>
- 名 称:二本松城跡
- 住 所:〒964-0904 福島県二本松市郭内3丁目164−1
- URL:二本松城公式HP
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勤王派小藩の苦悩・三春藩、守山藩
二本松藩とともに戦った両藩家中では、戦前の意見の大勢は「勤王」で官軍よりでしたが、仙台藩など大藩の圧力に屈して列藩同盟に参加します。
評価が分かれる二藩の決断
両藩とも無血開城したことで二本松を見捨てたとされますが、地元では、冷静な判断で藩内を戦火から守ったとして評価されています。
Google Map(三春城跡)
Google Map(守山城跡)
浜通りは磐城の戦いから・泉藩、湯長谷藩、磐城平藩、相馬中村藩
浜通りはどこも小藩で、大きい磐城平藩と相馬中村藩でもそれぞれ6万石程度でした。
劣勢が続く奥羽越列藩同盟軍
各藩は仙台藩の支援を受け、常陸国平潟(茨城県)に上陸を阻止しようとしますが失敗します。
官軍は磐城平城をはじめ浜通り各藩を次々に攻略し、相馬中村藩の降伏によって仙台藩との藩境に到達します。
Google Map(泉陣屋跡)
Google Map(湯長谷城跡)
Google Map(磐城平城本丸跡地)
Google Map(相馬中村城跡)
大藩に翻弄された中通りの小藩・福島藩、下手度藩
宮城県境に近い福島市と伊達市にあった両藩は、ともに仙台藩の圧力下にありました。
戦争に引き込まれていく小藩二藩
福島藩は、領内で官軍参謀の世良修蔵が仙台藩士の手で暗殺され、同盟に参加します。
また、下手度藩は国元の家老が列藩同盟参加に調印しながら、藩主・立花種恭(たちばな・たねゆき)が官軍参加に動いていたことが明らかになり、仙台藩から攻められます。
Google Map(福島城跡)
Google Map(下手度陣屋跡)
まとめ
戊辰戦争の主役ともいえる会津藩には、藩士の子弟による「什」と呼ばれる組織があり、家訓に準じた7ヵ条の「什の掟」による教育が進められていました。 「ならぬことはならぬものです」との一節が有名な「什の掟」は、今でも教育に活かされており、会津若松市が制定した「あいづっこ宣言」にも引用されています。