
戦国時代に秋田を支配し、能代市を本拠地とした檜山安東氏【秋田県】
目次
能代市は、西側を日本海に接する人口約4万7,000人(令和6年12月現在・能代市調べ)の秋田県北部にある都市です。市の中央を一級河川米代川(よねしろがわ)が東西に流れ、河口の能代港は、古くから秋田県北部の流通を担う中心地として栄えてきました。
現在の能代市は、米代川河口部の旧能代市と米代川中流部の旧二ツ井町(ふたついまち)が2006年に合併して誕生しました。
石器時代から人が暮らしていた米代川河口部
能代の海岸部には石器時代の約3万年も前から人が住んでいたことが、遺跡の発掘から分かっています。また、現在の海岸線から3kmほど内陸部に、7000年前(縄文時代前期)のかなり大きな集落跡の杉沢台遺跡(すぎさわだいいせき/能代市磐字杉沢台/国指定遺跡)や2000年前(縄文晩期)の柏子所貝塚(かしこどころかいづか/能代市字柏子所/県指定史跡)といった遺跡も発見されていて、多くの人たちが暮らしていました。
縄文時代は、旧石器時代の氷河期が終わり、地球が温暖化していた時代で、21世紀の日本より平均気温が2~3℃位高く、海水面も3~5mほど高かったのです。杉沢台遺跡や柏子所貝塚が現在の海岸線より3kmほど内陸に存在するのは、遺跡のあたりまで海だったという証となっています。
縄文時代から平安時代にかけて使われていた大きな集落跡「杉沢台遺跡」

杉沢台遺跡は、縄文時代前期(約7000年前)から平安時代(794年~1185年)の集落跡です。1980年(昭和55年)の発掘調査の結果で、44棟の住居跡や主に食料庫として使われていたと考えられている入口が狭く、中が広いフリスコ型をした穴(フラスコ状土坑、フラスコ状ピット)が109基も発見されています。特に長辺が31m、幅8.8mにもなる大きな竪穴住居跡も発見されました。その後の調査では周辺からも住居跡や多くの埋蔵物などが見つかり大きな集落であったことが分かっています。杉沢台遺跡は国指定史跡です。
杉沢台遺跡<Information>
- 施設名称:杉沢台遺跡
- 所在地:秋田県能代市磐字杉沢台
- 電話番号:0185-74-6040(能代市文化財保護室)
- ※能代市立竹生小学校の東約1㎞の畑地のなかに保存され、見学可能。現地には案内看板あり
- アクセス:
- 公共交通機関/JR五能線北能代駅からタクシーで約5分
- 車/秋田自動車道能代東ICから約20分
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約3000年前の貝塚「柏子所貝塚」。埋葬された人骨も出土
柏子所貝塚は、約3000年前(縄文時代晩期)の貝塚で、埋葬されたとみられる8体もの人骨も出土していて、墓地だったとも考えられています。柏子所貝塚は秋田県指定史跡です。
柏子所貝塚<Information>
- 施設名称:柏子所貝塚
- 所在地:秋田県能代市字柏子所87
- 電話番号:0185-74-6040(能代市文化財保護室)
- アクセス:
- 公共交通機関/JR奥羽本線・五能線東能代駅からタクシーで約7分
- 車/秋田自動車道能代東ICから約10分
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飛鳥時代に阿倍比羅夫が進軍し、大和朝廷が支配するようになった能代地方
縄文時代から弥生時代(2800年前~1850年前[西暦250年]頃)までは平穏な時代を過ごしてきた能代の人々でしたが、大和(奈良県)の朝廷が力をつけてきた古墳時代(250年~600年頃)あたりから状況に変化が出てきます。
支配地域を広げていった奈良を本拠とする大和朝廷は、600年代中頃から東北地方にも領地を広げようと軍隊を送り込みます。658年には朝廷の将軍阿倍比羅夫(あべのひらふ/生没不明)が軍を率いて能代の港(当時は渟代=ぬしろ)に来航し、抵抗する当時大和朝廷から蝦夷(えみし)と呼ばれていた地元民を破り、支配下に治めた(『日本書紀』)という記録が残っています。
奈良時代は中国大陸の渤海国との交易が盛んに行われていた能代湊
東北地方を掌握したい大和朝廷は、飛鳥時代末期の709年に最上川河口付近(山形県場所は不明)に、以北の地を攻める拠点として出羽柵(でわのさく/でわのき)を築き、出羽国(でわのくに)を建国します。さらに北に支配地を広げていった朝廷軍は、733年には出羽柵を現在の秋田市内高清水(秋田市寺内焼山)に移し、760年には出羽柵を秋田城と改称し、より強固な城となりました。

想像模型(秋田城跡歴史資料館/秋田市) ©あきた観光写真館
平安時代末期から鎌倉時代に全盛期を迎えた十三湊安東氏
平安時代も後期になり、東北地方では豪族同士の覇権争いが激化します。東北地方太平洋側にあった陸奥国(むつのくに/岩手県・青森県の一部)で強大な勢力を誇っていた安倍氏を、陸奥守(むつのかみ/陸奥国の長官)だった源頼義(みなもとのよりよし/988年~1075年)が滅ぼした<前九年合戦(ぜんくねんがっせん/1050年頃~1062年/前九年の役=ぜんくにんのえき)>や、前九年合戦で頼義側につき、力をつけた出羽国(秋田県・山形県)の清原氏(きよはらうじ)が反乱を起こした<後三年合戦(ごさんねんがっせん/1083年~1087年/後三年の役)>など、動乱の時代に突入します。後三年合戦では清原氏が滅亡し、奥州藤原氏が台頭してきます。
奥州藤原氏東北支配を快く思っていなかった源頼朝(みなもとのよりとも/1147年~1199年)は、実弟の源義経(みなもとのよしつね/1159年~1189年)を、藤原秀衡(ふじわらのひでひら/1122年?~1187年)がかくまっていたことを理由に、奥州藤原氏を滅亡に追い込みました。
その頃、前九年合戦で滅ぼされた安倍氏の頭領安倍貞任(あべさだとう/1019年~1062年)の子息、高星丸(たかあきまる)が命からがら藤崎(青森県藤崎町/ふじさきまち)にたどりつき、成人後安藤氏(後の安東氏)を興し、藤崎城を拠点に勢力を伸ばしていました。安東氏は鎌倉時代になると幕府より蝦夷地(えぞち/北海道)管理の仕事を任され、大いに栄えたといわれています。その後本拠地を十三湊(とさみなと/青森県五所川原市/十三湖が有名)に移し、以後350年間津軽の大豪族として君臨することになります。
安東氏が松前から能代に進出、檜山安東氏の支配下に

15世紀中頃(室町時代)になって、津軽支配を目論む盛岡(岩手県盛岡市)を本拠地とする南部氏が進出してきます。安東氏は応戦しますが、南部氏の戦力が強大で、津軽の地を放棄し、北海道の松前に逃れました。
再起を誓う当主安東政季(まさすえ)は、松前には長くとどまらず本土に戻ります。その際は十三湊には帰らず、能代の檜山(ひやま/能代市檜山)を本拠地とします。檜山安東氏の始まりです。その後1495年には檜山安東氏2代目当主忠季(ただすえ)が檜山城を完成、以降1598年に土崎湊(つちざきみなと/秋田市土崎港)の湊城(みなとじょう)に拠点を移すまで、政季、忠季、尋季(ひろすえ)、舜季(きよすえ)、愛季(ちかすえ)、実季(さねすえ)まで6代に渡り檜山安東氏の居城として使われました。

檜山城は、馬蹄(ばていけい/馬の爪を保護する金具/蹄鉄)の形をした山城で、東西1,500m、南北900mと当時としては非常に大規模な敷地がありました。“霧山(きりやま)城”あるいは、“堀内(ほりうち)城”とも呼ばれ、周辺には檜山城の支城として建てられた「茶臼館(ちゃうすだて)」や同じく「大館(おおだて)」、檜山安東氏の菩提寺である「国清寺(こくせいじ)」などが建立されています。
難攻不落の城だった檜山城

津軽では一族として力を発揮していた安東氏ですが、鎌倉時代後期から室町時代初期の頃に2派に分裂します。分裂した一派は津軽を捨て、南に下り秋田の土崎湊(つちざきみなと)に湊城を築き領地を広げました。一方の津軽に残った安東氏は、後に能代檜山を本拠地にします。2つ分裂した安東氏を区別するために土崎湊の安東氏を<湊安東氏>、能代の安東氏を<檜山安東氏>と呼んでいます。安藤氏を安東氏と改称したのもこの頃だったようです。
檜山安東氏と湊安東氏は仲が悪く、ことあるごとに対立していました。1589年には湊安東氏が檜山安東氏の檜山城を5か月に渡って攻め込んだのですが、攻め落とせず、最後は檜山安東氏への外部からの援軍もあり、湊安東氏が敗北します。後に“湊騒動”と呼ばれる内乱は、檜山安東氏の当主安東(秋田)実季(あんどうさねすえ/あきたさねすえ)が、檜山城を離れるきっかけとなったのです。
江戸時代一国一城令により廃城になる
江戸時代に入り、徳川幕府によって行われた国替(くにがえ/大名の転勤/移封=いほう、転封=てんぽう)によって秋田には佐竹氏が入部(にゅうぶ/赴任=ふにん)します。そのため、秋田氏を名乗っていた安東氏は常陸国(ひたちのくに)に転封させられてしまいます。檜山城には、久保田藩(秋田藩)の家臣であった小場(おば)氏(後の大館城代で、佐竹氏を名乗り佐竹西家と呼ばれた)や多賀谷宣家(たがやのぶいえ)が城代になりますが、江戸幕府により1620年に出された一国一城令により檜山城は廃城となりました。檜山安東氏城館跡、および大館跡、茶臼館は国指定史跡です。

檜山安東氏城館跡<Information>
- 施設名称:檜山安東氏城館跡
- 所在地:秋田県能代市檜山
- 電話番号:0185-74-6040(能代市文化財保護室)
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大館跡<Information>
- 施設名称:大館跡
- 所在地:秋田県能代市田床内縄手下
- 電話番号:0185-74-6040(能代市文化財保護室)
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茶臼館跡<Information>
- 施設名称:茶臼館跡
- 所在地:秋田県能代市檜山越王下
- 電話番号:0185-74-6040(能代市文化財保護室)
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国清寺跡<Information>
- 施設名称:国清寺跡
- 所在地:秋田県能代市檜山
- 電話番号:0185-74-6040(能代市文化財保護室)
- 檜山城跡へのアクセス:
- 公共交通機関/JR奥羽本線・五能線東能代駅からタクシーで約10分
- 車/秋田自動車道能代東ICから車で約15分
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江戸時代の能代地方は、能代の港が北前船の寄港地となり、能代をはじめとする秋田県北部の流通拠点となり、米代川で集められた秋田杉や阿仁鉱山(あにこうざん/北秋田市)などの鉱物の積み出し港として大いに賑わいました。
江戸時代以降の能代に関しては、別項でご紹介します。