
会津彼岸獅子|春の彼岸に舞われる会津地方の民俗芸能【福島県】
会津彼岸獅子とは?

会津彼岸獅子(あいづひがんじし)は、関東地方を中心とした東日本に広く分布する一人立ちの三人一組からなる三匹獅子舞(さんびきししまい)と呼ばれる形式の獅子舞で、春彼岸(春分の日前後)に会津盆地の各地で五穀豊穣・家内安全等を祈願して巡行・奉納・披露される民俗芸能です。
会津彼岸獅子の起源

彼岸獅子の起源には
- 平安後期(前九年の役)起源説
- 蒲生氏郷入封時発祥説
- 保科正之入封時発祥説
- 寛永年間(1624年~1645年)の下野国からの伝来説
と複数の説が存在しますが、会津地方でもっとも古いといわれる喜多方市関柴町字下柴に伝来する「下柴の彼岸獅子」の由来に残る、下野国(現在の栃木県)の獅子太夫「古橋角太夫」が寛永年間に旅の途中に下柴に住み着き舞を伝授したという説が最も有力といわれています。
下柴の安楽寺には「彼岸獅子を伝えた古橋角太夫の墓といわれる石塔」があることや、1724年に「会津郡天寧村(会津若松市天寧)の木村長七ほか3名が下柴の小林勘三郎に宛て獅子舞を習い受けることを願い出た旨の文書」が残っていること等がその裏付けとされています。
戊辰戦争時に山川大蔵の帰城に協力した小松獅子
歴史の重要な場面で彼岸獅子が活躍したエピソードも残っていて、それは以下のようなものです。
会津戦争(戊辰戦争)時の1868年8月23日、若松城(鶴ヶ城)は新政府軍に包囲され籠城戦を開始。
会津の南に位置する日光口(現在の南会津町田島)の守備に当たっていた会津藩家老・山川大蔵(やまかわおおくら)は、この報を聞くと救援の為急ぎ若松城へと退却をはじめ、一歩手前の小松集落(現在の会津若松市北会津町小松)に差し掛かります。
そこで山川は、損耗を避けて敵の包囲を抜け城に入る策として「彼岸獅子」と共に舞って敵の油断を誘い、堂々と入城しようと考えます。
そして「小松彼岸獅子」の一団は舞を舞いながら呆気に取られている長州藩と大垣藩の脇を堂々と通り過ぎ、見事に入城を果たしたといわれています。
この功績から「小松彼岸獅子」には会津松平家の葵御紋(会津葵)の使用が許され、現在でも小松彼岸獅子の太夫獅子の頬掛けには「会津葵」が染められています。
このエピソードは2013年に放送されたNHK大河ドラマ『八重の桜』(やえのさくら)の中でも、会津戦争の印象的な1シーンとして描かれています。
会津彼岸獅子の構成・装束・楽器

獅子団の構成として「太夫獅子・雌獅子・雄獅子」に加え、弊舞小僧・御弓持・棒持・笛吹・小太鼓等の役割があり、概ね合計12人程度で構成されます。

演目には「庭入・山おろし・単場かくし・雌獅子かくし・弓舞・棒舞・大桐・袖舞・弊舞・ばち舞」など20を超える演目があるとされていますが、本公演は一般的に5曲ほど披露され、20〜30分を目安に行われます。
獅子頭は「光沢のある黒い鳥の羽」で覆われていて、下柴獅子のHPによるとこれは一羽から2~3本しか取れない貴重な会津地鶏の尾羽が使われているとか。
口の下には「絹の薄生地の頬掛け」が付けられていて、この頬掛けには獅子ごとに異なる紋が染め抜かれており、紋の違いによって獅子を見分けることが可能です。

天寧獅子の場合は太夫獅子(左)が矢車、雌獅子(中)が鶴丸、雄獅子(右)が下がり藤となっています。
そしてそれぞれの獅子が腰に横打ちの小太鼓を結び、両手の細い撥で小太鼓を打ちながら舞を舞います。




















