
炭焼藤太とは? 黄金伝説が残る炭焼藤太夫婦の墓を訪ねる【宮城県栗原市】
目次
宮城県北部、岩手県との県境に位置する栗原市に「金成」という地名があります。この地を流れる夏川では砂金が取れたといわれており、金成という地名に因む「炭焼藤太(すみやきとうた)」の伝承が有名です。
そしてこの金成には「炭焼藤太夫婦の墓」が史跡として残されています。この記事では、宮城県に伝わる炭焼籐太の伝承と実際に訪れた「炭焼藤太夫婦の墓」についてご紹介します。
栗原市金成地区とは?
旧栗原郡金成町(現:栗原市金成)の歴史は古く、坂上田村麻呂が東夷東征の際、この地で陣を構え戦勝祈願の後に勧請したと伝わる白山神社があり、後に源頼朝が奥州藤原氏追討の際、この白山神社に戦勝を祈願したという伝承も残っています。

近世に入ると奥州街道の宿場町として発展し、有壁地区には本陣に利用された建物が現存しており、その他にも金成小学校(宮城県指定有形文化財)や金成ハリストス正教会(旧金成町指定有形文化財)など歴史的な建築物が残されています。
貧しい炭焼職人のサクセスストーリー?
時は藤原氏が平泉で隆盛を誇った平安時代までさかのぼります。貧しい炭焼き職人であった藤太という若い男が大金持ちになったきっかけを描く、ほのぼのとした物語。
さて、そのお話とは。
突如現れたお公家様の娘!京の都からはるばる会いに来た

藤太という炭焼きを生業とする男がいた。まじめで働き者だが、まだ若い独り身の男である。
ある日、藤太が煤で顔を真っ黒にしながら炭を焼いていると、「あなたが藤太さんですか」と突然、若い女の声で問いかけられた。
顔を上げると、京の都の貴人を思わせる雅な服装の女が弱々しく立っている。驚いた藤太は、高貴な女の出で立ちに圧倒され言葉も出なかった。
すると、女は旅の疲れで精根尽き果てたのか、藤太の胸に倒れ込んで寝入ってしまう。
丁度、日も沈んだ頃合いであり、藤太が炭焼小屋の中に女を寝かせると、安心した寝顔を見せながら翌朝までぐっすりと眠った。
動揺している藤太はというと、小屋の周囲を歩き回ることしかできず、一睡もしないまま朝を迎えたのだった。
観音様のお告げが運命の証?

小屋に差し込む朝の光で女は目を覚ます。すっかり元気を取り戻した女は、土間に手を着いて改まり、突然の訪問を侘びた後に事の顛末を話し始めた。
女の名前は於古屋(おこや)。都の右大臣の娘だが、争乱が続く都ではその立場が危うくなっているという。さらに、自分は器量も良いわけではないことから嫁ぎ先も見つからず、清水寺にお参りを続けながら「結婚できますように」と願い事をしていたこと。
そうしていると、ある月夜の晩、清水の観音様から「みちのくの金成という場所に藤太という男がいる。その男のところに行って夫婦となれ。」というお告げを授かったこと。そして、藤太を探し求める旅の末にやっと巡り会えたこと。
於古屋は淡々と語ると、はじめて会ったにもかかわらず、既に籐太を夫として信じ切っているようすだった。
藤太はどうかといえば、於古屋の持つ都の雰囲気と何の迷いもない態度に抗うこともできず、あまりにも突然に嫁を持つことになった事態を飲み込めないままだったが、結局、ふたりは夫婦として暮らすことになる。
食べるお米がなくなった

炭焼の仕事をする藤太は貧しかった。ふたりが一緒に暮らしはじめてひと月ほど経った頃、於古屋は藤太に深刻な顔をして打ち明けた。
「食べる米が底をつき、仕事着を繕う糸も使い切ってしまいました。買うお金はありますか。」
藤太は答える。「炭を持っていって米と交換すればいいだろう。」
それを聞いた於古屋が窯から炭を取り出そうとすると、炭が出来上がるまであと三日かかると藤太に止められた。於古屋は、三日間も飲まず食わずでもいいのかと藤太に食い下がったが、藤太は我慢するしかないと言い放つ。
都で裕福な暮らしをしていた於古屋にとっては、お金がなくて食べるものが買えないなどというのは、はじめて経験することだった。於古屋は、路銀(旅費)として大切に仕舞っておいた砂金が入った袋を帯の間から取り出すと、「これで米を買ってきてください。」と藤太に渡した。
藤太は言い争いをしたことが照れくさかったのか、そそくさと家を出ていった。
砂金がどういうものか知らなかった籐太

しばらくすると藤太が一羽の鴨を手に持って帰ってきた。
「これで三日間は食いつなげるぞ。」と藤太はうれしそうにしている。それを見た於古屋は唖然とした。
「都なら三カ月は暮らせるお金なのよ!それがどうして鴨一羽だけなのよ。」聞けば、於古屋から預けられた砂金の袋を投げつけ、鴨に命中させて仕留めたという。ショックのあまり座り込んでしまった於古屋に「あれっぽっちで、そんなに物が買えるのか?」と籐太がいうのだった。
「あれと同じものなら裏山にたくさんころがっているのに。」

それを聞くと於古屋の眼の色が変わった。籐太に案内させて裏山に行ってみると、なぜこれまで気づかなかったのか。草の生えた岩の割れ目が至るところでキラキラと輝いていた。
現在の墓と金売吉次との伝承
ここからは今も現地に残る、炭焼藤太夫婦の墓についてご説明します。
現在残る炭焼藤太夫婦の墓は、伝承によれば正徳5年(1715)に地元の大庄屋・佐々木氏が碑を建立し、現在地へ移設して顕彰したものとされています。もともとの墓所は、現在の墓から徒歩約7分ほどの場所にある常福寺の裏山「寺場山」にあったと伝えられており、常福寺も同じ栗原市金成地区に位置しています。


現地に設置されている案内板を見ると、現在の墓所は看板の設置年月から平成14年に周辺が整備されたことが分かります。石段や広場、案内板などが整備されたことで、現在は地域の史跡として訪れやすい環境となっています。

案内板では、炭焼藤太夫婦には橘治(吉次)・橘内・橘六という三人の子がいたと紹介されています。そのうち長男の橘治は、京都と奥州を往来する豪商となり、藤原秀衡に仕え、源義経を平泉へ案内した人物として知られる金売吉次であると伝えられています。

入口から石段を登ると、周囲の景色は田園から杉林へと変わります。距離はそれほど長くありませんが、木々に囲まれた遊歩道には独特の静けさがあり、炭焼藤太夫婦が眠る場所へ向かう道として、どこか厳かな空気を感じます。

石段を登り切ると、覆屋(おおいや)の中に炭焼藤太夫婦の墓が静かにたたずんでいます。現在では屋根が設けられ、長い年月を経て受け継がれてきた石碑や双石塔が大切に保存されているのが分かります。

中央には碑文を刻んだ石碑、左右には双石塔が安置されています。墓前の説明板によれば、左右の石塔はもともと三重塔の形状だったと考えられており、かつては藤太と於古屋(おこや)の没年月日や法名が刻まれていたと伝えられています。しかし、長い年月を経て文字は磨滅し、現在ではその内容を読み取ることはできません。

幸い、墓前には石碑に刻まれた碑文の内容や墓の由来を詳しく解説した説明板が設置されています。説明板によると、碑文には藤太が黄金を掘り当てて財を成したことや、その子孫にまつわる伝承などが記されているようです。
その中でも特に知られているのが、藤太と金売吉次を結び付ける伝承です。
金売吉次は、『平治物語』や『義経記』などの中世文学に、都で黄金を商い、源義経を平泉へ導いた人物として登場します。一方、栗原地方では、この金売吉次を炭焼藤太本人、あるいは藤太の長男・吉次であったとする伝承が語り継がれています。
しかし、このような伝承は栗原市だけに残るものではありません。宮城県蔵王町をはじめ東北各地にも類似の伝承が伝わっており、その内容や系譜は地域によって少しずつ異なります。
そのため、炭焼藤太と金売吉次の関係を直接裏付ける同時代史料は確認されておらず、現在では地域に受け継がれてきた伝承の一つとして語り継がれています。
炭焼藤太夫婦の墓
- 名 称:炭焼藤太夫婦の墓
- 住 所:〒989-5111 宮城県栗原市金成日向14−3
- 公式URL:栗原市公式観光サイト – 炭焼藤太の墓
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