【岩手県】危機を乗り越えて今日も走る三陸鉄道
岩手県の太平洋沿岸部を走る鉄道があります。
その名も「三陸鉄道」の「リアス線」です。
三陸海岸を走る鉄道としては最後に開業した三陸鉄道は、かの大災害の被害を受けても再び立ち上がって、今日も地元の人たちや観光客たちと彼らの思いを乗せて走っています。
三陸鉄道リアス線とは?
「三陸鉄道」は、岩手県や宮古市といった公的機関に加えて、岩手銀行などの民間企業も出資している、第三セクター方式で設立された会社です。
通称は三鉄(さんてつ)です。
岩手県大船渡市の盛(さかり)駅から、釜石市の釜石駅、宮古市の宮古駅を経て、久慈市の久慈駅までを結ぶ「リアス線」という路線を運営しています。
リアス線は全長163kmにも及んでおり、第三セクター方式の鉄道会社の所有する路線としては日本一長いことが特徴。
ただし、歴史的経緯などから、正式には盛駅~釜石駅間が「南リアス線」、釜石駅~宮古駅間が「リアス線」、宮古駅~久慈駅間が「北リアス線」という名前になっています。
冬の休日に運行される、こたつに入って海鮮弁当に舌鼓を打てる「こたつ列車」は、三鉄の名物となっています。
なお、起点の盛駅には現在、三陸鉄道以外の旅客鉄道は通っていませんが、貨物専用の岩手開発鉄道という鉄道が通っています。
詳しくはこちらの記事でご覧ください。
三陸沿岸部の鉄道路線
三陸沿岸の地域を結ぶ三陸縦貫鉄道は19世紀の終わり頃から構想されていました。
そして1928年に開業した宮城電気鉄道の仙台駅~石巻駅間(現在のJR仙石線)を皮切りに、八戸線、大船渡線(三陸沿岸を走る区間は既に廃止)や気仙沼線(同)、山田線(三陸沿岸を走る釜石駅~宮古駅間は、2019年に三陸鉄道に移管)といった路線が開業していきました。
仙石線についてはこちらの記事をご覧ください。
さらに1972年には宮古駅から田老駅までを結ぶ「宮古線」が開業します。
これは現在の北リアス線の一部区間です。
1973年には盛駅~吉浜駅間が開業して「盛線」と命名され、後に南リアス線の一部となります。
1975年には、久慈駅から下閉伊郡普代村(ふだいむら)の普代駅までの路線である「久慈線」が開業して、これも後に北リアス線の一部となるのです。
1977年に宮城県の前谷地駅と気仙沼駅を結ぶ気仙沼線が全通したことから、いよいよ三陸縦貫鉄道は完成間近になります。
具体的には、吉浜駅から釜石駅までの区間(盛線と山田線の間の部分)と、田老駅から普代駅までの区間(宮古線と久慈線の間の部分)の開業を残すのみとなったのです。
ところが、完成間近の三陸縦貫鉄道は、国鉄の経営悪化という大きな困難に直面します。
南リアス線と北リアス線の開業
現在のJR線を運営していた国鉄(日本国有鉄道)は、1980年前後の時期には既に巨額の負債を抱えていて、経営改善が必要な状況でした。
そこで当時未開業だった路線については、建設が凍結されることが決まりました。
既に開業していた盛線・宮古線・久慈線の3路線についても、1981年に第1次特定地方交通線に選定され、国鉄の路線としては廃止されることが決まりました。
特定地方交通線とは、国鉄の経営を改善するために、バス路線などに転換することが適当だとされたローカル線のことです
(よく誤解されるのですが、国鉄を民営化してJRにすることを目的とした施策ではありません)。
構想から90年かけて建設されてきた三陸縦貫鉄道は、あとわずかで完成というところで足が止まりました。
しかし建設工事の凍結も特定地方交通線への指定も、あくまで国鉄の路線としては建設凍結および廃止するということに過ぎません。
国鉄とは別の会社が責任を持って路線を経営する分には問題ない、ということになっていました。
そこで岩手県と沿線市町村は、1981年11月10日に第三セクター方式で会社を設立しました。
これが三陸鉄道株式会社です。
そして三陸鉄道が、国鉄の盛線・宮古線・久慈線と未開業区間の運営を引き受けることとなりました。
このような経緯で、1984年4月1日に盛駅~釜石駅間の36.6kmが「南リアス線」、宮古駅~久慈駅間の71.0kmが「北リアス線」として開業しました。
これは三陸鉄道の出発であると同時に、三陸縦貫鉄道の完成でもあったのです。
同時に、国鉄の特定地方交通線を第三セクター方式の鉄道に転換した初めての事例にもなり、全国各地に第三セクター方式の鉄道が誕生していく先駆けとなりました。
東北地方では、秋田県の由利高原鉄道や秋田内陸縦貫鉄道、福島県・宮城県にまたがる阿武隈急行、福島県の会津鉄道、山形県の山形鉄道が、三陸鉄道と同様の特定地方交通線を引き継ぐために発足した第三セクターの会社です。
開業から10年程度は黒字経営が続いた三陸鉄道でしたが、1994年5月の取締役会で初めて赤字に転落したことが報告されました。
車社会の進展や少子化による通学利用者の減少、宮古駅付近にあった県立病院の移転などがその原因だとされています。
経営環境が苦しくなっていく中、三陸鉄道は2006年に「三鉄赤字せんべい」を売り出します。
これは「赤字を食べつくして黒字にしたい」という発想から生まれた三陸鉄道の銘菓です。
コンセプトと見た目から辛そうに思えるせんべいですが、甘い生地の上に、青のりとゴマがアクセントとしてのっているという、クセになるおいしさが特徴です。
2009年には鉄道事業再構築事業実施計画が認定され、鉄道が通っている土地を沿線市町村に譲渡し、市町村が無償で三陸鉄道に貸し付ける、沿線市町村と岩手県が三陸鉄道の設備の更新・修繕にかかる費用を負担するといった、経営支援が行われることが決まります。
地元の高校生を中心とした利用者の生活をなんとか保つために尽力してきた三陸鉄道でしたが、2011年にさらなる苦難が襲い掛かります。
東日本大震災
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)は、三陸鉄道南リアス線・北リアス線の双方に甚大な被害をもたらし、全区間で列車の運転が不能となりました。
しかし、三陸鉄道という会社の存続自体が危ぶまれるような状況であるにもかかわらず、まずは被害が比較的軽微だった北リアス線の陸中野田駅~久慈駅間で、震災からわずか5日後の3月16日に列車の運転が再開され、災害復興支援列車として3月中は運賃無料で運行されました。
大きな被害が出ている中でなぜそんなにすぐに列車を走らせなければならないのかという意見は三鉄の社内でも出ましたが、最終的には「今、列車を動かさなければ三鉄は終わりだ」という当時の社長の熱意が、早期の運転再開につながりました。
そして3月の内に、北リアス線は小本(現:岩泉小本)駅~陸中野田駅間以外の区間で運転を再開したのです。
三陸鉄道は南リアス線を含めた運転再開に向けて懸命な努力を続けていましたが、108億円と見積もられた復旧費用という現実の厚い壁が立ちはだかりました。
しかし、岩手県や国から復旧費用が拠出されるめどがついたため、復旧工事が進むことになりました。
2013年度前期に放送されたNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』には、北リアス線をモデルとした「北三陸鉄道」が登場し、脚光を浴びるということもありました。
ちなみに、三陸鉄道の列車には軽油を燃料としてエンジンを回して走る「気動車」が使用されています。
「電車」ではありません。
『あまちゃん』にも、北三陸鉄道の運転士がそのように主張する場面があります。
車両が気動車であることは、東日本大震災のような非常時には重要な特徴です。
外部から電気を供給しなければ簡単に停電してしまう電車と異なり、気動車は自車に燃料が積載されているので、軽油が尽きない限りは停電することはありません。
車内で電気機器や暖房が使用できるため、東日本大震災の発災後には、宮古駅に停車していた気動車の車内が本部として活用されたのです。
2013年4月3日に南リアス線の盛駅~吉浜駅間が運転再開。
そして、翌2014年4月5日に南リアス線、4月6日に北リアス線の全線で列車の運転が再開し、震災から3年ぶりに三陸鉄道の全線で列車が走ることとなったのです。
震災から3年後の高校の入学式には間に合わせることを合言葉として、関係者が復旧工事に取り組んだ努力が実を結びました。
JR山田線は三陸鉄道リアス線へ移行
三陸縦貫鉄道のうち、三陸鉄道の路線は震災から3年で運転を再開しましたが、これとは対照的にJR東日本の路線の中には廃止された路線もありました。
三陸地方の人々の悲願だった三陸縦貫鉄道のレールは、実態としては2011年3月11日に、そして形式的にも2020年4月1日に、既に途切れてしまっているのです。
具体的には、仙石線、八戸線といった路線は順次運転を再開しましたが、気仙沼線の大部分である柳津(やないづ)駅~気仙沼駅間と、大船渡線の沿岸部である気仙沼駅~盛駅間は廃線となっています。
これらの路線はバスが専用道(主に線路をはがして道路にしたもの)を走る「BRT」という方式で仮復旧がなされ、それが後に本復旧ということになります。
2020年にこれらの路線の鉄道事業は正式に廃止(当然のことながら2011年の震災以来、列車は一切走っていませんでした)されることとなったのです。
BRT方式は、整備費用も運行にかかる費用も鉄道よりずっと軽微であり、専用道を通ることから道路の渋滞による影響を受けにくく、経路を柔軟に設定できたりする利点もあります。
鉄道よりも便利になったところがあるのはれっきとした事実です。
山田線の沿岸部である釜石駅~宮古駅間55.4kmについても、当初はBRTでの仮復旧案がJRより提示されましたが、BRT方式のメリットの薄さなどを理由に沿線自治体から拒否されました。
山田線の復旧を巡る協議は2015年の年明けまでと長期化したものの、最終的にJR東日本が山田線を復旧した上で、三陸鉄道に移管するという形で列車の運転を再開することになりました。
復旧工事は2015年から始まり、そして4年後の2019年3月23日に「三陸鉄道リアス線」として、列車の運行が始まりました。
震災から実に8年ぶりにこの区間に営業列車が走ることとなったのです。
なお、JR山田線についてはこちらの記事をご覧ください。
BRTに転換して廃止された大船渡線・気仙沼線と、運営会社を変えながらも鉄道として存続した旧・山田線の運命をわけたものは何だったのでしょうか?
要因はいくつかあるのですが、そのうちの1つは「旧・山田線には地元に三陸鉄道という受け皿となる第三セクターがあった」ことだと思います。
大船渡線・気仙沼線の廃止区間が主に走っていた宮城県の三陸沿岸には、ある程度の赤字経営は覚悟の上でこれらの路線を引き受けてくれる、三陸鉄道のような会社が存在しなかったのです。
逆に、もしも三陸鉄道が誕生していなかったならば、言い換えれば国鉄の盛線・宮古線・久慈線が国鉄・JRの路線として存続していて、未開業区間もそのまま開業していたならばどうなっていたでしょうか?
これらの路線と山田線も、東日本大震災での被災をきっかけに廃線になっていた可能性が十分にあったと思います。
特定地方交通線という、ローカル線切り捨ての取り組みが良いか悪いかの議論は別として、国鉄時代末期に見捨てられたことによって、結果的に岩手県三陸沿岸の鉄道は「地元の鉄道」になり、守られたという見方をすることもできるのです。
まとめ
三陸鉄道は、国鉄末期に国鉄から切り離された路線を引き受けて開業し、そして東日本大震災の被害からも立ち上がり、被災したJR山田線も新たに引き受けて、今日も走っています。
岩手県の三陸沿岸に今も鉄道があることが、いかに奇跡的かということの理解の一助になったならば幸いです。