【岩手県大船渡市】人間はお断り!? 岩手開発鉄道は貨物専業の鉄道会社

岩手県の太平洋沿岸にある大船渡市には、日本の鉄道にある程度詳しい人以外にはあまり知られていない鉄道会社があります。
その名も「岩手開発鉄道株式会社」です。
いったいどのような鉄道会社なのでしょうか?


岩手開発鉄道とは?

岩手開発鉄道は2つの鉄道路線を運営しています。
1つは日頃市(ひころいち)線もう1つは赤崎(あかさき)線です。

日頃市線は、盛(さかり)駅から、長安寺(ちょうあんじ)駅、日頃市駅を経て、岩手石橋(いわていしばし)駅までを結ぶ全長9.5kmの路線です。
赤崎線は、盛駅から赤崎駅までを結ぶ全長2.0kmの路線です。
書類上は区別されている2本の路線ですが、現在では基本的に2本の路線にまたがって列車が運行されているので、区別する意味はあまりないというのが実情です。

盛駅は、三陸鉄道のリアス線の駅や、JR東日本の大船渡線BRT(列車ではなくバスです)の停留所でもあるので、それなりの知名度はあるでしょう。
しかし、盛以外の駅を知っているという人は、特に若い世代の人の中にはほとんどいないと思います。
それもそのはずで、現在の岩手開発鉄道は旅客輸送を行っておらず、営業運転されている列車は、全て貨物列車なのです。


石灰石をセメント工場へ

大船渡市の内陸部には大船渡鉱山があり、ここで採掘された石灰石が、岩手開発鉄道の岩手石橋駅で貨物列車に積み込まれます。
石灰石を積んだ貨物列車は、最高時速50kmで、11.5km離れた場所にある赤崎駅まで運行されます。
石灰石は、赤崎駅付近にある太平洋セメント大船渡工場で、セメント作りに使用されるのです。

ちなみに貨物列車が運転される時刻などは、少なくとも筆者にはわかりません。
筆者は貨物列車を眺めたりすることが好きで、貨物時刻表(念のため説明すると、貨物列車だけの運行時刻が掲載されている時刻表です)も毎年購入しているのですが、貨物時刻表にも岩手開発鉄道の貨物列車の時刻表は掲載されていないのです。

日本民営鉄道協会のWebサイトに掲載されている情報によると、貨物列車は1日につき13往復、15往復、または18往復のいずれかの本数で運行されているとのことです。
貨物列車としてはなかなかの高頻度で、運行されている日(土日祝日は運休しているようです)の日中であれば、目撃することは難しくないでしょう。
地元産業の一助となっていることも間違いありません。


岩手開発鉄道の沿革

岩手開発鉄道株式会社の設立は1939年8月のことでした。
大船渡港と岩手県内陸部を鉄道で結ぶことによる、産業振興や沿線地域の開発を目標としていました。
また、この会社は岩手県、沿線市町村や関係企業が出資する「第三セクター」方式で設立されました。
今でこそ第三セクター方式の会社は各地に存在しますが(盛駅に乗り入れている三陸鉄道もその1つです)、岩手開発鉄道は第三セクター方式の鉄道会社の先駆けという点で、特筆されるべき存在と言えるでしょう。

会社の設立時点では、盛駅から、北の方にある釜石線の平倉駅までの約29kmを鉄道で結ぶ計画でした。
釜石線は花巻駅と釜石駅を結ぶ路線です。
盛駅から平倉駅まで鉄道を敷設すれば、釜石線を経由して花巻駅まで行き、そこから東北地方の大動脈路線である東北本線に乗り換えられます。
つまり、鉄道で盛駅から全国へ人が行き来したり貨物を運んだりできるようにしよう、という目論見だったのです。

鉄道を建設する工事は、太平洋戦争によって中断してしまったので、鉄道が実際に開業したのは戦後のことでした。
まずは1950年10月に、日頃市線の盛駅~日頃市駅間が開業しました。

しかしせっかく開業に至ったものの、旅客輸送も貨物輸送も低調で、打開策が必要となりました。
そこでセメント工場への石灰石輸送を行うことが決まり、路線の延伸が行われました。
1957年6月に、赤崎線の盛駅~赤崎駅間が開業し、1960年6月には、日頃市線の日頃市駅~岩手石橋駅間が開業し、岩手開発鉄道の路線は現在と同様の形になりました。
これと同時に石灰石の輸送が始まったのです。

なお、釜石線の平倉駅までの延伸は、1976年3月に正式に断念されました。

旅客輸送に使用されていたキハ301気動車(ディーゼルカー)

1992年までは、日頃市線(盛駅~岩手石橋駅間)で旅客の輸送も行われていました。
しかし、鉱山とセメント工場を結ぶ路線を利用する人は、やはり多くはありませんでした。
筆者の手元にある1964年9月の時刻表では、列車の本数は1日わずか5往復で、そのうち2往復は岩手石橋駅まで行かず、日頃市駅が終点・始発となっていました。
自動車の普及によって利用者は更に減少し、1992年には1日3往復、うち1往復が日頃市駅止まりとなっていたとのことです。
1992年4月1日をもって、旅客営業は廃止され、以後の岩手開発鉄道は、貨物専業の鉄道会社になりました。

旅客営業が廃止されて30年以上経ちますが、現在の盛駅などのプラットホームはそのまま残っています。
また、旅客の乗り降りにのみ使われていた、猪川(いかわ)駅(盛駅~長安寺駅間に所在)は、廃駅となっています。
この駅はプラットホームが撤去されていて、築堤の上にあるホームへの上り階段が現存しています。
旅客営業が行われていた時代を知る世代の地元の人々からは、岩手開発鉄道は今もなお親しみを込めて「開発さん」と呼ばれているようです。

盛駅のプラットホーム跡、JR・三陸鉄道の盛駅よりもやや北にあります(立ち入りは禁止です)

貨物専業ということで鉄道会社としては少々地味な存在となってしまいましたが、その事業は石灰石を運ぶことだけではありません。
例えば、三陸鉄道などが保有するディーゼルカーの整備を受注しています。
やはり岩手県の鉄道業界において欠かせない存在となっていると言えます。
グループ企業も含めると、観光、印刷、不動産、トラック輸送、上下水道工事、土木工事などの事業を展開しており、他の鉄道会社と変わらず、手広く事業を手掛けています。


岩手開発鉄道の2011年

2011年に発生した東日本大震災では、岩手開発鉄道の赤崎線が被災してしまいました。
荷主である太平洋セメント大船渡工場も大きな被害を受けましたが、両社共に懸命な復旧作業を行い、発災から8か月後の2011年11月7日に岩手開発鉄道は列車の運行を再開しました。

なお、同じく被災してしまったJRの大船渡線は、鉄道としては復旧されることなく、気仙沼駅から盛駅までの区間がバスに転換されました。
線路が通っていた場所はバス専用道が設けられて、大船渡線BRTとしてバスが運行されています。
改めて、あの震災の被害の大きさ、そして地方の鉄道を維持していくことの難しさを思い知らされます。

プラットホームからバスに乗る、盛駅の大船渡線BRT乗り場

あの大津波の後には、コンクリート造りのビルや橋梁だけが残ったという光景が各地で見られました。
それは大変心が痛む光景ではありました。
しかしその一方で、現在(2024年6月)の岩手開発鉄道の社長は、当時のことをこのようにも語っています。
わたしたちが運ぶ石灰石がセメントとなりコンクリートとなって、人々の生命や財産を守る一助となっていることを改めて、自覚することができた、と。
また、災害からの復旧を通じて、荷主企業や関連会社との連携と信頼関係の重要性、そして社員の団結力や技術力の高さを改めて認識できたことも、あの災害の教訓になったとのことです。


まとめ

貨物専業となった岩手開発鉄道ですが、各地で使われるコンクリートやセメントの原料を今も運び、重要な役割を果たしています。
筆者や、読者の皆さんの日常生活を支えているコンクリートも、もしかしたら岩手開発鉄道の貨物列車が運んだ石灰石から作られているかもしれませんよ。


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