
鉄道唱歌第3集で東北地方はどう歌われた? (4) 尻内(現:八戸)(青森)-弘前(青森)
前回の記事に引き続き1900年に発売された『鉄道唱歌』の第3集「奥州・磐城篇」について解説していきます。なお、第1回の記事はこちらです。
前回は宮城県の石越(いしこし)駅を通る32番から、東北本線(※)を北上して岩手県の一ノ戸(いちのへ、現:一戸)駅に至る36番までを解説しました。青森県に入る37番から今回は始まります(歌詞の経路にある駅は、初出時は必ず読み方を付記しています。あらかじめご了承ください)。
※東北本線は、1906年までは私鉄の日本鉄道(にっぽんてつどう)という会社の「本線」または「奥州線」という扱いでした。また、盛岡駅から青森駅までの区間は、現在はJR東北本線ではなく、別の鉄道事業者(IGRいわて銀河鉄道および青い森鉄道)の路線になっています。しかし、わかりやすさを重視して上野駅から青森駅までの区間を「東北本線」と記しています。
本記事の作成に関連して、歌詞はこちらのサイトを参照しました。なお、鉄道唱歌は、著作者全員が死去してからすでに70年以上経っており、日本や米国などの多くの国で著作権が消滅しています。
37番:尻内(現:八戸)、古間木(現:三沢)
尻内(しりうち)こせば打ちむれて 遊ぶ野馬の古間木(ふるまき)や 今日ぞ始めて陸奥(みちのく)の 海とは是(これ)かあの船は
(漢字の字体や仮名遣いは現在のものに改めています)
青森県に入る
1900年当時の一ノ戸(現:一戸)の次の駅は福岡(ふくおか)で、これが当時は岩手県内の最後の駅でした。福岡駅は後に北福岡(きたふくおか)と改称され、さらに現在は二戸(にのへ)という名前になっています。歌詞には登場していません。
それから北上すると、やがて馬淵川(まべちがわ)に至ります。東北本線は蛇行する馬淵川を8つもの橋梁(きょうりょう)で何度も越えるのですが、2回目に渡河する場所が岩手県と青森県の県境です。
なお、1回目の渡河を終えたところから、県境を越えて現在の目時(めとき)駅を越えたあたりに至るまでの線路は、1967年に新線へ切り替わっているので、1900年当時は今のルートと異なっていました。しかし「2回目の渡河で県境を越える」のは旧線も新線も変わりありません。
現在の目時-青森は第三セクターの青い森鉄道
県境を越えてすぐの場所に、1900年時点では駅はありませんでしたが、上記の通り現在は目時駅があります。目時駅がいわて銀河鉄道線と青い森鉄道線の境界駅です。
青い森鉄道も、IGRいわて銀河鉄道と同様に、2002年に東北新幹線が盛岡駅から八戸駅まで延伸開業することに伴い発足した、第三セクター方式(自治体と民間の共同出資による)の鉄道事業者です。東北新幹線に並行するJR東北本線の内の、目時駅から八戸駅までの区間をJR東日本から引き継ぎました。2010年に東北新幹線が新青森駅まで延伸開業したときには、東北本線の八戸駅から青森駅までの区間も、青い森鉄道に移管されています。
また、青い森鉄道線については、線路などの施設を所有しているのは青い森鉄道という会社ではなく、青森県が所有しています。青い森鉄道は青森県が所有している線路を借りて列車を走らせている形です。鉄道のこのような運営方法を上下分離方式と呼びます。
青い森鉄道の会社の経営がわずかながらも黒字なのは、青い森鉄道の経営努力だけでなしとげられていることではないと思われます。多額の費用が必要とされる地上の施設の保有や維持を、上下分離によって青森県が担っている(青い森鉄道は直接負担していない)という要因が相当大きいと考えられるのです。
目時駅は2つの会社の路線の境界駅という存在ではあるものの、列車が目時駅を始発・終着駅とすることは基本的にありません。目時駅にやってくる列車は両社の路線を直通運転しており、下り列車は八戸(はちのへ)駅が終点、上り列車は盛岡駅が終点となっています。
尻内駅は現在の八戸駅

1900年当時の青森県に入って最初の駅は三ノ戸(さんのへ、現:三戸)で、次の駅は剣吉(けんよし)ですが、いずれも歌詞には登場していません。37番の歌詞はいきなり「尻内(しりうち)」で始まります。現在の八戸駅です。
八戸駅は八戸市の尻内町(しりうちまち)という地名の場所にあり、この地名がもちろん当初の駅名の由来です。
八戸は、江戸時代に盛岡藩から独立して発足した八戸藩の、藩庁となった八戸城の城下町でした。現在の八戸市も、青森県内では青森市に次いで2位の人口を誇り、青森県南部地方(青森県の東半分くらいの地方)の代表的な都市の地位にあります。
そんな八戸の近くに東北本線の駅が設けられたのは当然といえますが、駅は八戸城(現在の三八城公園)などがあった中心街からはだいぶ離れた場所に設けられました。そもそも、この駅がある場所は、当時は上長苗代村(かみながなわしろむら)といい、八戸ですらありませんでした。そのために、当時は別の駅が八ノ戸駅と名付けられていました。
現在の八戸駅からはJR八戸線(八戸-久慈)という路線が出ていますが、八戸線は日本鉄道の手によって、1894年に一部が開業していました。現在の八戸線内にある本八戸という駅が、当時は八ノ戸駅だったのです(1907年に八戸駅に改称)。
地図を見ればわかるように、本八戸駅(当時の八ノ戸駅)は三八城公園のすぐ北にあります。明治時代当時の八戸の住民の感覚では、本八戸駅こそが八戸の中心的な駅という立ち位置だったことは疑いようがなく、尻内駅(現在の八戸駅)に八戸という名前を付ける理由はなかったことでしょう。
上長苗代村は1955年に八戸市に編入され、ここで尻内駅の所在地が八戸市内となりました。尻内駅の八戸駅への改称と、八戸線八戸駅の本八戸駅への改称が行われたのは、さらに後で1971年のことです。以後(尻内駅から改称した方の)八戸駅は、名実ともに八戸市の顔と呼べる駅になっていきます。先述の通り2002年に東北新幹線が盛岡から八戸まで延伸してきたことは、特に大きな変化だったといえるでしょう。
リンク – NHKアーカイブス
- 東北新幹線 盛岡-八戸間 開業20周年 : https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0040413
尻内駅で乗り換えられた南部鉄道
1929年から1968年までは、尻内駅から「南部鉄道」という私鉄の列車も出ていました。南部鉄道の路線は尻内駅から五戸駅までを結んでいましたが、1968年に発生した十勝沖地震で壊滅的な被害を受けて列車の運行を休止し、翌年正式に廃止されてしまいました。
なお、青森県内に「南部縦貫鉄道」という名前の似ている鉄道がかつて存在しましたが、後述する通り全くの別物です。首都圏にかつて存在した「南武(なんぶ)鉄道」とも異なります。
↓地震の被害に関連する映像が出てくるので、視聴の際はご注意ください。
リンク – NHKアーカイブス
- 青森県南部で深刻な被害 十勝沖地震 : https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009030530_00000
- 【青森県】南部鉄道 : https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009230049_00000
一方、八戸線は現在も存続しており、観光列車「TOHOKU EMOTION」も運行されています。
古間木駅は現在の三沢駅
当時の尻内の次の駅は下田(しもだ)でしたが、歌詞には登場しません。さらに次の駅は古間木(ふるまき)といいました。これは現在の三沢(みさわ)駅です。
古間木駅も尻内(八戸)と同様に、当時の現地の地名が駅につけられたものと考えられます。駅の所在地は1958年に三沢市となり、その後の1961年に、古間木駅は現在の名称の三沢駅に改称されました。
三沢駅の辺りには、昔は木崎野という地名の場所があったようです(木崎野という名前の温泉や小学校が現地にあります)。この辺りは第3回の記事で述べた、江戸時代に南部馬の牧場が設けられた場所の1つです。「古間木」という地名の由来は「古牧」つまり古くからある牧場だという説もあるようです。
藩営の牧場は明治初期に廃止されたものの「打ちむれて 遊ぶ野馬の古間木や」と歌詞で紹介されているので、当時はまだ沿線に大きな牧場があったのだと推測されます。なお、現在三沢飛行場(海軍航空基地として1942年に開設)がある辺りもかつては牧場だったようです(下記文献の150ページに記載あり)。
古間木(三沢)駅で乗り換えられた十和田観光電鉄

現在の三沢駅では青い森鉄道線以外の路線に乗ることはできません。しかし、1922年から2012年までは、十和田観光電鉄(初期は十和田鉄道)の路線に乗り換えることができました。三沢駅と十和田市駅を結ぶ路線でしたが、利用者の減少と共に経営が傾き、2012年に90年の歴史を終えています。
鉄道路線は廃止されたものの、路線を運営していた十和田観光電鉄はそのままの社名で存続し、現在もバス事業や十和田湖遊覧船の運行などを手掛けています。鉄道を運営していない会社が「電鉄」などの社名を名乗って存続しているケースは全国各地で一定数は見受けられるものの、筆者の知る限り東北地方では唯一です。
リンク – NHKアーカイブス
- 【青森県】十和田観光電鉄 : https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009230053_00000
(当時は)初めて見えた海
このあと、沼崎(ぬまさき)(現在の上北町<かみきたちょう>)、乙供(おっとも)の2駅(これ以外の駅は当時未開業)を過ぎると野辺地(のへじ)に到着します。野辺地駅を過ぎると野辺地湾が見えてきます。
東北本線は基本的に内陸部を通っている路線です。現在は宮城県内で松島湾の近くを通りますが1900年時点では松島湾からも離れた場所を通っていました。そのため、野辺地駅を過ぎると見える海が、当時の東北本線の列車から見える初めての海ということになるはずです。
筆者は海のある県で育ったこともあって、海を初めて見たときがいつだったか、何を思ったかは全く記憶にありません。なので伝聞にはなりますが、内陸の地でずっと育った人が、ある程度成長してから海を初めて見ると、大いに感動するのだそうです。
青森県津軽地方出身の著名な小説家、太宰治(1909‐1948)もそのようなことを記しています。『海』という作品にこう書かれています。
私は津軽平野のまんなかに生れたので、海を見ることがおそく、十歳くらいの時に、はじめて海を見たのである。そうして、その時の大興奮は、いまでも、私の最も貴重な思い出の一つになっているのである。この子にも、いちど海を見せてやりたい。 『海 太宰治』
太宰治が生まれた金木町(現:五所川原市金木町)は、現代人の感覚からすれば十分「海から近い」と思います。最寄りの海まではわずか10km程しかありません。しかし、10歳まで海へ行ったことがなかったというのですから、太宰が育った1910年代の人々の距離感覚は、現代人と大きく違っていたことがうかがえます。
『海』で太宰本人が述べている内容によると、太宰は戦争で東京の三鷹の家を焼かれ、妻の実家があった甲府も空襲にあって家が焼け落ちたため、故郷の津軽に向かいます。秋田県の東能代駅で五能線に乗り換えたら海が見えてきたのですが、太宰の妻と、海を初めて見た子の反応は……ぜひ、原文をご覧ください。
なお、現在のJR五能線では「リゾートしらかみ」という観光列車が運行されていて、太宰も見たであろう日本海の景色を思う存分楽しむことができます。
ともあれ、奥州の海を初めて見たことに対する感嘆が、37番の歌詞の後半にはあらわれています。……もっとも第2回の記事で書いたように、30番ではわざわざ宮城県内で港町の塩釜に寄り道して、松島湾の船に乗って鉄道唱歌とは別の歌まで歌っています。
野辺地駅で乗り換えられた南部縦貫鉄道

現在の野辺地駅には、青い森鉄道線とJR大湊線が乗り入れています。1997年までは、南部縦貫鉄道という私鉄の路線にも乗り換えられました。野辺地駅と七戸駅の間を結んでいたものの、1962年の開業当初より経営は苦しく、1997年には列車の運行を休止、2002年に復活を断念して正式に廃止されています。
廃止はされたものの、開業から廃止時まで使用されていたレールバスと呼ばれる小さな気動車(軽油を燃料として走る車両)が現在も動態保存されており、鉄道ファンなどから今もなお一定の人気を得ている鉄道です。
南部縦貫レールバス愛好会情報 : 思いでのレールバス
リンク – NHKアーカイブス
38番:夏泊半島、八甲田山
野辺地(のへじ)の湾の左手に 立てる岬は夏泊(なつどまり) とまらぬ汽車のすすみよく 八甲田山も迎えたり
夏泊半島
野辺地駅から4.5kmほどの場所で、岩手県北上市あたりから続いていた南部氏の旧領地を抜けて、旧津軽藩の領地に入ります。そして歌詞で描写されている通り、野辺地湾の左手、西側にある夏泊半島が現れます。
夏泊半島は東側の野辺地湾と西側の青森湾に挟まれる形で陸奥湾に飛び出ています。特に半島の北部にある椿山や、半島先端の沖にある大島が観光名所となっています。

椿山には名前通り、丘陵一帯に1万本を超すヤブツバキが群生しています。ツバキが自生している場所としては日本の北限にあることから、1922年に国の天然記念物に指定されました。山沿いに浅瀬が広がっている椿山海岸は、1996年に日本の渚百選に認定されました。
大島は名前通り島ですが、橋がかかっており歩いて渡ることができます。島の突端にある灯台から楽しめる絶景や、海水浴場、釣りスポットなどに人気があります。
とはいえ、椿山や大島を公共交通機関で訪れるのは今でもなかなか大変です。鉄道からは離れた場所にあり、青い森鉄道の小湊(こみなと)駅から30分ほどバスに乗っていく必要があります。
小湊駅は1900年当時も開業していましたが、ここで列車を降りた後、夏泊半島の先端まで行きたい人はどうしていたのでしょうか。歩いていたのか、それとも乗合馬車のようなものがあったのでしょうか(日本で初めてバスが走ったとされているのは1903年の京都です)。
八甲田山
一方、東北本線の南方には八甲田山(はっこうださん)が広がっています。八甲田山とは単独の山の名前ではなく、大岳などの18の山々からなる火山の総称です。大岳の標高は1,584mで、青森県内では岩木山(いわきさん)の1,625mに次ぐ高さとなっています。

かつては上野駅と青森駅を結ぶ東北本線の急行「八甲田」という列車が存在したことや、青森駅と函館駅を結んでいた青函連絡船の1隻が「八甲田丸」という名前だったことからうかがえるように、青森県のシンボルのような位置づけの山です。
ところで「止まらぬ汽車の進みよく」と歌詞にありますが、そんなに停車する機会が少なかったのでしょうか? 野辺地の次の駅である狩場沢(かりばさわ)は1900年時点でも開業しており、野辺地からは6.5kmの道のりです。次の清水川(しみずがわ)はまだなく、その次の小湊は狩場沢から10.7km。西平内(にしひらない)もまだなく、その次の浅虫(あさむし)までは小湊から10.2kmです。なお、浅虫とは現在の浅虫温泉(あさむしおんせん)駅にあたります。
駅同士の間隔が10km以上ある場所など、地方の幹線にはごく普通に存在するような気がします。それでもあえて歌詞にしているのは、1駅進むうちに景色が野辺地湾や夏泊半島などへとどんどん変わっていくという様子を表現したかったのではないでしょうか。
幻の茂浦鉄道
現在の西平内駅付近から、現在の夏泊半島西側にある茂浦(もうら)漁港付近までを結ぶ、茂浦鉄道という計画がかつて存在しました。
茂浦に外国への船が就航する港を設けて、その港に連絡する鉄道を建設するという構想でした。明治時代後期に計画され、1910年代には実際の建設工事も進められたものの、1918年に鉄道を開業するための免許が失効し、実現せずに終わりました。
残されている遺構や記録が少なく、また、明治・大正時代が遠い昔となってしまったことから現地の人々の知識からも消えつつあり、まさに幻の鉄道といえるでしょう。
39番:野内、浦町
渚に近き湯野島を 見つつくぐれるトンネルの 先は野内(のない)か浦町(うらまち)か 浦のけしきの晴れやかさ
浅虫温泉と湯ノ島
湯野島とは、浅虫温泉駅(1900年当時は浅虫駅)の近くの沖にある湯ノ島のことです。600万年から700万年前の火山活動によってできた島と推定されています。浅虫温泉のシンボル的な立ち位置の島です。

明治時代には浅虫の村民が、観光客の目を和ませるために湯ノ島へクロマツの苗木2,000本を植えたと伝えられています。その努力の成果がしっかりと、鉄道唱歌を作詞した大和田建樹の目にもとまったということなのでしょうか。
歌では浅虫温泉について特に言及していませんが、浅虫温泉は「東北の熱海」「青森の奥座敷」などと呼ばれた、青森県の名所の1つです。津軽海峡の天候が悪化して船で北海道へ渡れなくなったときに、旅行者が浅虫温泉に滞在するということもあったようです。
旧線に存在した浦町駅
浅虫駅の前後にはトンネルがいくつかあり、それを抜けると、野内(のない)駅に到着します。
現在の線路は、野内を過ぎると南の方へ向かい、矢田前(やだまえ)、小柳(こやなぎ)、東青森(ひがしあおもり)、筒井(つつい)の各駅を通って終点の青森(あおもり)に至ります。しかし、このルートが開通したのは1968年のことです。
それ以前のルートは現在よりずっと北側の、青森湾から500mくらいしか離れていない市街地の中を突っ切るようなルートでした(東北本線建設当時から市街地のまっただ中だったのかは、筆者にはわかりませんでした)。
旧ルートの途中に、浪打(なみうち)という駅と浦町(うらまち)という駅がありました。後者の浦町が「先は野内か浦町か」という歌詞の「浦町」を指すのでしょう。
しかし、浦町が何かはわかるものの、では「トンネルの先は野内か浦町か」とはどういう意味なのでしょうか? 筆者が持っている、旧線も描かれている地図を見ると、野内駅と浦町駅は約7kmも離れているうえに、野内と比べて浦町は(1900年当時もそうだったのかは上述の通り不明とはいえ)相当市街地の中に入った場所にあることがわかります。「どっちがどっちかわからない」というほど違いがない駅だとはとても思えません。この歌詞の真意が知りたいところです。
それはさておき、続いて「浦の景色が晴れやか」と歌っているのは、車窓から望める青森湾の景色がよいことを表しているのと共に、もうすぐ長かった東北本線の旅が終わることに(いい意味での)晴れやかさも覚えているのではないかと思います。直前に「浦町」という駅名が登場しているので、これに掛かっている歌詞でもあるのでしょう。
40番:青森
勇む笛の音(ね)いそぐ人 汽車は着きけり青森に むかしは陸路二十日(はつか)道 今は鉄道一昼夜(いっちゅうや)
「勇む笛の音」とは、汽車の到着を告げる勇ましい汽笛、ぐらいの意味でしょうか。汽車はついに東北本線(厳密にいえば日本鉄道奥州線)の終点である青森駅に到着しました。上野から青森までの約740kmの旅の終わりです。
なお「青森」という地名の由来は、まさにそのまんまで現在の青森市本町付近に「青い森があったから」とのことです。この青い森が港に入る船の目印になったと伝わっています。

所要日数を20日から1日へ短縮した東北本線
鉄道のなかった江戸時代には、人々が長距離を移動するのに使える手段は、船か、さもなければ徒歩しかなかったことでしょう(特に庶民は)。GoogleMapによると、奥州街道に沿ったルートで上野駅から青森駅まで徒歩で移動する場合の道のりは708kmとのことです。
そして人が歩く速度は時速4km程度と仮定して、1日に歩ける時間は5時間から、どんなに長くても10時間程度でしょう。708kmを「陸路二十日道」ということは1日あたり約35km、9時間弱も歩いていることになり、かなりハイペースな方です。それでも20日もかかったというのですから、青森まで移動するというのは本当に大変なことだったのだとしかいいようがありません。
対して「今は鉄道一昼夜」つまりわずか1日で行けるようになったと鉄道唱歌は歌っています。1891年に日本鉄道が上野から青森までの路線を全通させたとき、全区間を直通する列車の所要時間は26時間25分だったとのことです。これでも現代人の感覚ではかなり長いですが「20日」と「1日強」の違いはあまりにも大きいということに、議論の余地はないでしょう。
上野発の(必然的に)夜行列車
上野から青森まで約26時間半かかるということは、当然のことながら列車が走っている内に日付が変わり、夜をまたぎます。当時の上野と青森を結ぶ列車は必然的に夜行列車だったのです。かの名曲で歌われた「上野発(で青森が終着)の夜行列車」の先駆者的な存在だったといえます。
現在の所要時間
なお参考までに、現在は上野から青森までを直通する普通列車は存在しませんが、上野を7時16分に出発する宇都宮行きの列車に乗り、宇都宮、黒磯、新白河、郡山、福島、白石、仙台、小牛田、一ノ関、盛岡、八戸で合計12本の普通列車をどんどん乗り継いでいくと、22時2分に青森に到着します。所要時間は14時間46分です(2026年9月現在・平日ダイヤ)。
ただしもちろん、鉄道で移動するならば現在は新幹線を使う人がほとんどのはずです。東北本線開通当初は26時間半かかっていた所要時間は、急行列車、特急列車、そして新幹線の登場によってどんどん縮んでいきました。
例えば1908年に登場した急行列車の所要時間は20時間15分とのことです。1934年には、急行列車の所要時間は13時間程度にまで縮まっています。
1958年には東北地方初の特急「はつかり」が登場。仙台以南は当初常磐線経由で、上野から青森までを12時間で結びました。登場後は使用車両の変更や全区間東北本線経由での運行への変更などを経て、所要時間は8時間半程度にまで縮まりました。
1982年には東北新幹線が大宮-盛岡間で開業。順次延伸していき、2010年12月に東京から新青森までが全通しました。現在は最も速い種別の「はやぶさ」を利用すると、上野から新青森まで3時間10分程度しかかからなくなっています。江戸時代には徒歩で片道20日もかかっていて、明治時代にも片道だけで1日がかりだったような場所へ、日帰りできるのが当たり前になった世の中を我々は生きているのです。
41番:青函連絡船……ではない?
津軽の瀬戸を中にして 函館までは二十四里 ゆきかう船の煙にも 国のさかえは知られけり
「瀬戸」と言われると、瀬戸内海か瀬戸物、あるいは瀬戸物発祥の地の愛知県瀬戸市が思い浮かぶことが多いかと思いますが、ここでの「瀬戸」はもちろん意味が違います。この瀬戸は海峡のことなので「津軽の瀬戸」とは青森県と北海道の間にある津軽海峡のことを指しています。その津軽海峡を間に挟んで、青森から北海道の函館までは24里、約94kmだと歌っています。
青森と函館の間を「行き交う船」というのは、この文脈では青函連絡船のことを指しているように見受けられます。青函連絡船とは、1988年まで青森駅と函館駅を結んでいた船のことです。駅から改札を出ずに船に乗り換えることができ、鉄道車両を船に直接積み込むこともできる船でした。

とはいえ、青森と函館の間(以後、青函航路)に鉄道の連絡船が就航したのは実は1908年のこと(車両を船に直接積載するようになったのはさらに後の1925年から)なので、1900年時点ではまだ青函連絡船という名の船は存在しませんでした。鉄道唱歌に登場するのは、鉄道会社ではない会社(おそらく日本郵船)が青函航路で運航していた船舶に過ぎないと思われます。
飛行機がない時代(日本で飛行機が初めて飛んだのは1910年です)には、北海道に渡るには船を使うしかありません。明治時代初期には北海道へ移り住む人々や、北海道の農産物などが、青函航路の船で運ばれたことと思います。
東北本線が開通したことで東京から青森まで1日で移動できるようになってからは、なおさら本州と北海道の間の往来は活発になっていったことと思います。青函航路の船はその往来の一翼を担うことで、日本の発展に貢献していたのでしょう。そのことを表しているのが「国のさかえは知られけり」という歌詞なのだと考えます。
先ほど述べたように、青函航路には鉄道との緊密な連携をはかった青函連絡船が1908年に就航しました。青函連絡船は80年にわたって合計1億6千万人の旅客や2億5千万トンの貨物を運びました。しかし、津軽海峡の海底を通る青函トンネルが1988年に開通し、列車が北海道へ走って渡れるようになったことから、青函連絡船は廃止されています。
青函連絡船こそ廃止されたものの、現在青森駅には青い森鉄道線、JR奥羽本線、JR津軽線の3路線が乗り入れています。青森県内を走る鉄道の結節点としての役割は健在です。
現在の青森では、青函連絡船として使用された船の一隻である「八甲田丸」が保存されています。館内の観覧も可能です。
青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 <Information>
- 名称:青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
- 所在地:〒038-0012 青森県青森市柳川一丁目112-15
- 電話番号:017-735-8150
- 開館時間: 4月1日~10月31日 9:00~19:00(入館受付は18:00まで)/ 11月1日~3月31日 9:00~17:00(入館受付は16:30まで)
- 休館日:11月1日~3月31日の月曜日、12月31日、1月1日、3月第2週の月~金曜日
- 公式URL:青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
Google Map
42番:弘前
汽車のりかえて弘前(ひろさき)に あそぶも旅の楽しみよ 店にならぶは津軽塗 空に立てるは津軽富士
青森駅で汽車を乗り換えて弘前(ひろさき)へ移動します。「あそぶ」というのは、現代の我々が認識する通りの遊ぶという意味でしょうか。
青森から弘前までは約40kmもあり、鉄道ができるまでは、移動は1日がかりだったはずです。気軽に行けるところではありません。しかし、鉄道ならば1900年当時でも1時間半程度で移動できたようです。鉄道の影響の大きさが改めて理解できます。当時の途中駅は、新庄(しんじょう、現:津軽新庄)、大釈迦(だいしゃか)、浪岡(なみおか)、川部(かわべ)の4駅でした。
なお、現在は普通列車ならば40分~55分程度、快速や特急なら35分程度の道のりです。
奥羽北線(現:JR奥羽本線)
青森駅で乗り換えた路線は、官設鉄道の奥羽北線、現在のJR奥羽本線にあたります。奥羽本線は、1回目の記事でも触れたように、福島駅から山形、新庄、横手、大曲、秋田、大館、弘前といった駅を経て、青森駅に至る路線です。1900年の時点では福島駅と青森駅の両端から順次建設されていっている時期で、青森駅側の路線は奥羽北線と呼ばれました。
1894年に最初の区間である青森駅-弘前駅間が開業。以後順次延伸していき、鉄道唱歌第3集が発売された1900年10月の時点では鷹ノ巣駅(現:秋田県北秋田市)までが開業していました。5年後の1905年9月に、福島駅-青森駅間が全通しています。
なお、東北本線は当初日本鉄道の路線として開通し、1906年に国が買収しましたが、奥羽本線は最初から国の手によって建設された路線でした。
弘前藩の城下町だった弘前

汽車に乗って訪れた弘前は、青森県西部・津軽地方の代表的な都市です。江戸時代には弘前藩という藩が存在し、弘前は城下町として栄えました。
弘前には1898年に創設された陸軍第8師団の駐屯地が置かれて、弘前は軍都となりました。東北地方では第2師団の仙台に続く、2つ目の師団の創設でした。1902年に有名な八甲田雪中行軍遭難事件が起きたのはこの第8師団の所属だった、青森歩兵第5連隊です。
弘前には現在も陸上自衛隊の弘前駐屯地が設置されています。現在の弘前市の人口は約16万人で、青森市、八戸市に次いで、青森県内では第3位です。
弘前藩の藩主だった津軽氏は、戦国時代に南部氏から独立しています。その経緯ゆえに、弘前藩と南部氏が藩主を務めた盛岡藩は、江戸時代を通じて犬猿の仲だったとのことです。
それにもかかわらず、廃藩置県によって弘前県や八戸県などが成立した後、かつての南部氏の領地に設けられた複数の県が、弘前県に合併されています。合併に至った背景には、弘前県の経済力が周辺の他県を大きく上回っていたことが一因としてあるようです。江戸時代の弘前の繁栄ぶりがうかがえます。
ただし、合併時点では県庁は弘前にあり、県名も弘前県のままでしたが、すぐに県庁が青森に移転し青森県と改称しています。県庁が弘前では県の西に偏りすぎていること、旧弘前藩の県政に対する影響が大きくなってしまうこと、青森港の今後の発展が期待されていたことなどが県庁の移転の理由とされています。
現在の青森県域において、明治時代初期までは弘前が最も栄えていた街だったことでしょう。また、青森県の国立大学は弘前大学1校のみです。リンゴの生産量のシェアは弘前市だけで全国の25%を占めていて1位です。
21世紀に入ってからも、例えばフィクション作品の舞台になることもあり、決して存在感が低下している街ではないと思います。
しかしそのような弘前も、現在は人口減少などの地方の都市が抱える問題に例外なく見舞われています。市内を走る弘南(こうなん)鉄道の大鰐線が、2028年3月31日を最後に運行休止(※)となることも決まっています。
※今回の記事に登場した南部鉄道や南部縦貫鉄道がそうだったように、休止後に正式に廃線となる可能性が濃厚と考えられます。
津軽塗

続いて歌詞に登場する津軽塗(つがるぬり)とは、弘前を中心に製作販売されている伝統工芸品の1つで、津軽地方で生産される伝統漆器の総称です。江戸時代中期からの300年以上の歴史があるとのことです。
津軽塗という名称は、ウィーン万国博覧会で展示するために1873年につけられたと言われています。2017年には青森県では初めての、国の重要無形文化財に指定されています。
漆を塗っては研ぐことを繰り返す製造工程は大変な手間と2か月以上という時間がかかりますが、非常に耐久性があります。そんな津軽塗は「堅牢」という表現で評されているのです。
津軽富士こと岩木山

続いて歌詞に登場する「津軽富士」とは、弘前の西方にそびえる岩木山(いわきさん)を指します。標高1,625mで、青森県の最高峰です。日本百名山・新日本百名山に選定されています。津軽富士の他に「お岩木様」などとも呼ばれることがあります。
岩木山は古来より、岩木山神社や弘前藩主を祀る高照神社などがあり、信仰を集めてきました。現在も津軽地方のシンボル的な存在となっています。

毎年旧暦の8月1日には例大祭の「お山参詣」が行われており、多くの人々が五穀豊穣や家内安全を祈願し、白装束に身を包んで深夜に岩木山の山頂へ上り、御来光を拝むという行事になっています。
お山参詣がいつから始まったのかは定かではないものの、一説には鎌倉時代の初期と言われています。一般の人々が参詣するようになったのは明治初期とされており、1984年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。
東京への帰路
弘前を訪れた42番に続く43番からは、東京の上野へと帰っていきます。帰りは東北本線をひたすら南下していくのではなく、行きとは違う路線を通ります。
今回はここまでです。
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