【青森県】歌詞になったのも今は昔……上野発・青森行きの夜行列車たち

1977年に発売された石川さゆりさんのシングル『津軽海峡・冬景色』の歌い出しをご存知の方は多いと思います。

短い歌詞の中に旅の情景が盛り込まれた名曲ではありますが、この歌に登場するような「上野発・青森行きの夜行列車」は既に存在せず、青森から北海道の函館へ渡る青函連絡船も、青森行きの夜行列車よりも一足先に運航を終了しました。

今回は「上野発の夜行列車、青森行き」とはいったいどのような列車だったのかに焦点を当てます。


上野発・青森行き夜行列車の果たした役割

あけぼの
上野~青森間を結んだ寝台特急「あけぼの」

上野発・青森行きの夜行列車が誕生したのは明治時代の1891年のことで、上野駅から青森駅までの鉄道、つまり現在の東北本線が開通した時です。

上野駅から青森駅までを直通する列車が開通当初から存在し、当時の運行時間は26時間半にも及んだので、当然ながら夜を徹して走る夜行列車でした。

『津軽海峡・冬景色』が発売された1977年の時点では、東北新幹線はまだ開業しておらず、そして航空運賃は高価でした。東京都と青森県の間の移動には、特急列車で9時間ほどかかるというのが、当時の一般的な人たちにとっての常識でした。

これだけの時間を、昼間に移動することで消費するのは無駄でしたから、眠っている間に移動できる夜行列車にはまだまだ相当な需要があったのです。

また、青森県と北海道の間の津軽海峡の海底を抜ける「青函トンネル」が開通したのは1988年のことでしたから、それまでは本州の夜行列車の行き先の北限は青森駅でした。青森駅から北海道へ渡る人たちを運ぶのは「青函連絡船」の役目で、実際『津軽海峡・冬景色』でも、青函連絡船に乗って北海道へ渡っていく旅が描写されています。

東北本線の開業から東北新幹線や青函トンネルが開業するまでの間、長年にわたって関東と東北・北海道を結び続けてきたのが、上野発・青森行きの夜行列車だったのです。


経路が様々だった上野発・青森行き夜行列車

ここからは『津軽海峡・冬景色』の発売の翌年にあたる1978年10月に行われた、有名なゴオ・サン・トオのダイヤ改正時の時刻表をベースとして、話を進めていきます。一口に上野発・青森行きの夜行列車と言っても、途中の経路については様々なものがあり、1978年の時点では3種類ありました。

  • 上野駅を出ると常磐線に入り水戸、平(現:いわき)、仙台、盛岡といった駅を経由して青森駅に至る列車
  • 上野駅を出てからひたすら東北本線を北上し、大宮、宇都宮、福島、仙台、盛岡といった駅を経由して青森駅に至る列車
  • 上野駅から福島駅までは東北本線を経由し、奥羽本線に入って山形、新庄、秋田、大館といった駅を経由して青森駅に至る列車

このほか、後年になると、高崎線・上越線・羽越本線・奥羽本線経由の列車、駅名で言えば大宮、高崎、長岡、酒田、秋田、大館といった駅を経由していく列車なども登場します。次の節からは、上野と青森を結んだ夜行列車を経路別に紹介していきます。


常磐線経由(水戸・平・仙台経由)の列車

東北方面行き夜行列車のメインルートは、東北本線ではなく常磐線でした。

東北新幹線がまだなかった時代の、関東と東北を結ぶ大動脈である東北本線は、夜の時間帯であっても列車の本数が多い路線でした。
そのため、速達性にさほどこだわる必要のない夜行列車は、多少遠回りにはなるものの常磐線経由とされる傾向にあったのです。

ゆうづる
583系電車による寝台特急「ゆうづる」
著作者:spaceaero2 – 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10649856による
ゆうづる
機関車が客車をけん引する形態の寝台特急「ゆうづる」
著作者:spaceaero2 – 自ら撮影, CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8653434による

その常磐線経由の列車の中でも真っ先に紹介するべきなのは、寝台特急「ゆうづる」でしょう。1978年10月時点では1日につき、3本の臨時列車も含めるとなんと7本も運行されていました。

ゆうづる1,3,5号には、夜は寝台車、昼は座席車として昼夜兼行で使用できる583系電車が使用されていました(昼間は同じく上野駅~青森駅間で運行される特急「はつかり」に充当されていました)。

ゆうづる7,9,11,13号は青い塗色の寝台客車が使われた、いわゆる「ブルートレイン」でした。

青森行き夜行列車の大半は、青森駅で青函連絡船に乗り換えられるようにダイヤが組まれていました。

例えばゆうづる3号は上野駅を19:53に出発し、青森駅には翌朝5:08に到着します。そこで5:25発の青函連絡船に乗り換えると、函館駅には9:15に到着(船の中でもうひと眠りしたいような時刻設定ですね)。

函館駅では特急「おおぞら3号」に乗り換えて9:35に出発、札幌駅には13:44着。その後、滝川駅で列車が2本に分かれて、旭川駅に15:36着、釧路駅に19:41着といった具合でした。

上野駅を出てから札幌駅まで18時間近くもかかっていますが、それでも当時は鉄道が長距離移動の主役でしたから、多くの人が利用したことでしょう。

そしてもう一つの常磐線経由の青森行き夜行列車は急行「十和田」です。本数が最多の日には、2本の臨時列車を含めた4本が運行されていました。急行列車なので寝台特急であるゆうづるよりも停車駅が多く、上野駅から青森駅まではいずれの列車も12時間以上かかっていました。

また、20:50上野駅発の十和田3号以外の列車には、寝台車が連結されていなかったことも特徴です。

寝台車がないということは、座席に座って夜を明かし12時間を過ごすことになります。そればかりか、座席車は指定席もありましたが、大半が自由席でした。自由席ということは乗ってみたら満席だったということも当然ありえますので、多客期には床の上に新聞紙をしいて横になるなどして夜を明かすことも普通のことでした。


東北本線経由(福島・仙台経由)の列車

東北本線経由の列車の中には、当時の全ての「上野発の夜行列車(行き先が青森ではない列車も含む)」の中でも最初に上野駅を出発する列車がありました。

その一番手の列車とは急行「八甲田」です。19:08に上野駅を出発し、青森駅には6:17到着なので、走行時間は11時間にも及びました。青森駅に到着しても、青函連絡船へすぐに乗り継げる時刻設定にはなっておらず、北関東や東北へアクセスするためという性質の強い列車でした。

この列車にも寝台車は連結されておらず、1両の指定席、1両のグリーン車を除く全車両が自由席でした。現代の感覚で見ると、どうしてこんなに過酷な乗車環境の列車が存在したのだろうとも思えてしまいますが、急行なので特急よりも料金が安く、座席車なので寝台車よりも料金が安く、つまりは寝台特急よりもだいぶ安価なのは一つの利点でした。

また、ワイド周遊券というきっぷを使えば、八甲田の自由席を利用できたことからも人気の高い列車でした。八甲田の定期列車は1日1本でしたが、臨時列車が1日最大3本も運行されており、それでもなお多客期は相当に混雑したとのことです。

はくつる
583系電車による寝台特急「はくつる」

それから寝台特急の「はくつる」です。一部のゆうづると同様に583系電車が使用されていました。

この列車は1日1本のみの運行でした。青森行き寝台特急の主役は、常磐線経由のゆうづるだったことがうかがえます。


奥羽本線経由(福島・山形・秋田経由)の列車

奥羽本線経由の青森行き夜行列車として、まずは急行「津軽」が挙げられます。1日2本が運行されていて、津軽1号は青函連絡船との接続も行っていました。

津軽にはグリーン車1両・指定席1両を含む座席車に加えて、3段式の寝台車や、より快適なA寝台車が連結されていました。就職のために東北から普通列車に乗って上京した人が、東北へ帰省するときに急行津軽のA寝台に乗れるようになることが、出世の証といわれていました。

そして寝台特急「あけぼの」の紹介を欠かすわけにはいきません。この列車は全車両が寝台車でした。

1978年当時は1日2本が運行されており、あけぼの1号が青森行き、3号は秋田行きでした。3号は秋田止まりで、1号も青森駅で青函連絡船との接続は行っていなかったので、どちらかと言えば、上野と青森を結ぶというよりも、上野と秋田を結ぶ列車という性質の方が強かったのかもしれません。

あけぼのの運行経路は後に大きく変更されますが、結果的には2014年3月まで定期運行が継続されたことから、最後の「上野発・青森行きの夜行列車」になりました

なお、これらの列車の経路である奥羽本線には、なぜか変わった名前の駅が多いという特徴があります。解説記事がありますので、こちらもぜひご覧ください。


東北新幹線と青函トンネルの開業後

1982年に東北新幹線が大宮駅~盛岡駅間で開業し、1985年には更に上野駅~大宮駅間が開業したので、関東と東北の間の移動時間は大幅に短縮されました。それでも夜行列車の「寝ている間に移動できる」という利点は変わらないので、夜行列車は直ちに全廃されることはありませんでしたが、時代が進むと新幹線に加えて航空機や高速バスの利用者も増えていったことから、徐々に夜行列車の利用者は減少していき、衰退することになります。

まず1985年の時点で急行十和田が定期列車から臨時列車に格下げされ、後に臨時列車としても運行を終了しました。

また、1988年には青函トンネルが開業しました。

列車に乗ったままで青森駅から函館駅へ移動できるようになったので、青函連絡船は廃止されました。「北海道への連絡口」という伝統的な青森駅の役割は失われ、あの歌詞で描かれた情景は過去のものとなってしまったのです。

その後、寝台特急ゆうづると急行八甲田、急行津軽は1993年に臨時列車となり、後に完全に運行を終了しました。寝台特急はくつるも、2002年に東北新幹線の盛岡駅~八戸駅間が延伸開業した際に廃止されました。

なお、青函連絡船として実際に使用されていた連絡船の「八甲田丸」が、青森駅から徒歩5分の場所で「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」として保存されています。

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

中にも入ることができ(有料)、甲板を歩いたり、操舵室で実際に舵や通信機器に触れたり、船内に搭載されている鉄道車両を観覧したりすることができます。

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸Information

  • 名  称:青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
  • 所在地 :青森県青森市柳川一丁目112-15地先
  • 電話番号:017-735-8150
  • 営業時間:9:00~19:00、入館受付は18:00まで(4月1日~10月31日)
         9:00~17:00、入館受付は16:30まで(11月1日~3月31日)
  • 定休日 :12月31日、1月1日、3月第2週の月~金曜日
  • 公式URL:青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

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最後の上野発・青森行き夜行列車「あけぼの」

最後の上野発・青森行き夜行列車となった「あけぼの」

1990年代に入ると寝台特急あけぼのや急行つがるが運行されていた奥羽本線の一部区間に、山形新幹線の列車を通すための工事が始まります。この工事によって、2本のレールの間隔が新幹線に合わせて広げられるので、従来の列車は走行できなくなります。

山形新幹線(新幹線つばさ号)が誕生した経緯については、こちらの記事をご覧ください。

従来の経路での運行が不可能となるあけぼのや津軽は、1990年に運行経路を変更した上で運行が継続されます。といっても津軽は、東北本線・仙山線(仙台駅と山形県の羽前千歳駅を結ぶ路線)・奥羽本線経由に変更されたすぐ後の1993年に臨時列車化されてしまい、そのまま運行終了へと向かいます。

あけぼのの方は当時1日2本が運行されていて、そのうち1本は東北本線・陸羽東線(宮城県の小牛田駅と山形県の新庄駅を結ぶ路線)・奥羽本線経由に変更されます。

もう1本は高崎線・上越線・羽越本線といった路線を経由、つまり群馬県・新潟県や、山形県の日本海側を経由していく形に変更され、列車名も「鳥海(ちょうかい)」に改められました。

1997年には、あけぼの運行経路が鳥海と同様、つまり日本海側を経由していくルートに改められて、鳥海は消滅しました。新潟県から青森県までの日本海沿岸の区間には、並行する新幹線の路線がありません。

そのためか、あけぼのはその後も比較的長く存続し、その間にかつて共に青森駅を目指した夜行列車は全て消えていきました。

あけぼのについても、他の交通機関との競争や、車両の老朽化といった問題がついて回ることは避けられず、ついに終焉の時が訪れます。

2014年3月14日出発の列車をもって、あけぼのの定期的な運行が終了しました。臨時列車としての運行も2015年の年始が最後となり、以後全く運行されていません。

1891年に東北本線が全通して以来走り続けてきた「上野発・青森行き夜行列車」は、ついに120年以上にもわたる長い歴史を終えたのです。


実際の寝台客車に宿泊できる「ブルートレインあけぼの」

ブルートレインあけぼの
ブルートレインあけぼの

かつてあけぼのとして実際に使われていた車両を使用した列車ホテル「ブルートレインあけぼの」が、秋田県鹿角郡小坂町にある「小坂鉄道レールパーク」構内に開設されています。今では完全に姿を消してしまった「ブルートレイン」の個室寝台で宿泊ができる、貴重な施設の1つとなっています。

なお、小坂鉄道レールパークは、2009年に廃止された小坂鉄道の線路、設備や車両を活用した鉄道の複合施設です。懐かしい雰囲気や歴史を感じさせてくれるこの場所は、大人から子どもまで楽しむことができるでしょう。

ブルートレインあけぼの<Information>

  • 名  称:ブルートレインあけぼの
  • 所在地 :秋田県鹿角郡小坂町小坂鉱山字古川20-9
  • 電話番号:0186-25-8890
  • 宿泊可能日:Webで要確認、冬季は休業
  • 公式URL:ブルートレインあけぼの

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まとめ

ご覧いただいたように『津軽海峡・冬景色』がヒットした頃の時代には、上野発・青森行きの夜行列車は「あって当たり前」のものでした。
それが1本も残らずなくなってしまうと予想できた人は、多くはなかったと思います。
少し寂しい話ですが、我々が今あって当たり前だと思っているもの(鉄道に限らず)の中にも、いずれ消えていくものがあるのでしょう。

しかし、たとえ列車はなくなってしまっても、その列車に乗った思い出は、筆者自身を含めて多くの人の心に残っていることも、また事実です。
読者の皆さんにはぜひ、今の時代ならではの思い出に残る旅を経験していただきたいと思います。


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