青函連絡船とは?本州と北海道の間の人流・物流を支え続けた80年間【青森県】

青森県と北海道の行き来には、現在ならば航空機や、青函トンネルを通る北海道新幹線が利用できます。
しかし、青函トンネルも航空機もなかった時代には、船を利用するしかありませんでした。
その船の中でも特徴的な「青函連絡船」を今回は紹介します。


青函連絡船とは?

青函連絡船は、青森県青森市にある青森駅と、北海道函館市にある函館駅との間を結ぶ「青函航路」で運航されていた鉄道連絡船です。
航路長は61海里(112.972km)。
1988年に、青森県と北海道を結ぶ鉄道用海底トンネルの「青函トンネル」が開通したことから、青函連絡船は運航を終了しました。

青森港と函館港の間では現在もフェリーが運航されていますが、フェリーとの大きな違いは主に2点あります。

  • 国鉄・JR北海道といった「鉄道事業者」が運航する船であり、鉄道路線の一部のようにみなされていたこと
  • 船内に鉄道車両を積み込んでいたこと

なお、青函トンネルは鉄道専用トンネルであり、自動車などは通過できません
そのため、自動車で本州と北海道を行き来するには、現在でも自動車をフェリーに載せて移動する必要があります。


国営の航路として運航開始

北海道と青森県を結ぶ航路は江戸時代から存在しました。
そして1908年3月7日に、青森港と函館港を結ぶ船「比羅夫丸」(ひらふまる)が、帝国鉄道庁(現在のJR線に相当する鉄道を運営していた国の機関)によって、運航を開始しました。
これが「青函連絡船」の始まりです。
所要時間は4~5時間程度でした。

なお、比羅夫丸の名前の由来は、西暦720年に編纂された『日本書紀』に登場する、阿倍比羅夫(あべのひらふ)です。
斉明(さいめい)天皇の命を受けて北海道へ軍勢を派遣した人物で、日本史に北海道への渡航が記されたのはこれが初めてだと言われています。

青函連絡船は、鉄道連絡船のひとつでした。
鉄道連絡船とは、海や、湖、川があるために鉄道を敷設することは困難な地域に、鉄道の代わりに運航される性質の船です。

現在のJRが運航している鉄道連絡船は、広島県の宮島に渡る船だけですが、かつては青函連絡船以外にも、本州と四国の間や、本州と九州の間の関門海峡、琵琶湖や、北海道と樺太、下関と釜山(プサン)の間などでも、国有鉄道の路線から乗り換えられる連絡船が運航されていました。

青函連絡船が帝国鉄道庁によって開始されたように、鉄道連絡船は主に鉄道事業者によって運航されていたことが特徴です。
鉄道路線の一部であるかのように運賃が計算されていた(国鉄の普通列車に乗り放題の「青春18きっぷ」でも乗船できました)のみならず、駅のホームと船に乗るための桟橋が直結しているので、駅に到着した列車から改札を出ないで船へ乗り換えができました。まるで列車に乗るかのように乗れる船だったのです。

函館駅のすぐ近くで保存されている青函連絡船の「摩周丸」

車両の航送を開始

青函連絡船に車両を積み込むための橋

北海道の開拓事業が本格化すると、青函連絡船の輸送力増強が求められました。
そこで、1924年に、船に直接、貨物列車の貨車などの鉄道車両を積み込める車両航送船「翔鳳丸」(しょうほうまる)が登場しました。

実際の車両航送は、翌年の1925年8月に始まっています。
貨物列車で運ばれてきた貨車を、直接船へ積み込めるようになったことで、積み込みの時間が大幅に短縮されたことから、北海道の水産物が、鮮度を保ったまま本州へ運ばれるようになったのです。
(人の手で積み替えていた時代は、貨物を海へ落とすことすらあったとのことです)


戦災

戦時中の青函連絡船は、主に北海道の石炭を本州へ運ぶ役割を果たしていました。
戦争末期の1945年7月14日に、青函連絡船12隻の内、実に11隻がアメリカ海軍の航空機による空襲を受けました。
この日だけで352名が犠牲になっています。
翌日には残っていた1隻も沈没し、客船4隻、貨物船6隻が失われています。

空襲は8月にも行われて、青函連絡船はほぼ全滅状態となりました。
青森港で静態保存されている青函連絡船「八甲田丸」(はっこうだまる)からほど近いところに、戦災を伝える碑が設置されています。

青函連絡船戦災の碑 筆者撮影

洞爺丸台風で5隻が沈没

戦後の1954年には、9月26日に北海道に達した台風15号の強風・波浪により、5隻の青函連絡船が沈没する被害が発生しています。
5隻の内1隻は洞爺丸(とうやまる)という旅客船で、この船の沈没だけで1,151名が犠牲になり、台風15号は後に「洞爺丸台風」と命名されました。

洞爺丸と他4隻の貨物船と合わせて1,430名が命を落としたこの海難事故は、戦後の国鉄の五大事故のひとつと位置付けられています。
事故をきっかけとして、青函トンネルの計画が具体化されていくのです。


減り始める輸送量

戦前戦後を通じて、本州と北海道の間の人と物の流れをつないできた青函連絡船の輸送量のピークが、貨物は1971年、旅客は1973年に訪れます

その後輸送量が減っていったのは、旅客輸送の主役が航空機へ、貨物輸送はトラックをフェリーへ積み込む形態へと移っていったことの影響が大きいのでしょう。
わざわざ青森駅まで列車で来て、青函連絡船に乗って北海道に渡るという、石川さゆりさんのヒット曲『津軽海峡・冬景色』の歌詞のようなことをする人は、減っていったのです。

八甲田丸の近くに設置されている <津軽海峡 冬景色 歌謡碑> 筆者撮影

歌の冒頭に登場する「上野発(青森行き)の夜行列車」についてはこちらの記事で詳説しています。

輸送量の減少は止まらず、既に青函トンネルの建設も進められていたことから、青函連絡船の行く末は目に見えていました。

それでも国鉄は、青函連絡船のイメージアップのために、1978年に喫茶室や娯楽室を設置したり、豪華な座席を設置したりして、テコ入れを図っていました。国鉄で一番豪華な乗り物だったのではとも言われています。


青函トンネルに役目を譲る

1986年11月に行われた、国鉄最後のダイヤ改正時点では、青函連絡船は1日7往復が運航されていて、青森~函館間の所要時間は3時間50分または3時間55分でした。

1987年に国鉄は分割民営化され、青函連絡船の運航はJR北海道に継承されます。
その翌年、1988年3月13日に青函トンネルが開通し、これに伴って青函連絡船は廃止されたのでした。
旅客1億6,100万人、貨物2億4,700万トンを運んだ実績を残して、その80年間の歴史を終えたのです。

青函トンネルの開通と同時に運行を開始した快速「海峡」は、青森駅と函館駅の間を2時間半から2時間50分程度で結び、青函連絡船よりも短い時間で両駅を行き来できるようになりました
「海峡」以外にも、豪華寝台特急「北斗星」(上野~札幌)や、寝台特急「日本海」(大阪~函館)、夜行急行「はまなす」(青森~札幌)、特急「はつかり」(盛岡~函館)といった列車が、青函トンネルを通って、本州と北海道の都市を結び始めました。

これらの列車も、2016年3月の北海道新幹線開業までに全て廃止されて、現在は北海道新幹線の「はやぶさ」と「はやて」が青函トンネルを通っています。

また、貨物輸送については、経路が海上から海底トンネルに変わったことによって、天候による影響を受けにくくなりました。
北海道の物流の安定化こそが、青函トンネルが開通したことによる一番の効果だと言われています。


八甲田丸と摩周丸

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

青函連絡船は廃止されましたが、青函連絡船として運航されていた八甲田丸が、青森駅から徒歩5分の場所で「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」として保存されています

中にも入ることができ(有料)、甲板を歩けるのはもちろんのこと、現役時代に乗客が立ち入ることのできなかった操舵室で実際に舵や通信機器に触れたり、船内に搭載されている鉄道車両を観覧したりできます。
ただし、展望広場および煙突展望台は、悪天候時および冬季は閉鎖されるのでご注意ください。

なお、同じく青函連絡船だった摩周丸も、函館駅付近で保存されており、こちらも船内の見学が可能です。
青函連絡船の廃止から既に37年が経過しましたが、青森と函館の双方で、青函連絡船の歴史が今に伝えられているのです。

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸<Information>

  • 名称 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸
  • 所在地 青森県青森市柳川一丁目112-15地先
  • TEL 017-735-8150
  • 営業時刻 夏季 9:00~19:00、入館受付は18:00まで(4月1日~10月31日)
         冬季 9:00~17:00、入館受付は16:30まで(11月1日~3月31日)
  • 休館日 12月31日、1月1日、3月第2週の月~金曜日
  • 公式サイト 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

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