鉄道唱歌第3集で東北地方はどう歌われた? (1) 上野(東京)-白石(宮城)

「汽笛一声新橋を」で始まる『鉄道唱歌』は、東京から西へ向かう東海道本線の歌だと思っていませんか?

実は鉄道唱歌は第5集まであり(6集、7集まであるという説もあり)、東海道本線について歌っているのは第1集だけです。
第3集では東北地方の路線が登場します。鉄道唱歌はいったい東北地方各地の何について言及しているのでしょうか?


鉄道唱歌とは?

『鉄道唱歌』は明治時代の1900年に発表された曲です。当時の日本を走っていた鉄道路線の沿線について歌う内容となっていて、全国的にヒットしました。ご当地ソングの起源ともいえる曲です。

東京の新橋駅前にある鉄道唱歌の碑
東京の新橋駅前にある鉄道唱歌の碑

曲のタイトルに「地理教育」とついており、明治時代の子どもはこの歌を通じて日本各地の名所や地名を覚えたとされています。平成時代の子ども(筆者を含む)の中には、テレビゲームの『桃太郎電鉄』で日本各地の地名や名産品を覚えた人も少なくないと思いますが、それに近いものを感じます。

鉄道唱歌の作詞者は、伊予国(現:愛媛県)出身の大和田建樹(おおわだ・たけき)(1857-1910)です。作曲者は複数いて、実は鉄道唱歌には複数のメロディーが存在しました。しかし、現在鉄道唱歌としてよく知られているメロディーは1つだけで、これを作曲したのは山城国(現:京都府)出身の多梅稚(おおの・うめわか)(1869-1920)となっています。

1900年の5月に発表された第1集を皮切りに、1900年中に第5集までが発売されており、内容は以下の通りです。

  • 第1集:東海道篇
  • 第2集:山陽・九州篇
  • 第3集:奥州・磐城篇
  • 第4集:北陸篇
  • 第5集:関西・参宮・南海篇

第5集までで全334番となっており、長らく日本一歌詞の長い曲でありつづけました(現在は日本最長記録は破られています)。これに、後年加わった「北海道篇」や「伊予鉄道唱歌」を合わせて、鉄道唱歌は全6集または7集だとする説もあります。

ともあれ、字面からわかる通り、第3集は主に東北地方に関する内容になっています。具体的には、現在のJR東北本線、いわて銀河鉄道線、青い森鉄道線、JR常磐線といった路線の沿線が登場するのです(もちろん東北新幹線は当時存在しません)。

今回は、第3集の内、東京の上野駅から東北本線を北上していき、福島県内を駆け抜けるまでの部分について、どんなことが歌われているのかを見ていきます。

本記事の作成に関連して、歌詞はこちらのサイトを参照しました。なお、鉄道唱歌は、著作者全員が死去してからすでに70年以上経っており、日本や米国などの多くの国で著作権が消滅しています。


第3集1番:上野

汽車は煙を墳(は)き立てて 今ぞ上野を出(い)でてゆく ゆくえは何(いづ)く陸奥(みちのく)の 青森までも一飛びに

(漢字の字体や仮名遣いは現在のものに改めています)

※以後、東北本線に関連する駅は、どんなに簡単に読める駅でも一度は読み仮名を書いています。ご了承ください。

現在の東北本線は東京(とうきょう)駅が起点の路線ですが、当時は東京駅が開業しておらず、東北地方へ行く列車の始発駅は上野(うえの)駅でした。なお、東京駅開業後も、2015年に上野東京ラインが開業するまでは、基本的に東北本線の中長距離列車の始発・終着駅は上野のままでした。

鉄道唱歌でも例に漏れず、上野駅を始発として、北上して青森(あおもり)駅まで行く列車に乗ったようです。なおこの時代に特急列車や急行列車はなかったので、青森へ行くまでには相当な時間がかかりました。

現在のJR上野駅には、大きく分けて山手線、京浜東北線、上野東京ラインなどが停まる高架のホーム、上野駅が始発・終着の列車が入る地平のホーム、新幹線が停まる地下のホームがありますが、1900年当時存在したのは地平のホームだけのはずです。現在の地平ホームには、岩手県出身の歌人、石川啄木が詠んだ歌の歌碑が設置されています。

上野駅地平ホームにある石川啄木の歌碑
上野駅地平ホームにある石川啄木の歌碑(筆者撮影)

ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく

地方から上京した人が、故郷からやってきた列車から駅へ降りてきた乗客の話す方言を聞いて懐かしく思う、そのような心情を詠んだ歌です。上野駅は東北地方などから上京してくる人たちが乗る列車の終着駅だったので、特にこの歌が詠んでいる心情に合致する駅だといえます。

なお、1900年当時の上野駅から青森駅までの路線はJRの前身にあたる国の鉄道ではなく、私鉄(実際には半官半民と呼ぶべき会社でしたが)の日本鉄道(にっぽんてつどう)が管轄する路線群の本線という扱いでした。

そして、現在は東京駅から盛岡駅までがJR東日本の東北本線で、盛岡駅から青森県の目時駅までがIGRいわて銀河鉄道のいわて銀河鉄道線、目時駅から青森駅までが青い森鉄道線となっています。


2番~16番:王子~西那須野

汽車は北上していき、王子(おうじ)、赤羽(あかばね)、浦和(うらわ)、大宮(おおみや)、小山(おやま)といった駅を通っていきます。

途中、宇都宮(うつのみや)から現在のJR日光線にあたる路線に乗り換えて、日光東照宮や華厳の滝などにじっくりと寄り道をしています。

寄り道から急いで宇都宮に戻り、さらに北上。15番で西那須野(にしなすの)に至ります。東北地方に入るのは17番です。


17番:東那須野(現:那須塩原)~白河

東那須野の青嵐 ふくや黒磯黒田原(くろたはら) ここは何(いづ)くと白河の 城の夕日は影赤し

青葉に向かって吹く風(青嵐)を東那須野(ひがしなすの、現:那須塩原)で感じ、黒磯(くろいそ)、黒田原(くろだはら)を過ぎ、歌詞に登場しない豊原(とよはら)駅も過ぎると、いよいよ福島県に入ります。

現在は福島県に入って最初の駅は白坂(しらさか)、次いで新白河(しんしらかわ)ですが、鉄道唱歌はこれらの駅を省略しているわけではなく(豊原駅はスルーしていましたが)、どちらも1900年時点では未開業。当時の最初の駅は白河(しらかわ)です。

なお、当時駅がなかったとはいえ、白坂には何もなかったわけではありません。白坂は奥州街道の宿場の1つに数えられています。もちろん白河の城下町も宿場の1つです。

夕日に染まっている白河の城とは、駅のすぐ北にある白河小峰城のことです。成立は14世紀中ごろと考えられています。国の史跡に指定されています。

白河小峰城
白河小峰城

また、盛岡城や会津若松市の若松城と共に、東北三名城の1つ、そして日本100名城の1つにも数えられています。

小峰城跡 <Information>

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18番:白河の関

秋風吹くと詠(えい)じたる 関所の跡は此(この)ところ 会津の兵を官軍の 討ちし維新の古戦場

関所とはもちろん、奈良時代から平安時代頃にかけて奥州の玄関口の1つとなっていた「白河の関」のことです。関所の跡地は国指定史跡となっています。ただし、白河駅からは南へ約11kmも離れたところにあります。

白河関跡
白河関跡

「秋風吹く」というのは、平安時代に能因(のういん)法師という僧侶が詠んだ下記の和歌に由来しています。

都(みやこ)をば 霞(かすみ)と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関

「春のかすみが立つのとともに都(京都)から旅立ったけれど、白河の関に着く頃には、秋風の吹く季節となってしまったなあ」という意味です。

「会津の兵を官軍が討った」というのは、もちろん1868年に勃発した戊辰(ぼしん)戦争のことを指しています。

江戸時代末期には白河は幕府の直轄地になっており、大政奉還と共に新政府の領地になっていました。しかし、戊辰戦争において会津藩や奥羽越列藩同盟といった旧幕府を支持する勢力は、防衛の生命線と考えた白河を新政府軍から奪取。

新政府軍が白河の奪還に動いたことから、1868年4月下旬から7月中旬まで激しい白河の争奪戦が繰り広げられました。この戦いは「白河口の戦い」と呼ばれています。先ほど登場した白河小峰城は、白河口の戦いの初期に新政府軍の攻撃を受けて、焼失・落城しています。

白河関跡 <Information>

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19番:泉崎、矢吹、須賀川、郡山

岩もる水の泉崎 矢吹須賀川冬の来て むすぶ氷の郡山(こおりやま) 近き湖水は猪苗代(いなわしろ)

当時の白河の次の駅は泉崎(いずみざき)です。

「岩もる水の泉崎」とは、普通に読めば泉崎に水が岩から漏れている場所があるのだと考えられますが、近くにそのような名所があるのか、筆者は確認できませんでした。単に泉崎という駅名にひっかけて「岩もる水」という言葉を頭につけただけのような気がします。

さらに矢吹(やぶき)、須賀川(すかがわ)と進んでいきます。泉崎、矢吹、須賀川のいずれも、奥州街道の宿場の1つでした。特に須賀川は奥州街道の中でも規模の大きい宿場でした。

また、須賀川には須賀川二階堂氏の本拠地だった須賀川城がありました。現在は特撮の町として知られています。毎年11月の祭事「松明あかし」も有名です。

須賀川市の松明あかし

そして冬が来て水に氷が張っているという郡山に到着します。この「氷」にもおそらく深い意味はなく「郡山」という地名にかけているだけなのではないかと推測します。そもそも17番では青葉に吹く風(青嵐)が出ていて、季節が一致していないと思うからです。

郡山の街が発展したのは明治時代以降と遅かったのですが、現在は東北地方有数の商工業都市となり、郡山市の人口は東北地方では仙台市に続いて第2位、福島県の県庁所在地である福島市よりも多くなっています。

そして郡山から西に10kmほどのところに、猪苗代湖があります。


20番:岩越線路(JR磐越西線)

ここに起(おこ)りて越後まで つづく岩越(がんえつ)線路あり 工事はいまだ半(なかば)にて 今は若松会津まで

郡山から越後(新潟県)まで続く岩越線路とは、現在のJR磐越西線のことです。郡山駅から、猪苗代駅、会津若松駅、喜多方駅などを経て、新潟県新潟市秋葉区にある新津(にいつ)駅までの路線です。

磐梯山と猪苗代湖
磐梯山と猪苗代湖

1900年の時点では、歌詞にある通り若松駅(現:会津若松駅)までが、私鉄の岩越鉄道の手によって開業していました。1904年に喜多方駅まで開通したものの、2年後の1906年に国によって買収された後に、新潟県への延伸が実現しています。

日光にはガッツリ寄り道していましたが、岩越鉄道や会津若松については言及しているだけで寄り道はしないようです。

磐越西線の途中にある川桁駅には、かつて沼尻鉄道(晩年は磐梯急行電鉄)という鉄道が乗り入れていました。この鉄道を歌った『高原列車が行く』の作詞者と作曲者は共に福島県の出身です。

会津若松駅では「日本一の絶景ローカル線」と呼ばれることもある只見線という路線に乗り換えられます。こちらの記事で解説しています。

また、喜多方駅もかつて存在した日中(にっちゅう)線というローカル線の起点の駅でした。この路線に関する記事もぜひご覧ください。


21番:日和田、本宮、二本松

日和田本宮二本松 安達が原の黒塚を 見にゆく人は下車せよと 案内記にもしるしたり

郡山から再び北上し、日和田(ひわだ)、本宮(もとみや)、二本松(にほんまつ)と進んでいきます。これらの駅は、安達太良山(あだたらやま)のふもとに位置しています。やはりいずれも奥州街道の宿場町でした。

安達が原の黒塚とは……当地に伝わる伝説の「宿を求める旅人を襲う鬼婆」の墓ということだけ述べておきます。下記のリンクにより詳しい情報が書かれていますが、グロテスクに感じる方もいると思うので、自己責任でご覧ください。

安達ケ原の黒塚
安達ケ原の黒塚

「(二本松で)見に行く人は下車せよと 案内記にもしるしたり」とあるように、当時は二本松駅の次の安達(あだち)駅が開業していなかったので、間違いなく二本松駅が黒塚の最寄りの駅でした。

黒塚 <Information>

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22番:松川、福島

松川すぎてトン子ル(トンネル)を いづれば来る福島の 町は県庁所在の地 板倉氏(うじ)の旧城下

松川(まつかわ)を過ぎトンネルを抜けます。金谷川(かなやがわ)や南福島(みなみふくしま)は当時なかったので、松川の次の駅はいよいよ福島県の県庁所在地である福島(ふくしま)です。

現在の福島県庁
現在の福島県庁
掬茶 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=191377546による

現在の福島は、郡山やいわきと比べると人口こそ少ないものの、江戸時代から福島藩の中心地だった都市です。そのためか、明治時代に福島県が発足すると、県の北の端の方にありながらも、県庁が置かれることとなりました。

福島県史では、県庁が福島におかれた理由ははっきりしないと記されているとのことです。しかし、郡山は当時それほど大きな町ではなかったので、県庁を設置する候補地としては力不足だったのかもしれません。

また、現在の福島県域内に江戸時代から発展していた町は福島以外にも複数ありました。しかし、少なくとも戊辰戦争で明確に新政府に敵対した会津や二本松などを県庁所在地にすることを、政府が嫌がったことは容易に想像がつくのではないでしょうか。

歌詞にある通り、幕末は板倉氏が福島藩主を務めていました。

20番で言及した『高原列車は行く』の作曲者である古関裕而(こせき・ゆうじ)(1909-1989)は福島市出身です。福島駅の東北本線など在来線ホームの発車メロディーは『高原列車は行く』、東北新幹線ホームの発車メロディーは、同じく古関作曲の『栄冠は君に輝く』となっています。


23番:奥羽南線(JR奥羽本線・山形線)

しのぶもじずり摺り出(い)だす 石の名所も程近く 米沢ゆきの鉄道は 此(この)町よりぞ分(わか)れたる

「しのぶもじずり」とは、福島県の信夫(しのぶ)地方(福島市や伊達市辺り)で作られていた、乱れ模様の摺り衣(すりごろも)のことを指します。百人一首に登場する言葉なので、聞き覚えはあるという方もいるかと思います。

そして「石の名所」とは、この「しのぶもじずり」を作るために使っていた大きな石が置かれている場所のことを指しています。福島駅から東北島5kmほどの場所に「信夫文知摺石」があります。曹洞宗の文知摺観音・普門院という寺の境内の中です。

文知摺石
文知摺石

福島駅で分岐している米沢行きの鉄道とは、現在のJR奥羽本線です。現在の奥羽本線は、福島から米沢、山形、新庄、横手、大曲、秋田、大館、弘前などを経て青森までの路線です。福島駅から新庄駅までの区間は、山形線と呼ばれることもあります。また、山形新幹線の経路にもなっています。

1900年当時は福島から建設が進められている奥羽南線と、青森から建設が進められている奥羽北線に分かれている状態でした。南側の奥羽南線は、1900年4月の時点で福島駅から米沢駅を経て山形県の赤湯駅までが開業している状態でした。

福島と米沢の間の鉄路には板谷峠(いたやとうげ)と呼ばれる、急な坂、冬季の豪雪といった厳しい条件が揃った難所が横たわっています。奥羽本線の福島から米沢までの区間全体を「板谷峠」と呼ぶこともあるほどで、鉄道敷設以来、板谷峠の鉄道は厳しい自然と闘ってきました。

板谷峠の途中にある駅は、山形新幹線の列車は停車せず、普通列車のみが停まる駅となっています。途中の駅で販売されている「峠の力餅」がちょっとした名物となっています。

信夫文知摺石 <Information>

  • 名  称:信夫文知摺石
  • 住  所:〒960-8202 福島県福島市山口文字摺68

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24番:長岡(現:伊達)、越河、白石

長岡おりて飯坂の 湯治にまわる人もあり 越河(こすごう)こして白石(しろいし)は はや陸前の国と聞く

長岡(ながおか)とは現在の伊達(だて)駅のことです。1914年に改称されたのは、新潟県の長岡駅と混同されるからとのことです。

現在は福島駅から福島交通の飯坂線に乗って飯坂温泉へ行くことができます。しかし、当時は飯坂温泉へ行く鉄道がなかったため、長岡駅から徒歩などで飯坂温泉へ向かったということを歌っているのでしょうか。

飯坂温泉発祥の地の碑(筆者撮影)

歌詞には登場しませんが、長岡(伊達)の次の桑折(こおり)と藤田(ふじた)をもって、当時の福島県内の駅は終わりです。貝田(かいだ)は未開業でした。なお、桑折、藤田、貝田のいずれも奥羽街道の宿場でした。桑折付近は伊達政宗の父・輝宗などの出生地でもあります。

越河(こすごう)が宮城県で最初の駅で、越河を越えると白石(しろいし)に到着します。越河と白石もやはり奥州街道の宿場でした。

今回はここまでです。


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