【福島県・山形県】急な坂と厳しい気候に挑んだ板谷峠の鉄道

福島県と山形県の県境にたちはだかる板谷峠(いたやとうげ)には、JR東日本の山形新幹線・山形線、正式名称でいえば奥羽本線が通っています。
奥羽本線は、現在は山形新幹線つばさ号が走っていることからもわかるように、関東地方や福島と東北地方各地を結ぶ重要な役割を果たしていますが、板谷峠は昔も今も難所として知られています。
そんな板谷峠の鉄道の歴史をご紹介します。


板谷峠とは?

板谷峠は、奥羽山脈を越える山形県と福島県の県境近くにある峠の1つです。
山形県米沢市内の板谷集落と大沢集落を結んでいます。
JR東日本の奥羽本線はこの峠を越えるように通っているので、福島駅から米沢駅・山形駅方面へ向かう列車はこの峠を必ず通ることになります。
板谷峠には道路も通っていますが、福島市と米沢市を結ぶメインルートからは外れていて、メインルートである国道13号や東北中央自動車道は、板谷峠よりも北の方の栗子峠を通っています。
そのため、板谷峠という言葉からはもっぱら鉄道が連想されるようになっており、奥羽本線の福島駅~米沢駅間のこととほぼ同義のように言われることがあります。

板谷峠の勾配は最も急なところで38%(3.8%)になります。
水平方向に1,000m進むと、標高が38m変わる坂だという意味です。
自動車にとっては3.8%の坂など大した坂ではありませんが、鉄道にとってはかなりの急勾配です。
現在の「JRの幹線に分類される路線」の中では、最も急な勾配となっています。
また、平均33.0‰もの勾配が約22kmにわたって続くという勾配の長さも、板谷峠を難所たらしめています。
山中ということもあり、冬は豪雪にも悩まされます。

板谷駅付近を走行する山形新幹線の「つばさ」

板谷峠を通る鉄道の開通

板谷峠を通る福島駅~米沢駅間の鉄道は1899年5月に開業しました。
明治時代のことですから、列車の動力源として蒸気機関車が使われていました。
そして板谷峠に設けられた40近い数のトンネルは、蒸気機関車がけん引する列車にとっては大きな問題でした。
蒸気機関車は、特に坂を上るときには大量のばい煙を吐くので、トンネルではその煙が列車の乗務員や乗客を苦しめていたのです。

蒸気機関車による列車の運行は半世紀にわたり、戦後の1949年まで続きました。
乗務員や乗客が煙に苦しむ様子や、列車の本数があまりに少ないために、山のふもとの学校に通う子どもたちが、夕方になるまで駅で待ちぼうけたあげくに貨物列車に特別に乗せてもらって山中の家に帰るという様子が、『奥羽線電化の記録』という記録映画に残されています。

蒸気機関車を用いることのもう1つの問題は、蒸気機関車は非力だということです。
煙を吐いて大きな音を立てて走る蒸気機関車は力強く見えますが、実際に発揮できるけん引力は、電気を使って走る電気機関車と比べて劣ります。
けん引力が低いということは、峠を登ることが難しいという問題に直結します。

峠の途中にある赤岩駅、板谷駅、峠駅、大沢駅の4駅はスイッチバック駅となっていました。
運行の安全のためには、駅を急な勾配の途中には設けられないので、これらの駅では、本線の脇に平坦な土地を確保して、そこにプラットホームを設けていました。
列車は本線の脇にある駅へ進行方向を変えながら進入あるいは進出する必要があり、列車の速達性に大きく影響していました。

また、平坦な路線で列車をけん引するための機関車だけで板谷峠の急勾配を登ることはできませんから、板谷峠を通過する列車に連結して補助をするための機関車が配属されていました。
後年には、この補助機関車には板谷峠に特化した設計のものが投入されるようになります。

板谷峠向け補助機関車の4110形蒸気機関車(Wikipediaより)

蒸気機関車のばい煙などの深刻な状況を放置することはできず、板谷峠では戦後の早い時期から電化工事、つまり列車に電力を供給するための設備を設置して、電気機関車を使用できるようにするための工事が計画され、1946年に着工しました。


板谷峠の電化

板谷峠は、付近に大きな道路がなく、豪雪地帯でもあることから、電化工事は困難を極めました。
着工から3年経った1949年に、直流1,500Vの電源を使用した列車の運転が開始されました。
山岳路線向けに開発された、EF15形、EF16形、EF64形といった直流用電気機関車が投入されました。

EF16形電気機関車(筆者撮影)

また、蒸気機関車で運転されていた時代のスイッチバック4駅は、駅に停車しない列車であってもスイッチバックをしていく必要がありました。
しかし、駅をスルーして走れる通過列車用の線路を設ける工事が電化工事と並行して行われたので、通過列車がスムーズに運行できるようになりました。

1961年からはキハ80系気動車を使用した特急「つばさ」(上野駅~秋田駅間)、1964年からは特急「やまばと」(上野駅~山形駅間)の運転が開始されました。
キハ80系気動車は、軽油を燃料として自走できる車両なのですが、これらの特急列車も、板谷峠を越える際には補助機関車の連結を必要としました。
キハ80系の後継車両であるキハ181系は、いったんは補助機関車なしで運転されましたが、板谷峠でエンジンにかかる負荷があまりにも大きいということで、再び補助機関車が連結されるようになりました。
板谷峠がいかに難所であったかを改めて思い知らされます。

キハ80系気動車

直流電化からおよそ20年が経ち、板谷峠の周辺の路線(東北本線など)は交流50Hz/20,000Vで電化が進められたため、板谷峠の電化方式も1968年に交流へ変更されました。
交流電化された山岳路線向けに開発されたED78形およびEF71形電気機関車が新たに投入されました。
これらの機関車は、普通列車のけん引に加えて、寝台特急「あけぼの」(上野駅~青森駅間など)のけん引にも携わりましたが、特に編成の長い寝台特急は機関車への負荷が大きく、板谷峠ではED78形やEF71形を2両連結した、重連によるけん引が行われていました。

ED78形+EF71形+50系客車による普通列車
著作者:spaceaero2 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7451631による

1975年には奥羽本線の全線が電化されました。
これを契機として、板谷峠を越える「つばさ」などの特急列車は、国鉄時代の特急形電車の代表選手と言うべき485系電車での運転に変更され、補助機関車の連結は不要となりました。

485系電車による特急「つばさ」

山形新幹線の開業

1980年代に入ると「ミニ新幹線」の検討が始まりました。
これは、新幹線の電車を在来線に直通運転させるという構想です。
この構想に基づき、奥羽本線と、1982年に開業した東北新幹線との間で、福島駅を介して直通列車が走ることになりました。
これが現在の山形新幹線です。

山形新幹線が開業することになった経緯はこちらの記事で紹介しているので、ぜひご覧ください。

山形新幹線の開業は板谷峠にとって、1940年代の電化開業と同様に大きな変革だったといえます。
2本のレールの間隔が1,067mmから、東北新幹線と同じ1,435mmに広げられるので、これまで板谷峠を越えてきた車両は一切通行できなくなります。
特急列車は400系電車による新幹線「つばさ」(もちろんこの名称は485系電車で運行されていた特急「つばさ」にちなんだものです)に置き換えられて、電気機関車が客車をけん引して走っていた普通列車は、719系という電車に置き換えられることになりました。
400系は後にE3系に置き換えられ、2024年からは最新型車両のE8系への置き換えが始まっています。

山形新幹線開業当初の車両400系電車
著作者:spaceaero2 – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7808984による

そして板谷峠の4つのスイッチバック駅は、板谷峠が難所であることの象徴でしたが、全ての駅でスイッチバックが解消されました。
4つの駅のホームは側線から本線上に移設されて、一般的な駅になりました。
さらに4駅の中で唯一福島県内に位置していた赤岩駅は、駅周辺の過疎化に伴い2021年に廃止されました。

スイッチバック解消後の峠駅を通過する「つばさ」

筆者は子どもの頃、スイッチバック解消前の50系客車による板谷峠の普通列車にも、山形新幹線開業後の普通列車と「つばさ」にも、福島市出身の父に連れて乗せられた記憶があります。
スイッチバック解消前の乗車のことは、幼少だったこともあり記憶があいまい(そして父は既に亡くなっているので確かめようもない)ですが、列車がバックする形で赤い客車を先頭にして駅へ入ってきたり、トンネル(?)の中で列車が進行方向を変えたりしていた記憶があるので、板谷峠の普通列車だったことは間違いないと思います。
筆者にとってもこのように、今でも断片的には思い出せるような楽しい思い出ですが、しかしおそらく父は、板谷峠のスイッチバックが解消される前に何よりも自分が乗りたかったから乗りに行ったのだと思っています。


板谷峠は今もなお難所

1992年に山形新幹線が開業して以降は、板谷峠の急勾配を新幹線の「つばさ」や、電車化された普通列車が軽快に乗り越えています。
しかし、急勾配という形での難所ではなくなりましたが、急カーブが続いたり豪雪地帯であったりするという点で、板谷峠が今もなお難所であることには変わりありません。
山形新幹線の雨、雪、動物との衝突などによる列車の運休や遅延の内、実に4割は板谷峠を含む福島駅~米沢駅間で発生しているのです。

そこで、実現するどうかは不透明ですが、板谷峠におよそ23kmもの長大トンネルを掘って、この難所を解消することが検討されています。
トンネル工事には15年の工期と1,500億円の事業費がかかりますが、「つばさ」の峠越えの所要時間が10分強短縮されることと、特に冬季の列車の運行の安定性向上が見込まれます。
費用がメリットに見合ったものと認められるかが、実現のカギとなるのではないでしょうか。


峠の力餅

スイッチバック駅の1つだった峠駅では、現在では全国的に珍しい立ち売り販売が行われています。
販売されているのは「峠の力餅」です。
峠駅付近に店を構える「峠の茶屋」がつくる大福もちで、純白の餅の中にこしあんが包まれています。

峠駅の近くの道路は険しい道になっているので、自動車での訪問は不可能ではありませんがなかなか大変です。
そして、峠駅に山形新幹線の「つばさ」は停車せず、1日上下それぞれ6本の普通列車しか停車しないので、列車での訪問もまた難易度が高いです。
しかし、立ち売り販売の光景や、峠の力餅のおいしさゆえに、昔も今も板谷峠の名物となっています。

峠の茶屋<Information>

Google Map


まとめ

板谷峠は、群馬県と長野県の県境にあった信越本線の「碓氷峠」(既に廃線)や、山陽本線の広島県内区間にある「瀬野八越え」と並び、日本の鉄道三大勾配区間と言われてきました。
その難所と人々がいかに戦ってきたか、そして現在もなお難所であることは、この記事でご紹介した通りです。
「つばさ」に乗って板谷峠を越えるときは、車窓に流れる景色を眺めてみてください。
自然の厳しさ、そして奥羽本線がその自然と戦ってきた歴史が、垣間見えることと思います。


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