
鉄道唱歌第3集で東北地方はどう歌われた? (2) 白石(宮城)-新田(宮城)
前回の記事に引き続き、1900年に発売された『鉄道唱歌』の第3集「奥州・磐城篇」について解説していきます。
前回は東京府(当時)の上野(うえの)駅を出発する1番から、東北本線(※)を北上して宮城県の白石(しろいし)駅に至る24番までを解説しました。白石駅を過ぎたところの25番から今回は始まります。
……といいたいところですが、前回の記事で24番について書き洩らしていたことがあるので、まずはそこから始めます(東北本線に関する駅は、初出時は必ず読み方を付記しています。あらかじめご了承ください)。
※東北本線は、当時は私鉄の日本鉄道(にっぽんてつどう)という会社の「本線」または「奥州線」という扱いだったのですが、わかりやすさを重視して、基本的に「東北本線」と記しています。
本記事の作成に関連して、歌詞はこちらのサイトを参照しました。なお、鉄道唱歌は、著作者全員が死去してからすでに70年以上経っており、日本や米国などの多くの国で著作権が消滅しています。
リンク・鉄道唱歌/奥州・磐城篇 (Wikisource)
24番:白石
長岡おりて飯坂の 湯治にまわる人もあり 越河(こすごう)こして白石(しろいし)は はや陸前の国と聞く
(漢字の字体や仮名遣いは現在のものに改めています)
白石城
前回の記事の最後で言及した24番は、宮城県に入って白石に至る所で終わりました。白石駅から西に1kmほどの場所には、白石市のシンボルとして親しまれている白石城があります。

江戸時代に一国一城令が出されると、原則にしたがえば、伊達氏の治める仙台藩では藩主が住まう仙台城以外の城は破却する必要がありました。しかし、白石城は原則に反して存続を許された城なのです(※)。伊達政宗の重臣だった片倉景綱など、代々片倉氏が明治時代まで城主を務めました。
※もっとも、仙台藩やその支藩の一関藩には「要害」と称した事実上の城が21か所もあったようです。さすがは伊達氏としか言いようがありません……
白石城 <Information>
- 名 称:白石城
- 住 所:〒989-0251 宮城県白石市益岡町1-16
- 電話番号:0224‐24‐3030
- 開館時間:9:00~17:00(4月~10月)/9:00~16:00(11月~3月) ※入館は閉館の30分前まで
- 休館日:12月28日~12月31日
- 公式URL:白石城 – 白石市文化体育振興財団
Google Map
白石は陸前ではなく磐城では?
宮城県に入って「はや陸前(りくぜん)の国」という歌詞が登場します。
現在の東北地方の太平洋側の各県や青森県にあたる地域は、長らく「陸奥(むつ、またはみちのく)」という国名で呼ばれてきました。しかし、明治元年の12月(1869年の1月)に、陸奥は「陸奥(りくおう)、陸中(りくちゅう)、陸前、岩代(いわしろ)、磐城(いわき)」の5国に分割されます。
福島県の会津地方や、東北本線が北上してきた中通りは、大部分が岩代(一部は磐城)にあたります。一方、陸前はほぼ現在の宮城県にあたります。ただし、宮城県と陸前はまるっきり同じではありません。例えば岩手県の南東部にある陸前高田市のように、陸前でありながらも現在は岩手県になっている地域もあります。
そして「まるっきり同じではない」のは宮城県南部についても同様です。白石などの地域は宮城県ではあっても陸前ではなく、磐城なのです(このように鉄道唱歌には事実ではない可能性がある歌詞がちょくちょく登場してしまっています)。ただし、磐城と言ってしまうといわき市が存在する福島県のイメージが非常に強くなるので、現在の白石を磐城と表現することはほとんどないと思われます。
実際に陸前に入るのは、現在の自治体でいえば白石市に隣接している柴田郡大河原町から、駅でいえば、1900年当時は白石の次の駅だった大河原(おおがわら)駅からとなります。歌詞には登場しません。
25番:阿武隈川
末は東の海に入(い)る 阿武隈川も窓ちかく 尽きぬ唱歌の声あげて 踊り来(きた)れるうれしさよ
白石を過ぎたあたりで東北本線は白石川と並行するようになります。その白石川は槻木(つきのき)付近で阿武隈川(あぶくまがわ)に合流。その阿武隈川も、あと10kmほどで太平洋に流れ込みます。

阿武隈川は福島県西白河郡西郷村を水源として、白河市、須賀川市、郡山市、福島市などの福島県中通りを北上していき(※)、宮城県岩沼市と亘理郡亘理町の境で太平洋にそそぐ、長さ239kmの一級河川です。
※つまり東北本線は福島県内のほぼ全区間にわたって阿武隈川と並走していたのですが、そのような川がどうして宮城県内に入るまで一度も歌詞に登場しないのかが若干謎です。
もちろん、歴史的にいえば阿武隈川が福島県中通りに沿って流れているのではなく、阿武隈川に沿って中通りの各町が形成されたと表現するのが正しいでしょう。阿武隈川は「福島県の母なる川」とも呼ばれています。飲用や農業用の水として、舟運による物流の経路として、有史以前から人々の暮らしを支えてきたことは疑いようがありません。
中通りを貫く、暮らしに根付いた川ということもあり、歴史的事件の舞台にもなっています。伊達政宗の父・輝宗が悲劇の最後を遂げたのは阿武隈川の河畔でのことでした。
(完全に余談ですが、筆者の母方の祖父は伊達出身で、祖父にとって阿武隈川は母なる川どころか、幼少期に危うく命を落としかけた川なのですが……当然落命していたら筆者は生まれていないです)
阿武隈川に近づいたところで、突然「唱歌の声あげて 踊り来れるうれしさよ」という歌詞が登場します。今一つどういうことが言いたいのか筆者にはわかりかねるのですが、景色が良くて思わず歌を歌いたくなったのでしょうか。だとしたら、気持ちはわかるような気がします。
26番:岩沼
岩沼駅のにぎわいは 春と秋との馬の市 千里の道に鞭うちて すすむは誰ぞ国のため
汽車は岩沼(いわぬま)駅に到着しました。岩沼は、東京から宮城までを太平洋沿岸経由で結ぶ常磐線の終点でもあります(常磐線も当時は別の名称)。常磐線は第3集の後の方で登場するので、解説も後日執筆する記事に回します。
歌詞で言及されているように、岩沼は馬市でにぎわっていた時代がありました。岩沼市内にある竹駒神社が創建されたのと同じころ、承和9年(西暦842年)に国司の小野篁(おののたかむら)が馬市を始めたとされています。

馬市は竹駒神社の周辺で、神社の初午(旧暦2月8日か9日)から100日間開催されていましたが、江戸時代に50日間へ短縮されます。仙台藩でも馬市が開催されるようになったことから、短縮された50日分は仙台藩が岩沼藩から奪ったのだという説もあるようですが、定かではありません。
明治時代になると岩沼の馬市は再び勢いを取り戻します。明治4年(1871年)に、岩沼が政府の軍馬購買地に指定されたのです。歌詞に「春と秋との馬の市」とあるので、おそらく明治時代の岩沼の馬市は春と秋の年2回開催だったのだと思います。しかし、そのことを断言している資料に筆者は出会うことができませんでした。
なお、竹駒神社の境内には「馬事博物館」という博物館があります。中には岩沼市指定有形文化財の「伊達政宗騎馬石膏像」といった貴重な資料が収蔵されています。
リンク – 岩沼市公式サイト
ただし馬事博物館は、初午大祭と秋季大祭などの限られた期間しか開館しないという、訪問がとんでもなく難しい博物館となっています。かつて馬市の開催されていた時期にだけ、この博物館を開館しているのだと推測します。
参考:2026年秋季大祭の案内(すでに終了しています) 日本三稲荷 竹駒神社 秋季大祭のご案内
「千里の道に鞭うちて すすむは誰ぞ国のため」という歌詞は、軍馬となった岩沼の馬が千里(kmに換算すれば3,927kmですが、具体的な距離を表しているわけではなく「とても遠い道のり」ぐらいの意味でしょう)の道を進んでいくのは、国のため(戦いに勝つため)だということを言っているのだと思います。
鉄道唱歌の発売よりも後に起きた日露戦争が1905年に終戦すると、軍馬の需要は増えてますます岩沼の馬市が盛んになったとされています。そして第二次世界大戦の終戦をもって軍馬の需要はなくなったため、岩沼の馬市もその歴史を終えています。
しかし、戦後も岩沼の馬は大役を果たしています。1952年に現在の上皇陛下が皇太子になる儀式の際の馬車を引いた馬や、美智子様(現:上皇后陛下)とのご成婚パレードを務めた馬は、岩沼から買い上げられた馬でした。また、現在の天皇陛下が幼少の頃に乗馬を始めるときに乗った馬も岩沼から納められたものです。なお、天皇陛下は皇太子だった2011年6月に、東日本大震災で被災した岩沼を訪問されています。
竹駒神社 <Information>
- 名 称:竹駒神社
- 住 所:〒989-2443 宮城県岩沼市稲荷町1-1
- 電話番号:0223-22-2101
- 開門:6:00/閉門:17:00
- 公式URL:日本三稲荷 竹駒神社
Google Map
27番:仙台
東北一の都会とて 其(その)名しられし仙台市 伊達政宗の築きたる 城に師団は置かれたり
昔も今も東北地方最大の都市である仙台(せんだい)に到着です。
伊達政宗の築いた城である仙台城、別名青葉城には、明治時代に陸軍の第二師団が設置され、司令部が置かれていました。1945年までの仙台は、東北地方における最大都市であったのみならず、日本有数の軍都の1つでもあったのです。鉄道唱歌の他の集でも、大阪、広島、熊本などの陸軍師団について触れているところがあります。

現在の仙台市の人口は約109万人で、宮城県民の約半分は仙台市で暮らしています。東北地方唯一の100万人都市で、唯一の政令指定都市でもあります。人口が多いことに加えて、官公庁の支局や大企業の支社・支店なども仙台市には多数所在しており、東北地方の中枢都市という地位を不動のものとしています。
28番:仙台
阿武隈川の埋木(うもれぎ)も 仙台平(ひら)の袴地(はかまじ)も 皆この土地の産物ぞ みてゆけここも一日は
28番では仙台の名物について述べています。
「埋もれ木」とは、およそ500万年前に埋まった樹木が炭化して化石のようになったものです。
歌詞では「阿武隈川の埋木」となっていますが、阿武隈川の流域は仙台市からはだいぶ離れています。実際には仙台の青葉山や八木山一帯の亜炭層から発掘された埋もれ木が、仙台ではよく使われていたようです。
埋もれ木に残っている木目を活かした伝統的工芸品は埋木細工と呼ばれ、仙台の名物です。
リンク – 宮城県公式サイト
リンク – 梟の森 小竹 孝 埋もれ木細工美術館
また「仙台平」は仙台藩藩主の保護のもとで発展していった絹織物です。仙台平の袴は位の高い武士らに愛用され、全国にその名をとどろかせていました。

明治時代以降も民間によって仙台平は製造されていたものの、現在は合資会社「仙台平」ただ1社のみが、仙台平の伝統を受け継ぎ製造を手掛けています。座ればふっくらと貫禄があり、立てばすだれのように元の形に戻り、すべての動作に耐えることが仙台平の袴の特徴とされています。
リンク – 仙台平公式サイト
29番:仙台
愛宕(あたご)の山の木々青く 広瀬の川の水白(みずしろ)し 桜が岡の公園は 花も若葉も月雪(つきゆき)も
29番では仙台の名所を紹介しています。
愛宕山(あたごやま)は、仙台市都心部よりも南の、広瀬川(ひろせがわ)を挟んで右岸にある標高78mの山です。名前の通り愛宕神社が山上に建てられています。仙台の町を一望できるとして、昔から登る人が後を絶たない山でした。

広瀬川は仙台市の中心部を流れる、長さ45kmの一級河川です。仙台市の母なる川と呼ばれています。広瀬川は名取川の支流で、名取川と広瀬川は仙台市東部の若葉区内で合流しています。なお、名取川は仙台市と名取市を流れる長さ55kmの一級河川です。
続いて「桜が岡の公園」とありますが、現在の青葉区桜ケ丘8丁目にある「桜ケ丘公園」は、鉄道唱歌に登場する「桜が岡の公園」とは全くの別物です。
鉄道唱歌に登場しているのは青葉区桜ケ丘公園3丁目、仙台城跡から広瀬川を挟んで左岸にある公園で、現在の名前は「西公園」といいます。
歌詞にある通り、昔は「桜ケ丘公園」という名前でした。その後、仙台駅をはさんで東側に「榴岡(つつじがおか)公園」が開設されたときに、榴岡公園には「東公園」という通称がつけられ、桜ケ丘公園には「西公園」という通称がつけられました。ところが、なぜか榴岡公園はそのままの名前が定着し、一方桜ケ丘公園は西公園という新しい通称の方が定着したとのことです。
西公園は1875年に開園した仙台市内最古の公園とされています。桜の名所となっているのみならず、歌詞で言及されている通り若葉、紅葉、そして雪景色と、季節ごとの景色が楽しめる公園です。
西公園 <Information>
- 名 称:西公園
- 住 所:〒980-0823 宮城県仙台市青葉区桜ケ岡公園3
- 公式URL:西公園|仙台市
Google Map
仙台に関する歌詞が3番にわたって続きましたが、次でようやく移動を再開します。
30番:岩切、塩釜
多賀の碑(いしぶみ)ほどちかき 岩切おりて乗りかうる 汽車は塩釜千賀(ちか)の浦 いざ船よせよ松島に
多賀城

「多賀の碑(いしぶみ)」とは、現在の多賀城市にある多賀城碑のことでしょう。現在は国府多賀城(こくふたがじょう)駅が最寄りとなっていますが、当時の最寄り駅は歌詞が示している通り岩切(いわきり)駅でした。
多賀城碑 <Information>
- 名 称:多賀城碑
- 住 所:〒985-0864 宮城県多賀城市市川田屋場16
- 電話番号:022-368-5094(多賀城市企画経営部文化財課文化財係)
- 公式URL:多賀城市の文化財/国宝「多賀城碑」(たがじょうひ)
Google Map

多賀城は、神亀(じんき/しんき)元年(西暦724年)に創建された城で、陸奥国(むつのくに)の国府や鎮守府がおかれました。城なので軍事上の拠点であったことは間違いありませんが、現在の福島・宮城・岩手・青森にあたる地域の、行政の中心地、県庁のようなものでもあったのです。
多賀城跡 <Information>
- 名 称:多賀城跡
- 住 所:〒985-0864 宮城県多賀城市市川
- 電話番号:022-368-5094(多賀城市企画経営部文化財課文化財係)
- 公式URL:多賀城跡 – 宮城県公式ウェブサイト/多賀城市の文化財/特別史跡多賀城跡附寺跡(とくべつしせきたがじょうあとつけたりてらあと)
Google Map
岩切駅で塩釜線に乗り換え
30番の歌詞では「岩切で降りて乗り換える」とありますが、現在の路線図をいくら見ても、東北本線で塩釜(しおがま)へ行くのに、なぜ岩切で乗り換えが必要なのかはわからないはずです。
参考:南東北路線図|JR東日本
現在の路線図では、岩切駅には盛岡方面へ行く路線(東北本線のメインルート)以外に、利府(りふ)駅で行き止まりの路線、通称:利府支線も通っています。ある時期まではこの行き止まりの路線の方が東北本線(東北本線の旧線)だったのです。
「利府で行き止まりになっているのにこっちが東北本線ってどういうこと?」という疑問はもっともですが、以前は利府駅から品井沼(しないぬま)駅までの部分にも線路が通っていました。塩釜を通る新線が1944年に開業した後、1962年に利府駅から品井沼駅までの旧線は廃止されたのです。
一方、1900年時点では岩切から塩釜(しおがま)(現在の塩釜駅とは場所が異なり、仙石線の本塩釜駅がある辺りにありました)までの路線も開通していました。後に塩釜線と呼ばれるようになります。鉄道唱歌で歌われている、岩切駅で乗り換えた路線というのは、この塩釜線なのです。

陸奥の国府が多賀城に在った時代に、塩釜には国府の港である「国府津(こうづ)」がありました。現在の塩竈市にある香津町(こうづまち)という地名は、国府津の表記が変化したものとされています。
国府津が設けられて、古くから松島湾の代表的な港だった塩釜に、鉄道を通すことは妥当な発想だったといえるでしょう。塩釜線は、構想の時点では東北本線の一部になる予定でした。ところが東北本線をさらに延伸させる際には、塩釜の手前にある岩切で分岐して、海から離れた利府を通る経路で東北本線が建設されたのです。
内陸部を通る経路は急な勾配があって、列車の運行上の難点となっていたので、塩釜を経由する新しいルートが設定されることになりました。1944年に東北本線の新線(現在のルート)が開業したときに、塩釜線の西側の部分(現在の国府多賀城駅付近まで)は新線に転用されています。
新線は当初貨物列車専用でしたが、後に旅客列車も経由するようになり、やがて1962年の旧線(利府-品井沼間)廃止に至ります。東北本線建設時の構想がようやく実現した形です。
一方、塩釜線の東側の部分は、貨物列車用の路線として残された後、1997年に廃止されています。
塩釜・千賀の浦から船に乗って松島湾へ
さて、歌詞では乗り換えた塩釜線に乗って塩釜駅に着くと、船に乗って松島湾へと漕ぎ出しています。当時の東北本線(旧線)は海沿いにはなく、仙石線もまだ影も形もありませんでした。そのため、鉄道で松島観光に行くのであれば、塩釜線で塩釜へ移動し、そこから船に乗ることが主流だったのだと推測されます。
なお現在は、松島観光をするなら仙石線の松島海岸駅で降りるのが便利です。東北本線や仙石東北ラインの列車は松島海岸駅を経由しないので、仙台駅から列車に乗るときは、駅の地下にある仙石線ホームから乗る必要があります。
30番で鉄道唱歌は中断して、付録という扱いの「松島船(ふな)あそび」という歌が4番まで入ります。仙台を出発しても、たった1番でまた寄り道ということになります。
松島船あそび
こげやこげやいざ船子(ふなこ) 鏡なせる海の上 波に浮(うか)ぶ八百(はっぴゃく)の 島の影もおもしろや
見るがままに変(かわ)りゆく 松のすがた岩のさま 前に立てる島ははや あとに遠く霞(かす)みたり
雪のあした月の夜半(よわ) あそぶ人はいかならん みれどみれど果(はて)もなき 二子島(ふたごじま)の夕げしき
五大堂を右にして 瑞巌寺(ずいがんじ)の森ちかき 磯に船は着きにけり 暫(しば)しという程もなく
松島とは、宮城県北東部にある松島湾内外に点在する約260の島々の総称です。上記の松島船遊びの歌詞には「八百の島」とありますが、本当に800もの島があるわけではありません。「八百万の神」みたいに「大きくて縁起の良い数」として800と言っているのだと思われます。
松島は、京都府の天橋立や広島県の宮島と並ぶ、日本三景の1つとして知られています。

塩釜の千賀の浦から出た船は、松島湾の北西の方にある双子島(鯨島と亀島)の近くを通り、五大堂や瑞巌寺を右に眺めながら磯に到着します。現在の松島町、仙石線の松島海岸駅に近い場所にある磯に上陸したようです。「しばしという程もなく(あっという間だった)」といっているので、さぞ景色を楽しんだのでしょう。
「五大堂」は9世紀初頭に坂上田村麻呂が東征のときに建立したとされており、現在の建物は伊達政宗の再建によります。東北地方で現存する中では最古の桃山建築です。
「瑞巌寺」も9世紀初頭の創建と伝わっています。現在の本堂もまた、伊達政宗によって建てられています。
リンク – 松島観光協会
今回の記事には12回(これを除く→)「伊達政宗」が登場しています。やはり宮城県の歴史はこの人なしには語れないようです。
さて、30番の解説で述べたように、現在は仙石線の松島海岸駅が松島観光に使いやすい駅なのですが、1900年の時点では仙石線は開通していないばかりか、東北本線も海から離れた所を通る旧線でした。
では「松島船あそび」の後、どうやって東北本線の旅に復帰したのでしょうか。松島(まつしま)駅まで歩いたのでしょうか? なお、松島駅は旧線上にあったので現在の駅とは場所が異なり、北北西に約3km離れたところでした。
それとももう一回船に乗って塩釜へ戻り、さらに塩釜線に乗って岩切へ引き返したのでしょうか? 歌詞で描写されていないので、復帰の方法は不明です。
なお、現在は東北本線が沿岸部を通っているので、松島海岸から東北本線の旅に復帰したいのなら、松島駅まで歩くかタクシーを使うのがよいと思われます。松島海岸駅に石巻方面行きの仙石線の列車がタイミングよく来るようならば、隣の高城町(たかぎまち)駅まで乗って、そこから松島駅へ1kmほど歩くのも一手です。高城町で仙石東北ラインの仙台行きに乗り換えて、次に停車する塩釜で東北本線の盛岡方面行きに乗り換えることも可能。
31番:鹿島台、小牛田、新田
汽車に乗りても松島の 話かしまし鹿島台 小牛田(こごた)は神の宮ちかく 新田(にった)は沼のけしきよし
船から鉄道に戻ったので鉄道唱歌が再開します。
鹿島台でかしましい
松島駅から東北本線の列車に乗ったものと仮定して、当時の次の駅は鹿島台(かしまだい)です。歌詞では、汽車に乗った後も他の乗客が松島の話をしていると描写されています。きっと、景色が素晴らしかったといった感想を興奮気味に述べているのでしょう。「鹿島台」という駅名に「かしまし」がかかっていると思われるのも注目すべきポイントです。
小牛田の山神社
鹿島台の次の駅は、松山町(まつやままち)は当時開業していないので小牛田(こごた)です。現在の小牛田駅には東北本線・陸羽東線・石巻(いしのまき)線の3路線が乗り入れており、気仙沼線の一部列車も乗り入れてくるので、交通の要衝のようになっていますが、当時は東北本線以外開業しておりません。
小牛田の「神の宮」とは、駅から北へ1.7km程の場所にある「山神社」(やまのかみしゃ)のことでしょう。なお、小牛田駅は1910年頃に現在の場所に移転しています。移転前の1900年時点では現在の駅より北の、より山神社に近い位置にありました。

山神社は永治元年(1141年)に勧請された神社とされます。日本神話に登場する、木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)が主祭神です。山を守り、山の恵みを生む山の女神とされています。良縁、子授け、安産、子育てにご利益があるとのことです。
山神社(小牛田山神社) – <Information>
- 名 称:山神社(小牛田山神社)
- 住 所:〒987-0004 宮城県遠田郡美里町牛飼斉ノ台37
- 電話番号:0229-33-2082(受付時間 9:00~16:00)
- 公式URL:山神社(やまのかみしゃ)| 安産・子授け 小牛田のやまの神さま
Google Map
新田駅付近の沼
続いて登場する新田(にった)駅は、歌詞の通り沼の近く、というより沼に囲まれた場所にあります。駅の北にある伊豆沼は、マガン(国の天然記念物)やオオハクチョウがやってくる場所となっていて、現在もバードウォッチングの愛好者で賑わっています。

伊豆沼と、付近にある内沼は、1985年にラムサール条約に登録されました。ラムサール条約とは湿地の保全を目的として1971年に制定された国際条約です。日本では1980年に登録された北海道の釧路湿原に次ぐ2番目の登録となっています。
リンク – 環境省
東北地方最大都市の仙台や日本三景の1つである松島を楽しんだ宮城県の旅もこれで終わり、次の32番で岩手県へ入ります。今回はここまでです。
シリーズ <鉄道唱歌>
NEFTの記事づくりを応援してください!
NEFTでは東北各地の歴史・文化・観光情報等を取材し記事として発信しています。
この記事を楽しんでいただけましたら、今後の取材や記事制作、サイト運営へのご支援を検討いただけますと幸いです。
※「チップ」をクリックすると外部サービス「codoc」のチップ送付画面が開きます。

























