弘前文化センター前の津軽為信公像

弘前藩主・津軽家の菩提寺巡り「革秀寺」「長勝寺」「高照神社」【青森県】

城下町と呼ばれる都市を訪れた時、お城と合わせて筆者が参拝したくなるのが城主一族の墓域や菩提寺です。

一族の墓域なので一カ所に集積しているイメージがありますが複数箇所に分散している場合もあり、例えば仙台藩伊達家経ヶ峯(仙台市)と大年寺山(仙台市)、会津藩松平(保科)家土津神社(猪苗代町)と院内御廟(会津若松市)さらには仙台藩の重臣で白石城主だった片倉家傑山寺(白石市)と愛宕山(白石市)と、墓域が分散しています。

理由は様々ですが、藩祖や一族の英雄的存在をことさらに特別視したり、城下町の開発に伴った改葬などで後の当主が墓域を分ける、または移動することがあったようです。

現在では桜の名所として有名な弘前城(青森県弘前市)を拠点としていた弘前藩の藩主一族である「津軽家」も、革秀寺長勝寺高照神社と、墓域が分散しているケースに該当します。


津軽家とは?

系譜に諸説ある津軽氏ですが、室町・戦国時代に北奥羽一帯を支配していた南部氏の庶家・南部久慈氏の一族である南部(大浦)光信が祖であるとする説が最も有力です。

弘前藩が編纂した官撰史書「津軽一統志」では、延徳3年(1491年)、十三安藤氏残党の反抗に対処するため久慈から光信を津軽西浜の種里城(現:西津軽郡鰺ヶ沢町)に配置したと記されています。

その後文亀2年(1502年)、光信は大浦城(現:弘前市賀田・五代)を築き養子・大浦盛信に守らせたとあり、この城を拠点とした頃から姓を「大浦」と改称したと考えられます。

その後時は流れ永禄10年(1567年)、5代目となる為信を久慈氏から婿養子として迎えますが、この大浦(津軽)為信が情勢を大きく動かします。

津軽為信 出典:Wikipedia
津軽為信 出典:Wikipedia

元亀2年(1571年)5月5日、為信は南部宗家である三戸南部家当主・南部晴政の叔父にあたる石川高信の居城・石川城を突如攻略、いわゆる下克上を起こします。その後も周辺の城を次々に攻略し、天正年間には津軽地方を完全に掌握し独立。

天正17年(1589年)には家臣・八木橋備中を上洛させ、石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上。秀吉の小田原征伐の際にも、南部氏に先んじて秀吉に謁見し独立大名として認知され、南部氏の「為信の行為は惣無事令違反である」という訴えを退けて本領安堵のお墨付きを得たといわれています。

「津軽」を名乗り始めたのは廷臣・近衛家の猶子(実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子の事)になった頃とされ、この時に近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の家紋が下賜されています。

この一連のいきさつは津軽・南部両家の間に大きな禍根を残し、200年以上後の世になっても「相馬大作事件」のような事件が勃発するなどしています。


弘前藩初代藩主・津軽為信の菩提寺「革秀寺」

津軽山革秀寺は弘前市藤代にある寺院で、弘前藩初代藩主・津軽為信が自身の禅の師匠である長勝寺八世住職・格翁禅師のために建立した寺院といわれています。

革秀寺の山門
革秀寺の山門

為信は慶長13年(1607年)に京都で死去し、この遺骨を二代藩主信枚が持参、格翁禅師を導師として葬儀を行い、革秀寺を廟所としました。

革秀寺の茅葺の本堂
革秀寺の茅葺の本堂

革秀寺の本堂。

屋根の大棟部分には、中央に戦国時代より津軽家の定紋だった「卍」紋、その両脇に近衛家より下賜された「杏葉(津軽)牡丹」紋が配されています。

革秀寺の津軽為信霊屋
革秀寺の津軽為信霊屋

県の重要文化財に指定されている「津軽為信霊屋」は冬期非公開で、それ以外の時期も見学には事前の申込みが必要です。

革秀寺<Information>

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津軽家代々の菩提寺「長勝寺」

太平山長勝寺は弘前市西茂森にある寺院で、1528年(享禄元年)に大浦盛信が父・光信の菩提を弔うため、菊仙梵寿を招いて種里(現:西津軽郡鰺ヶ沢町種里町)に開山・創建したのが始まりとされます。

長勝寺の三門(国の重要文化財)
長勝寺の三門(国の重要文化財)

その後、大浦城(現:弘前市賀田・五代)、堀越城(現:弘前市堀越柏田)と、津軽氏の拠点移動とともに移動し、1611年(慶長16年)、弘前藩2代藩主・津軽信枚の時代の弘前城完成に合わせて現在地に移されました。

長勝寺の銅鐘と庫裏(国の重要文化財)
長勝寺の銅鐘と庫裏(国の重要文化財)

津軽家霊屋をはじめとして三門銅鐘庫裏本堂と初代藩主・津軽為信の木像が安置された御影堂が国の重要文化財に指定され、その他にも県重宝指定の薬師如来像や絵画など、多数の文化財を抱える寺院です。

長勝寺の本堂(国の重要文化財)
長勝寺の本堂(国の重要文化財)

入り口が見当たらない珍しい造りの本堂。

庫裏内部から本堂へと繋がる廊下を通ることで見学・参拝ができます。

長勝寺にある津軽家霊屋(国の重要文化財)
長勝寺にある津軽家霊屋(国の重要文化財)

庫裏、本堂、蒼龍窟は一般参拝が可能ですが、津軽家霊屋、御影堂、歴代藩主五輪塔などの津軽家の墓域は板塀で区切られ、参拝には事前予約が必要となっています。

多くの仏像が納められている長勝寺の蒼龍窟
多くの仏像が納められている長勝寺の蒼龍窟

蒼龍窟内には三尊仏、十六羅漢、五百羅漢など、多数の宗教彫刻が安置されています。

全国的にも珍しい同一宗派33ヶ寺による寺院街「禅林街」

長勝寺正面に繋がる約500メートルの直線道路は禅林街と呼ばれ、2代藩主・津軽信枚が1615(元和元)年に領内の曹洞宗寺院33ヶ寺を集めて構築した寺院街となっています。

禅林街の黒門
禅林街の黒門

禅林街入り口の黒門が城郭建築にみられる高麗門形式なことや、現在も残る土塁を含めて長勝寺構(ちょうしょうじがまえ)と呼ばれていたことからも、ここがただの寺院集積地ではなく、弘前城南西部防衛の拠点としての役割も担っていたであろうことが窺えます。

曹洞宗33ヶ寺が集められた禅林街と突き当たりに見える長勝寺
曹洞宗33ヶ寺が集められた禅林街と突き当たりに見える長勝寺

また、風水的な観点からも重要な役割を果たしており、弘前城の鬼門にあたる北東の抑えが弘前八幡宮裏鬼門にあたる南西の抑えが禅林街最奥にある長勝寺であるといわれています。

長勝寺<Information>

  • 名  称:太平山 長勝寺
  • 住  所:〒036-8273 青森県弘前市西茂森1丁目23−8
  • 電話番号:0172-32-0813
  • 公式URL:長勝寺公式HP

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天台宗寺院「報恩寺」と4代藩主・信政が神格化された「高照神社」

実は津軽家の墓域には他にも変遷があります。

弘前藩二代藩主・信枚の時代、「黒衣の宰相」と称され「弘前」の名付け親でもあった天台宗の僧・南光坊天海と関係が深かったことから、四代藩主・信政の時代に、三代藩主・信義の菩提を弔うため天台宗寺院・報恩寺を創建。

以降は報恩寺が津軽家の菩提寺とされていました。しかし報恩寺の津軽家墓所は、1954年(昭和29年)に長勝寺に改葬され現在に至ります。

さらに四代藩主・信政は、吉川神道の創始者・吉川惟足に師事していた経緯から、死後、本人の遺言により吉川神道二代目・吉川従長を斎主とし神葬祭(神道の葬儀)を行い神格化されました。

高照神社
高照神社

埋葬地は弘前の古名である「高岡」の地名を冠し、信政が吉川神道から授かった神号にちなみ「高照霊社」と称されました。

藩士たちからは「高岡様」と崇敬され、明治元年に「高照神社」と改称し現在に至ります。

ちなみにここには後に藩祖・為信も合祀され神格化されています。

報恩寺<Information>

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高照神社<Information>

  • 名  称:高照神社
  • 住  所:〒036-1344 青森県弘前市高岡神馬野87
  • 電話番号:0172-83-2465
  • 公式URL:弘前市公式HP – 高照神社

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まとめ

四代藩主・信政の時代から少し複雑になる津軽家の菩提寺事情。

報恩寺の墓所は長勝寺に改葬されているので実質三カ所ですが、全てまわるとなると一日がかりになるかもしれません。

また革秀寺・長勝寺の墓域参拝には予約が必要となるので、訪れる際は事前準備を忘れないようにしましょう。


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