
鉄道唱歌第3集で東北地方はどう歌われた? (3) 石越(宮城)-一戸(岩手)
前回の記事に引き続き1900年に発売された『鉄道唱歌』の第3集「奥州・磐城篇」について解説していきます。なお、第1回の記事はこちらです。
前回は宮城県の白石(しろいし)駅に至る24番から、東北本線(※)を北上して新田(にった)駅に至る31番までを解説しました。岩手県に入る32番から今回は始まります(歌詞の経路にある駅は、初出時は必ず読み方を付記しています。あらかじめご了承ください)。
※東北本線は、当時は私鉄の日本鉄道(にっぽんてつどう)という会社の「本線」または「奥州線」という扱いでした。また、盛岡駅から青森(あおもり)駅までの区間は、現在はJRの東北本線ではなく、別の鉄道事業者の路線になっています。しかし、わかりやすさを重視して上野(うえの)駅から青森駅までの区間を「東北本線」と記しています。
本記事の作成に関連して、歌詞はこちらのサイトを参照しました。なお、鉄道唱歌は、著作者全員が死去してからすでに70年以上経っており、日本や米国などの多くの国で著作権が消滅しています。
32番:石越、花泉、一ノ関
水は川瀬の石こして さきちる波の花泉 一の関より陸中と きけば南部の旧領地
(漢字の字体や仮名遣いは現在のものに改めています)
石越駅
新田駅を出て、迫川(はさまがわ)という川を渡ると石越(いしこし)駅に到着します。「水は川瀬の石こして」という歌詞は、字面の通り川の水が「石を越えて」流れているという情景と「石越」駅の駅名をかけているものと考えられます。
現在の石越駅は東北本線のみの駅となっていますが、1921年から2007年までは別の路線に乗り換えることができました。路線名や経営者は何度か変わっている路線で、2007年の廃止時はくりはら田園鉄道線といいました。石越駅から細倉マインパーク前駅までの25.7kmを結んでいました。
リンク – NHKアーカイブス
- 【宮城県】くりはら田園鉄道 : https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009230063_00000
旅客輸送や、鉱山からの鉱石輸送に活躍した路線でしたが、1970年頃から次第に乗客や貨物が減っていき、2007年にやむなく廃止されました。廃止後は若柳駅と細倉マインパーク駅以外の駅舎などは撤去されたものの、線路はほぼ廃線時のままで残っています。
また、途中の若柳駅の跡地に「くりはら田園鉄道公園」が整備されている他、終点だった細倉マインパーク前駅の前には使用されていた機関車や貨車が静態保存されています。
くりはら田園鉄道公園は、くりでんミュージアム、くりでん旧若柳駅、くりでん芝生広場からなる複合施設で、展示を通じてくりはら田園鉄道の歴史を学んだり、実際に使用されていた車両の運転(要予約)をしたりすることが可能です。
くりはら田園鉄道公園 <Information>
- 名 称:くりはら田園鉄道公園 くりでんミュージアム
- 住 所:〒989-5501 宮城県栗原市若柳字川北塚ノ根17-1
- 電話番号::0228-24-7961
- 開館時間:10:00~17:00(最終入館16:00)
- 休館日:火曜日および年末年始(火曜日が祝日の場合は翌日)
- 公式URL:【公式】くりでんミュージアム
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花泉駅
石越駅を過ぎると、夏川という川を渡ります。この夏川が宮城県と岩手県の県境になっています。岩手県に入ってから最初の駅は、現在は油島(ゆしま)ですが1900年当時は未開業。当時の最初の駅は花泉(はないずみ)です。
「さきちる波」という歌詞は、花泉駅の近くを流れる金流川(きんりゅうがわ)という川の情景を描いている可能性もありますが、花泉という駅名にかかる言葉を頭につけたものと思われます。
一ノ関駅
当時の花泉の次の駅は一ノ関(いちのせき)。花泉から一ノ関までの間に駅がなかっただけでなく、経路も現在とは異なっていました。1924年10月に新線が開通して現在のルートに変わっています。
旧線・新線どちらのルートも、一度宮城県に戻ってから再度岩手県に進入するルートとなっています。新線は、宮城県内を通っている区間で奥州街道の有壁宿の近くを通るルートとなっており、新線開業と同時に有壁(ありかべ)駅が開業しました。有壁駅の北にある県境を越えて再び岩手県に入り、さらに6km程北上すると一ノ関駅です。
現在の一ノ関駅は、東北本線の他に大船渡(おおふなと)線(1925年開業)や東北新幹線(1982年開業)も乗り入れている、岩手県県南地方の主要駅です。

歌詞では「一の関」とあるように「ノ」がひらがなになっています。当時の駅名の正式表記がひらがなだったのかは筆者にはわかりませんが、おそらく、単なる表記ゆれと考えてよいと思います。
なお、駅が所在する自治体は、当時は「一関町(いちのせきまち)」、現在は「一関市(いちのせきし)」で、いずれも「の」や「ノ」が入らない表記が正式です。

「一関」という地名の由来は、どう考えても「一番目の関所があったからでは?」といいたくなるのですが、その根拠となる文献は見つかっていないようです。また、仮に関所が一関の由来だとしても「いつ」「誰が」設置した関所を指しているのかについても諸説あります。
もう1つの説が、北上川の氾濫をせき止めるために、一番目の「堰」が設けられたことに由来しているというものです。
一関は伊達の旧領地では?
歌詞に登場する「陸中」とは、おおむね現在の岩手県のことです。ただし、現在の岩手県の南東部や北西部は陸中国に含まれず、逆に秋田県北東部が含まれるといった、現在の岩手県との違いはあります。
「南部の旧領地」という歌詞の「南部」とは、岩手県(あるいは陸中国)の南部という意味ではありません。戦国時代の一時期には現在の岩手県、青森県のほぼ全土と秋田県の北東部という広大な範囲を領有した南部氏のことを指します。
その領地があまりに広いために「三日月の 円くなるまで 南部領」(三日月の日に南部氏の領地に入っても、満月になるころにもまだ南部領)という川柳まで詠まれたほどです(ただし、この川柳は明治時代頃に創作されたものである可能性が指摘されています)。南部氏が江戸時代に治めていた領地は「南部地方」と呼ばれます。
その南部領が一ノ関駅あたりから始まる……と言いたいところですが、一関の歴史を見ると、どうも戦国時代の一関は、まずは葛西氏が領有しており、その後は北奥州の覇者であった南部氏ではなく、南奥州の覇者であった伊達氏の領地となったようです。江戸時代の一関は、仙台藩の支藩である一関藩の城下町であり、一関藩の藩主は伊達氏の一門が務めていました。
一関が南部領だった時期が一度もなかったのかは筆者には不明ですが、少なくとも一般的には一関が南部氏の旧領だという認識は持たれていない(鉄道唱歌の内容は誤りと判断せざるを得ない)と思います。
33番:平泉
阿部の貞任(さだとう)義家(よしいえ)の 戦(たたかい)ありし衣川(ころもがわ) 金色堂を見る人は ここにておりよ平泉
一ノ関の次の駅の山ノ目(やまのめ)は当時未開業なので、次の駅は平泉(ひらいずみ)です。
源氏の武将:源義家
安倍(阿部)貞任(1019-1062)と、義家こと源義家(みなもとのよしいえ)(1039-1106)は、共に平安時代の武将です。安倍貞任と源義家の「戦」とは、陸奥守に任じられた源頼義(よりよし)(988-1075)と長男の義家らが、奥州の豪族であった安倍氏を滅ぼした「前九年の役」(前九年合戦)(1050頃-1062)のことでしょう。

もっとも、前九年の役における源氏のリーダーはあくまで父の頼義です。それなのになぜ前九年の役が安倍氏と義家の戦いだと歌詞で歌われているのかというと、後世での評価がより高い武将となったのが義家の方だったからとしか筆者には考えられません。
なお、義家の子孫をたどっていくと、源頼朝や足利尊氏といった、後の日本史を大きく動かした人物たちにたどり着きます。
一方、頼義の三男である義光(よしみつ)は甲斐源氏の初代にあたり、武田信玄や、先ほど言及した南部氏の先祖です。
「衣川(ころもがわ)」とは平泉駅から北に1.5km程の場所を流れている、北上川(北上川については後述します)の支流の1つです。平安時代後期まで、朝廷に従う勢力と、従っていない蝦夷(えみし)の国境のような役割を果たしており、前九年の役の際には、衣川の周辺で戦いが繰り広げられたと言われています。
中尊寺金色堂
「金色堂」とはもちろん、平泉にある名高い中尊寺(ちゅうそんじ)の金色堂(こんじきどう)のことを指します。天治元年(1124年)に、奥州藤原氏の初代、藤原清衡(ふじわらのきよひら)(1056‐1128)によって建立されました。

後三年の役(1083-1087)を勝ち抜いて奥州藤原氏をおこした清衡は、奥州における二度の戦役(前九年・後三年の役)で亡くなった者の霊を敵味方の区別なく慰め、仏教に基づく理想的・平和な社会を奥州に築くという決意を込めて寺を建立したのです。
奥州藤原氏は100年にわたる栄華を築いたものの滅亡します。その後、中尊寺の建造物は多くが荒廃や火災などによって失われ、創建当初のまま現存するのは金色堂のみです。金色堂の本格的な修理が行われるようになるのは明治時代以降のことで、創建当初の金色の輝きを取り戻したのは昭和時代の1962年でした。
2011年に「平泉-仏国土を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-」を構成する一部として中尊寺・金色堂は世界文化遺産に登録されます。今から900年前に奥州藤原氏の思想によっておこった平泉の文化は、今や世界に向けて発信されているのです。
中尊寺 <Informatoin>
- 名 称:中尊寺
- 住 所:〒029-4102 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
- 電話番号:0191-46-2211
- 拝観時間:3月1日~11月3日/8:30~17:00 11月4日~2月末日/8:30~16:30(年中無休)
- 公式URL:【公式】関山 中尊寺[岩手県平泉 天台宗東北大本山]
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「金色堂を見る人は ここにておりよ平泉」と歌詞にありますが、実のところ中尊寺は平泉駅から2km程も(明治時代の人にとっては「も」ではなかったのかもしれませんが……)離れたところにあります。現在は公共交通機関でアクセスするのなら、平泉駅または東北新幹線が停車する一ノ関駅から、バスやタクシーを使うことが一般的だと思われます。
34番:盛岡
すぎゆく駅は七つ八(や)つ 山おもしろく野は広し 北上川を右にして つくは何(いず)くぞ盛岡市
名前すら出てこない盛岡以南の駅
平泉を出た後の東北本線の駅は、現在は前沢(まえさわ)、陸中折居(りくちゅうおりい、当時未開業)、水沢(みずさわ)、金ケ崎(かねがさき)、六原(ろくはら、当時未開業)、北上(きたかみ、当時の駅名は黒沢尻・くろさわじり)、村崎野(むらさきの、当時未開業)、花巻(はなまき)、花巻空港(はなまきくうこう、当時未開業)、石鳥谷(いしどりや)、日詰(ひづめ)、紫波中央(しわちゅうおう、当時未開業)、古館(ふるだて、当時未開業)、矢幅(やはば)、岩手飯岡(いわていいおか、当時未開業)、仙北町(せんぼくちょう、当時未開業)、盛岡(もりおか)となっています。なお、平泉駅から盛岡駅までは約80kmあります。
32番で「一関は南部の旧領ではなかったはず」と書いた通り、現在の岩手県県南は伊達領でした。金ケ崎町の六原駅の辺りが伊達藩の北限だったということなので、駅でいえば黒沢尻(現:北上)からが南部の旧領だったことになります。

1900年当時開業していた駅だけでも、前沢、水沢、金ケ崎、黒沢尻(現:北上)、花巻、石鳥谷、日詰、矢幅、盛岡と9つあります。また、これらの駅の近くには奥州街道の宿場もあり、具体的には前沢、水沢、金ヶ崎、黒沢尻、花巻、石鳥谷、日詰郡山、盛岡の各宿場が該当します。
しかし鉄道唱歌は「すぎゆく駅は七つ八つ」と、平泉と盛岡の間の駅の名前を出さないばかりか駅の個数すらあいまいなまま(最後に出てきた数が8だから、8だと明示しているつもりかもしれませんが)にしています。沿線の情景についても、山、野、そして北上川だけしかとりあげていません。
正直なところこれってどうなんだ!? と思います。水沢にも黒沢尻にも花巻にも、そんなに歌詞にするようなものがなかったというのでしょうか?
……と思いましたが、なにしろ今では岩手県出身の偉人のような扱いとなっている花巻出身の宮沢賢治(1896-1933)はまだ幼児です。現在の岩手県では宮沢賢治だの銀河鉄道だのがそこかしこで見られますが、当時はそんなことは全く望めません。
そして水沢市(現:奥州市)出身で花巻東高校の野球部のエースとして活躍する(その後の活躍の方がはるかに大きいことは論じるまでもありませんが)大谷翔平さんが生まれるのなんて94年も後です。
1900年当時の沿線にいかなる名所があったのか……大変申し訳ないのですが、筆者には花巻温泉ぐらいしかわかりませんでした。
なお、花巻駅からは温泉地に向かう電車が走っていた時期がありました。
リンク – NHKアーカイブス
- 【岩手県】岩手中央バス(花巻電鉄)花巻温泉線 : https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009230055_00000
- 【岩手県】岩手中央バス(花巻電鉄)鉛線 : https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009230338_00000
岩手県の母なる北上川
東北本線は、平泉駅辺りからはずっと、右手に北上川(きたかみがわ)が流れている地域を北上していきます。北上川は岩手県中央部を北から南に流れて、宮城県東部の石巻市で追波湾(おっぱわん)に注いでいます。延長は249kmで日本の河川の中で5位、流域面積は10,150平方キロメートルで日本4位であり、いずれも東北地方の河川の中では1位です。
北上川の流域には滝沢市、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市といった岩手県の主要都市があり、岩手県の母なる川と呼ばれています。また、宮城県の中では人口第2位の石巻(いしのまき)市に流れており、石巻市でも母なる川と呼ばれることがあります。
北上川の名前の由来は「日高見(ひたかみ)国を流れる川」であるといわれています。日高見国とは、日本書紀に出てくる「東にある国」とのことで、具体的にどの地域にあたるのかははっきりとしないものの、当時の朝廷の権力が及んでいなかった地、事実上は東北地方の北部だと考えられています。「ひたかみ」がいつの間にか「きたかみ」になり、やがて「北上」という当て字がされたといわれています。
水源と考えられている弓弭の泉(ゆはずのいずみ)には伝説があります。前九年の役で源頼義・義家親子が奥州へ進軍し、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと、水がこんこんとわき出し、従う兵士ののどを潤したというものです。
北上川の流れに逆行する形で列車は北上していき、盛岡に到着します。
35番:盛岡
羽二重(はぶたえ)おりと鉄瓶は 市の産物と知られたり 岩手(いわで)の山の峰よりも 南部の馬の名ぞ高き
岩手県・盛岡市の織物とは?
冒頭の「羽二重織(はぶたえおり)」について説明する前に明示しておくべきことがあります。
- 岩手県あるいは盛岡市の工芸品に織物があるのは事実
- ただしその織物は「羽二重織」ではない(可能性が高い)
岩手の織物が確立したのは近世以降のことで、綿織物の「紬(つむぎ)」や毛織物の「ホームスパン」などがあります。その少し前の江戸時代後期には江戸で南部紬や南部縮緬(ちりめん)の名声が高まっていたと、岩手県のウェブサイトに記載があります。この中でも、特にイギリスから伝わった羊毛をつむいで織るホームスパンが、盛岡が主要な産地である織物のようです。
一方、羽二重織とは、たて糸がよこ糸と同じ太さの1本の糸ではなく、たて糸が細い2本の糸になっている織物を指します。昔から存在する織り方でしたが「羽二重織」と呼ばれるようになったのは明治時代以降のようです。
羽二重織の主な産地は福井県、石川県、福島県川俣町、新潟県五泉市、群馬県桐生地方などとなっており、岩手県を産地として紹介している事例は(鉄道唱歌の歌詞を根拠としているケース以外には)見受けられませんでした(「ない」ことの証明は難しいですが……いわゆる悪魔の証明です)。
私事ですが、筆者は2026年8月に福井県へ行ったばかりだったので、この歌詞を見てすぐに「いや、羽二重っていったら福井だろ……」と思いました。
また、前述の岩手県のウェブサイトでは羽二重織について全く言及していないので、当事者である岩手県が、羽二重織を岩手県の織物とはみなしていない可能性が高いと考えられます。
というわけで「羽二重織は盛岡市の産物」という歌詞は、誤りである可能性が高いと筆者は思います。32番に続いて、今回の記事では2つ誤りを指摘することになってしまいましたが、現在のようにインターネットなどを使って短時間でファクトチェックができる時代ではなかったので、ある程度は仕方がないことなのかもしれません。
(もちろん、この記事についても念入りに情報源をチェックしながら執筆していますが、誤りがある可能性は否定できません)
南部鉄器
一方「鉄瓶」は、まず間違いなく「南部鉄器」のことでしょう。
南部鉄器は江戸時代に盛岡藩(南部藩)の保護下で発展した鉄器です。なお、現在の奥州市で発展した鉄器も南部鉄器と呼ばれますが、こちらは仙台藩(伊達藩)の保護下で発展しており、ルーツは異なります。1975年に南部鉄器は伝統的工芸品として国からの指定を受けています。

なお、南部鉄器の「南部」とは、32番で登場した南部氏に由来しています。特に江戸時代の南部氏は、盛岡藩藩主として現在の岩手県や青森県東部などを治めていたので、盛岡は江戸時代の南部氏にとっての本拠地にあたります。また、盛岡藩士の子として盛岡に生まれたのが、国際連盟事務次長や東京女子大学初代学長などを務めた、かの有名な新渡戸稲造(1862-1933)です。
岩手山と南部馬
続いて登場する「岩手山(いわてさん)」は、岩手県北西部にある、標高2,038mを誇る岩手県の最高峰です。岩手富士、南部富士などといった異名をもつことからもわかるように、岩手県のシンボル的な山です。

ただし、歌詞では岩手山よりも「南部の馬の名」の方が高いといっています。南部地方は、古くから馬の産地として栄えていました。甲斐(現:山梨県)からやってきた南部氏が甲斐産の馬と現地の馬を交配して、他の地域の馬を上回る大きな体格の南部馬を生み出したとされています。
江戸時代には盛岡藩内に藩が運営する牧場が複数設置されます。そして血統の管理を徹底して、良馬の流出や他藩の馬の流入を制限したことによって、南部馬のブランドが保たれていったとのことです。
ただし、その南部馬を育てる牧場は主に現在の岩手県北東部の久慈辺りや、青森県にありました。盛岡はあくまで江戸時代に盛岡藩の中心的な都市だっただけで、盛岡が名馬の産地だったわけではないことに注意が必要です。
明治時代に入ると、農耕馬や馬車用の馬、軍馬などとして南部馬の需要は増していきます。特に陸軍では騎兵や輸送のために馬が使われるので、軍馬の生産は国策となり、南部地方は軍馬の一大供給源となるのです。
ただ、軍馬に適した馬へと品種改良するために外国産の馬との交配が進められたので、純血の南部馬は昭和初期頃には絶滅しています。
南部地方と競馬の関わり
馬の生産地だった南部地方の文化には、競馬の発祥との関わりも見受けられます。岩手県における西洋競馬のはじまりは1884年のことで、横浜、東京に次いで全国で3番目となりました。
そして現在も観光地や乳製品の産地として知られている、岩手郡雫石町と滝沢市にまたがる小岩井農場では、戦前はサラブレッドを大々的に生産していました。特に、小岩井農場で生まれて、1941年に日本競馬史上初のクラシック三冠馬となった「セントライト」(1938-1965)の名は、日本競馬の歴史にさん然と輝いています。

その小岩井農場の開設は1891年のことで、東北本線などの鉄道を建設したことによって多くの田畑がつぶされたことに対する代償として、荒れ地を開墾して農場としたという経緯があります。鉄道の建設に伴って生まれた牧場と、南部地方の伝統的な文化とが合わさって、史上初の三冠馬が生まれたことになります。歴史とはさまざまな要素が絡み合って紡ぎあげられていくものなのだと、改めて実感させられます。

36番:好摩、川口(現:岩手川口)、沼宮内(現:いわて沼宮内)、中山(現:奥中山高原)、小鳥谷、一ノ戸(現:一戸)
好摩(こうま)川口沼宮内(ぬまくない) 中山小鳥谷(こずや)一の戸(へ)と すぎゆくままに変(かわ)りゆく 土地の言葉もおもしろや
現在の盛岡-目時は第三セクターのIGRいわて銀河鉄道
盛岡駅から先の路線は、現在はJR東北本線ではなく、IGRいわて銀河鉄道という第三セクターの会社(自治体と民間が共同出資している会社)が運営する路線となっています。従来のJR東北本線は青森駅が終点の路線だったのですが、2002年に東北新幹線が盛岡駅から八戸駅まで延伸開業したときに、東北本線の盛岡駅から八戸駅までは、JRから切り離されて第三セクターに移行したのです。
IGRとは「Iwate Galaxy Railway」のイニシャルをとったものです。「Iwate Ginga Railway」ではありません! 銀河鉄道の由来はもちろん、岩手県出身の宮沢賢治が書いた『銀河鉄道の夜』です。
現在は、盛岡駅から青森県の目時(めとき)駅までがIGRいわて銀河鉄道の路線となっていて、目時駅から青森駅までは「青い森鉄道」という、また別の会社が運営しています。
好摩駅
現在のいわて銀河鉄道線は、盛岡駅を出たあと2~4km程度の間隔で駅が設置されています。しかし、当時は盛岡を出て次の駅は、約21kmも離れた場所にある好摩(こうま)でした。好摩は現在JR花輪線も乗り入れている駅になっているものの、花輪線の開業は1914年なので、当時は東北本線の単独駅です。
盛岡-好摩間にある、当時開業していなかった駅の1つが、1950年に開業した渋民(しぶたみ)駅です。初回の記事の1番では、上野駅の地平ホームに歌人の石川啄木(1886-1912)の歌碑があると述べましたけれども、この渋民駅の付近が啄木の故郷です。2019年からは渋民駅に「啄木のふるさと」という副駅名がつけられています。石川啄木記念館の最寄り駅でもあります。

ただし、渋民駅が開業したのは啄木の没後のことです。生前の啄木が利用していた駅は北隣の好摩駅です。
石川啄木記念館 <Information>
- 名 称:石川啄木記念館
- 住 所:〒028-4132 岩手県盛岡市渋民字渋民9
- 電話番号:019–683-2315
- 開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
- 休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日~1月3日)、施設保守点検等のため臨時休館有
- 公式URL:石川啄木記念館・盛岡市玉山歴史民俗資料館
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川口、沼宮内、中山、小鳥谷、一ノ戸
好摩の後は、川口(かわぐち、現:岩手川口)、沼宮内(ぬまくない、現:いわて沼宮内)、中山(なかやま、現:奥中山高原)、小鳥谷(こずや)、一ノ戸(いちのへ、現:一戸)と進んでいきます。駅名を列挙しているだけとはいえ、好摩から一ノ戸までの当時すでに開業していた駅は省略されず全て登場しています。どうして34番ではこの駅名の列挙すらしなかったのでしょうか……?
平泉駅あたりからずっと東北本線と並行していた北上川とは、現在の駅でいえば御堂(みどう)駅と奥中山高原駅の間でお別れとなります。
青森県に八戸市という市があることは有名だと思いますが、先ほど一戸という駅名が出てきました。この辺りの地名として二戸、三戸、七戸、九戸などもあります。ただし(少なくとも現在の地名には)四戸はありません。
盛岡と一戸の方言は違うのか?
歌詞では駅を列挙した後、変わってゆく土地の言葉が面白いといっています。この発想自体には筆者も同意します。
筆者も若い頃は、青春18きっぷ(JRの普通列車・快速列車などが乗り放題になるきっぷ)を使って長い距離を旅したものでした。鉄道唱歌の時代のような長距離普通列車などもはや存在しないので、何本も何本も列車を乗り継いで移動していきます。
すると、周りの乗客が話す言葉が、その土地の方言に変わっていくのです。筆者は長い距離を移動しているものの、普通列車の乗客は大部分がその列車が走る地元の人たち(もちろん、青春18きっぷが使えるシーズンには、18きっぷの利用者も大勢乗っているでしょうが)なので、乗客が地元の言葉を話すのは当然といえば当然です。しかし、実際に経験してみると、これは新幹線や飛行機の旅では決して得られない体験だと思いました。
とはいえ、盛岡駅から一戸駅まではたかだか約65kmです。盛岡と太平洋沿岸にある宮古のように山で隔てられているというのなら言葉が違うとしても理解できますが、果たして盛岡と一戸でそんなに乗客の話す言葉が変わるものなのでしょうか?
もしかしたら、盛岡は名前通り盛岡藩の領地である一方、一戸は江戸時代中に発足した八戸藩の領地だったりして、それで言葉が違うのかな? と思って調べてみましたが、そんなことはなく一戸町が属する二戸郡も、江戸時代を通じて盛岡藩だったようです。ただし、1869年に陸奥(むつ)国が分割されたときは、盛岡が陸中国となったのに対して、二戸郡は陸奥(りくおう)国となっています。
一応、岩手県の方言区画図によると、盛岡市が「中部方言地区」に属する一方で、二戸郡は「北部方言地区」となっており、異なる区画にはなっています。北部方言は、中部方言の要素を持ちながらも隣接する青森県や秋田県の方言の影響を受けて、3方言が入り混じっているものとされているようです。
とはいえ、中部方言と北部方言は、岩手県の方言同士の中では違いが小さいようです。地元の人でもなければわからない程度の違いではないのかと思います。
あるいは36番の歌詞は、前半と後半で全く別の話をしているのかもしれません。前半はただ駅名を並べただけで、後半では宇都宮、福島や仙台あたりを走っていた頃と比べると、人の話す言葉が変わって面白いなあという意味ということです。後半で歌っているのはまさに、筆者が18きっぷの旅で得たのと同じような感想になります。
という若干強引な解釈をしてみましたが「一の戸と すぎゆくままに」といっているので、やはり前半と後半の歌詞はつながっていると考えるのが自然でしょう。作詞者の大和田建樹の真意が聞きたいところです。
IGRいわて銀河鉄道は青春18きっぷでは乗れません
余談ですが、先ほど筆者は青春18きっぷの旅について言及しました。しかし、盛岡駅から一戸駅、八戸(はちのへ)駅などを経て青森駅までの区間は現在IGRいわて銀河鉄道または青い森鉄道の路線、言い換えるとJR線ではないので、青春18きっぷは一部の例外を除いて使えません。例えば、盛岡から八戸までとか、八戸から三沢までといったような乗車は、青春18きっぷではできないのでご注意ください。
例外というのは青い森鉄道線の八戸-青森の区間を経由して、JR線同士を乗り継いで乗車する場合です。例えばJR八戸線を本八戸駅から八戸駅まで、青い森鉄道線を八戸駅から青森駅まで、JR奥羽本線を青森駅から弘前駅まで乗り継ぐケースでは、青春18きっぷが利用できます。ただし、青い森鉄道線では八戸、野辺地(のへじ)、青森以外の駅で途中下車はできません。
いよいよ本州最北の青森県へ
一ノ戸駅の先でも結構岩手県内を走るし、現在の二戸(にのへ)駅にあたる福岡(ふくおか)という駅もありました。しかし登場せず、37番の歌詞はいきなり青森県内のことを歌う内容で始まります。
今回はここまでです。
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