
東部なのに「南部地方」!? この「南部」は人名です【青森県】
青森県では「南部地方」という表現をすることがあります。この南部地方というのは「青森県の南の方」という意味ではありません(八戸市などの青森県の南の方にある地域を含んではいますが)。青森県の東部のエリアを指します。
南部地方という名前の由来自体は極めてシンプルです。この「南部」とは、南の方という意味ではなく、人の名字なのです。
青森県の南部地方とは?
青森県の南部地方とは、青森県東部を指す呼称です。
南部地方の西端となる市町村は、北から順に上北郡の野辺地町、東北町、七戸町、十和田市です。これより西は津軽地方と呼ばれます。また、下北半島にあるむつ市と下北郡の町村(大間町、東通村、風間浦村、佐井村)は「下北地方」として区別し、南部地方に含まない場合があります。
青森県の県庁所在地かつ人口が最大の都市の青森市は、南部地方には含まれておりません。南部地方の中心都市は青森県内で人口2位の八戸市といえるのが実態です。
2002年に廃止された「南部縦貫鉄道線」や1968年に廃止された「南部鉄道線」、八戸市などで運行されている「南部バス」のように、南部地方にちなんだ言葉も存在します。

その南部地方という名前は、江戸時代に大名の南部氏が治めていた地方であったことに由来しています。
岩手県・秋田県にも「南部地方」が存在するもののあまり呼ばれない?
江戸時代に南部氏が統治していた領域は、現在の青森県東部だけではありません。岩手県の中部・北部と秋田県の一部(現在の鹿角市、鹿角郡小坂町あたり)も所領としていました。そもそも江戸時代初期に南部氏が本拠地としていたのは盛岡で、藩の名前も盛岡藩といいました。これらの地域も、本来は「南部地方」に含まれます。
しかし、岩手県では青森県と比べると、かつての南部氏の所領だった地方を「南部地方」と表現することはあまりしないようです。岩手県では県内を「県北」「県央(または盛岡)」「県南」「沿岸」の4つのエリアにわけることが一般的となっています。
ただし、岩手県で生産されている「南部鉄器」や、青森県南部地方と岩手県県北地方の双方で食べられている「南部せんべい」のように、岩手県の中部や北部を「南部」と呼ぶ事例が皆無ということはありません。


南部氏の歴史
青森県東部の地方名の由来となった南部氏はどこから来て、どのように青森県などの東北地方に根付いたのでしょうか?
南部氏の発祥の地は現在の山梨県

南部氏を興したのは、平安時代後期の永万元年(1165年)に誕生した、甲斐源氏一族の出身である南部光行(なんぶ・みつゆき)とされています。甲斐国南部領を領有していたことから、南部氏を名乗り始めたのです。
甲斐源氏とは、平安時代後期に現在の秋田県で発生した後三年の役(後三年合戦)などの戦いに参戦した源頼義の、三男・源義光の子孫にあたります。甲斐源氏の一族として有名なのは戦国時代の大名・武将の武田信玄で、南部氏の先祖は武田信玄と同じということになります。
甲斐国南部領は現在の山梨県南巨摩郡(みなみこまぐん)南部町(なんぶちょう)にあたります。現在の青森県の「東部なのに南部」問題は、東北地方ですらない場所の地名が発端となったのです。
余談ですが、山梨県の南部町は、実際に山梨県(甲斐国)の最南端にあります。
南部氏は奥州へ
南部光行は、源頼朝に協力して、源氏が平氏を討伐した後の奥州藤原氏の征伐でも戦功をあげたことにより、奥州(東北地方)の所領を与えられたというのが通説となっています。しかし、これが事実であるのか、事実だとしても具体的にどこからどこまでを与えられたのかははっきりとしていないようです。
南部氏が奥州に勢力圏を築いていたことが確実視されているのは、およそ150年後の鎌倉時代末期とされています。光行の玄孫(孫の孫)で、建武元年(1334年)に根城(ねじょう、現:青森県八戸市)を築城した南部師行(もろゆき)が、実際に奥州を拠点にしていたと考えられる人物の一例です。

戦国時代に勢力を拡大

不明 – 『戦国時代展』江戸東京博物館 もりおか歴史文化館所蔵, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=54919960による
南北朝時代以降、南部氏は奥州で大きく勢力を拡大していきます。特に戦国時代の永正14年(1517年)に誕生して三戸城(現:青森県三戸郡三戸町)を主な拠点とした南部晴政(はるまさ)は、周辺勢力を圧倒して領地を広げます。その領地は現在の岩手県・青森県全土と秋田県の北東部にまで及ぶのです。
南部氏の領地の広さを表す表現として「三日月の円くなるまで南部領」という川柳があります。月が三日月である頃に南部領に入っても、領地を出るころには満月になっている、つまり南部氏の領地を歩いて横切るのには12日程度もかかるほど広いということを表しているのです。
津軽地方を反乱で失う
所領を拡大していた南部氏でしたが、南部氏の勢力は三戸南部氏や根城南部氏の他にも、八戸氏、九戸氏、新田氏など多くの一族から成り立っていました。一族は時には協力し時には反発しあうなど、南部氏の勢力は一枚岩ではありませんでした。
当主の南部晴政についても長らく男児が生まれておらず、いとこにあたる信直(のぶなお)を後継ぎと定めていました。しかし、待望の実子が生まれた(このとき晴政は54歳でした)ため、晴政は信直を疎ましく思うようになっていきます。
そのような時期の元亀2年(1571年)に南部氏の一族といわれるている大浦為信(おおうら・ためのぶ)が津軽地方で反乱を起こします。為信は、晴政が信直と対立していることにつけこみ、周辺の豪族を次々に滅ぼし、一大勢力を築いたのです。
なお、その後も晴政と信直の対立は続き、互いに相手を襲撃しあうなどの実力行使にまで及びます。最終的には晴政と、子の晴継(はるつぐ)が相次いで死去したため、信直が後を継ぎます。晴継はわずか13歳であり、当然のことながら晴継は(あるいは晴政と晴継の両方が)信直の手によって暗殺されたものと疑われています。
さて、為信が切り取った所領は、天正17年(1589年)に、天下をほぼ手中に収めていた豊臣秀吉によって安堵されます。為信が津軽地方を領有することが天下人によって公認されたのです。また、名字を大浦から津軽に改め、津軽為信を名乗ります。
為信への所領安堵はもちろん、南部氏が津軽地方を失陥することが確定的になったことを同時に意味します。津軽地方は江戸時代を通じて、弘前藩主となった津軽氏によって治められます。青森県の西部は津軽地方、東部は南部地方という現在の切り分けにまでつながっていくのです。
もしも大浦為信が反乱を起こしていなければ、現在の青森県全土にあたる地域が南部氏の所領のままだった可能性が高いでしょう。そうなっていれば、仮に明治時代に現在の形で青森県が成立していたとしても、全土が南部氏の所領だったのだから青森県の一部を指して南部地方という表現が生まれることはありえません。青森県東部を指す言葉は、現実とは全く違うものになっていたはずです。
江戸時代の南部氏
一族での争いが絶えなかった南部氏では、江戸時代にも分裂が起きます。
江戸時代の南部氏は、本拠地を三戸から盛岡に移し、南部氏の所領は盛岡藩となります。
しかし、後に幕府の裁定により、盛岡藩から八戸藩が独立します。なお、八戸藩とはいうものの、領地の大部分は現在岩手県になっています。
八戸藩の初代藩主は盛岡藩主の一門でしたが、盛岡藩の支藩ではなく完全な独立です。このような幕府の裁定を逆恨みした盛岡藩士が、八戸藩主を暗殺する事件まで起きたと伝わっています。
こういった経緯があり、共に南部氏が藩主を務める藩でありながら、盛岡藩と八戸藩は独自に歩んでいきます。明治時代の戊辰戦争のときにも、両藩の対応はわかれています。盛岡藩は旧幕府に味方して戦後領地を没収され、白石(現:宮城県白石市)に移されます。
一方、八戸藩は参戦せず領地を安堵(廃藩置県までの3年間だけですが)されたのです。
このように両者が独立して歩んできたことが、現在「南部地方」といえば一般的には青森県東部を指し、岩手県は含まれないことにつながっているのかもしれません(あくまで筆者の推測です)。
津軽と南部の確執
津軽地方を津軽氏が手中に収めた経緯が南部氏からの反乱によるものだったためか、津軽氏の治める弘前藩と、南部氏の治める盛岡藩は、江戸時代を通じて犬猿の仲だったとされています。
江戸時代中期には津軽から南部に侵入してヒノキを伐採した人が南部側によって殺害される檜山騒動が起きたと伝わっています。
後期には盛岡藩士が弘前藩主を襲撃しようとした相馬大作事件という事件も発生します。
戊辰戦争のときには、津軽藩は早くから新政府に恭順し、後日新政府に降伏したはずの盛岡藩を攻撃する「野辺地戦争」を起こしています。
津軽と南部は気候が違い、山脈によって人の往来が分断されており、このように仲も悪かったとされています。それにもかかわらず、明治時代には旧・弘前藩と旧・八戸藩などが合併するような形で青森県が成立します。
明治4年(1871年)の廃藩置県の際、現在の青森県域には江戸時代の弘前、黒石、八戸などの各藩からそのまま移行する形で県が設置されたものの、すぐに合併されて弘前県として統一されます。
江戸時代の津軽と南部の確執を無視して合併が成立した背景には、弘前藩が早期に新政府に恭順していたために政府からの覚えがよかったこと、弘前県の経済力が他の県よりもはるかに大きく、なりふり構わず弘前県に合併するしかない状況だったことなどが言及されています。
弘前県の県庁は弘前に設置されていたものの、青森に移され、県名も青森県に改称されます。
青森は当時、規模の小さい港町に過ぎませんでしたが、県の中央に位置することや、港の将来性が期待されていたことなどから、県庁がここに移転されたのです。思惑通りというべきか、青森は弘前や八戸を上回る、青森県最大の都市に成長していきます。
こうしてかつての津軽氏の所領と南部氏の所領の一部が1つの県となったものの、南部氏の名は、青森県のエリアの区分という形で今も残っているのです。
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