【秋田県横手市】横手盆地で繰り広げられた骨肉の争い「後三年合戦」

横手市(よこてし)のある横手盆地は、秋田県東南部に位置し、東側は岩手県と接しています。平安時代は清原(きよはら)氏の支配下にあり、「後三年合戦」の地として知られています。江戸時代には久保田藩(秋田藩)の領地で、奥州街道から分岐し秋田、青森を結ぶ羽州街道などの街道の交差点であったことから横手城に久保田藩の重臣が配置され、藩南部地域の政治経済の中心として栄えました。地理的に横手盆地の中心に位置する浅舞や増田もまた、流通の拠点として栄えていました。


奥六郷を治めていた安倍氏を打ち負かし、陸奥国の将軍に上り詰めた清原氏

平安時代、もともと地方役人であったといわれる清原氏は「大鳥井柵(おおとりいのさく)」(国指定史跡)や「金沢柵」(かねざわのさく)、「沼柵(ぬまのさく)」などいくつかの城柵(じょうさく/砦と行政の機能を併せ持つ施設)を設け、地域を統治するとともに、隣接する陸奥の安倍氏(あべし)と婚姻関係を結ぶなどしていました。

安倍氏は、岩手県側の奥六郡(おくろくぐん)といわれた、現在の奥州市から盛岡市にかけての地域を支配エリアとしていた豪族ですが、北方諸産物の利権を支配しようとする朝廷との軋轢が生じるようになります。双方の対立により徴税を巡って争いが生じるなどしたため、朝廷は源頼義(みなもとのよりよし)を陸奥国(むつのくに/岩手県青森県など)に送り、安倍氏征伐を始めます。しかし、自らの領地で戦う安倍氏の力は強く、うまくいきませんでした。

そこで頼義は、出羽国(でわのくに/東北地方の日本海側エリア)の有力豪族である清原氏に助けを求め、なんとか安倍氏討伐に成功します。これが1051年~62年にかけて勃発した「前九年合戦」(ぜんくねんかっせん)であり、この結果、清原氏は安倍氏の支配地域である奥六郡を手に入れ、軍部である陸奥国鎮守府(むつのくにちんじゅふ)将軍の地位を得ました。


複雑な血縁関係故に、強烈な内輪もめが勃発

勢力を伸ばした清原氏でしたが、血縁関係が複雑なうえに、その時の陸奥国の国司(長官)であり、源頼義の子である源義家(よしいえ)がからみ、複雑な覇権争いが始まります。

まずは「前九年合戦」で大活躍をした清原武則(たけのり)の子武貞(たけさだ)が、安倍側で戦死した藤原経清(ふじわらのつねきよ)の未亡人を婦人として迎え入れます。夫人には男子の清衡(きよひら)がいて、その子も清原氏に迎え入れられました。

藤原清衡。「大日本六十余将」より 画:芳虎 所蔵:大英博物館

清衡が清原氏に引き取られたときに、武貞には既に長男真衡(さねひら)がおり、その後清衡の母との間に家衡(いえひら)が生まれます。父母の血縁が複雑な3人の兄弟でした。

武貞の後を継いだのは長兄の真衡で、当初は平穏に統治されていましたが、真衡が決めた跡継ぎなどについて清衡と家衡は反発するようになりました。永保3年(1083年)、真衡が出羽に遠征中、清衡と家衡が真衡の館を襲います。これが「後三年合戦」の始まりでした。

この時は真衡に源義家が加勢し、ことは収まったかに見えたのですが、真衡は再度の遠征中に急死。義家の裁定により清原氏の領地は、豊穣な南の土地が清衡に、痩せた北の土地が家衡へ分け与えられました。


清原氏の内紛と奥州藤原氏の誕生

後三年合戦絵巻(写本)より 所蔵:東京富士美術館

領地の裁定に不満を持つ家衡は、清衡を殺害しようとします。妻子を殺された清衡は義家のもとに逃げ、家衡側には父武貞の弟、武衡(たけひら)が加わり、清衡・義家対家衡・武衡という構図ができあがりました。

沼柵(横手市雄物川)における戦闘などを経て、寛治元年(1087年)、防御に優れた金沢柵(横手市金沢)に陣を取った家衡・武衡軍でしたが、清衡・義家軍の兵糧攻めによって家衡・武衡軍は敗れ、「後三年合戦」は終結を迎えました。

この話には後日談があります。朝廷からの指令がないままに清原家の内紛に介入した源義家は、朝廷から陸奥守を罷免されてしまいます。ただ、命懸けで戦った郎党に対して、私財を投げうって報償を与えた源義家は、大いに名を上げることとなり、後の武家社会成立の一因になったと考えられています。

また、清原氏と安倍氏の両方の血を引く清衡ただ一人が生き残ったものの、しばらくは朝廷から危険人物としてマークされます。その後、清衡は姓を清原から実父の姓である藤原に改め、懸命な復権活動を経て、東北地方一円を支配域とした奥州藤原氏として、以後約100年にわたる平泉黄金文化のいしづえを築いていきました。


清原氏の本拠地だった「大鳥井山遺跡」

大鳥井山遺跡(二重の土塁と堀) ©横手市

「大鳥井柵(おおとりいのさく)」は、清原氏の当主清原光頼(きよはらのみつより/武則の兄)とその子頼遠(よりとお/大鳥山太郎頼遠)の本拠地です。横手盆地の中部東縁、現在の横手市役所から北東約2kmのところに位置し、大鳥井山、小吉山(こきちやま)、台処館(だいどころだて)といわれる3か所の丘陵上に造営されています。麓には旧羽州街道がはしり、交通の便が良く、三方を川に囲まれているという立地で、防御性にも優れていました。

清原氏の城柵は、場所の確定がなかなかできない中、「大鳥井柵」は平安時代後期の軍記物語『陸奥話記(むつわき)』に登場するとともに、発掘調査で前九年合戦・後三年合戦と同時代のものと考えられる居館跡や出土品が多数発掘されています。また、その後の研究成果もあり、この場所が「大鳥井柵」跡地として確定されました。

大鳥井山遺跡<INFORMATON>

  • 大鳥井山遺跡(大鳥公園)
  • 所在地:秋田県横手市大鳥町、新坂町
  • 電話番号:0182-32-2403(横手市教育委員会教育総務部文化財保護課埋蔵文化財係)
  • 散策自由
  • アクセス:
  • 鉄道/JR奥羽本線横手駅から路線バスで新坂バス停下車、徒歩で約7分、横手駅から徒歩で約35分
  • 車/秋田自動車道・東北中央自動車道横手ICから約10分

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清衡・義家連合軍が破ることができなかった強固な柵城「沼柵」

沼棚の推定地に建つ蔵光院 ©横手市

「沼柵」は、横手盆地の西縁を流れる雄物川(おものがわ)沿いの地、沼館にあった城柵で、後三年合戦の際に家衡が一時立てこもりました。「沼柵」は非常に強固な砦で、清衡・義家連合軍の執拗な攻撃にも耐え、反対に連合軍は寒さと飢えのため撤退せざるを得ない状況に追い込まれてしまいます。

沼館には、中世に小野寺氏が拠点とした沼館城という城跡が残っており、ここが「沼柵」のあった場所と考える説が有力になっていますが、まだ特定には至っていません。

沼柵跡<INFORMATON>

  • 施設名称:沼柵跡
  • 所在地:秋田県横手市雄物川町沼館字沼館429 蔵光院周辺
  • 電話番号:0182-32-2403(横手市教育委員会教育総務部文化財保護課)
  • ※寺院の敷地であり、外縁部のみ見学可
  • アクセス:
  • 鉄道/JR奥羽本線横手駅からタクシーで約30分
  • 車/秋田自動車道・東北中央自動車道横手ICから約20分

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後三年合戦最大の激戦地「金沢柵」

金沢柵の推定地「金沢公園」©横手市

「金沢柵」は、「後三年合戦」最大の激戦となった場所です。家衡・武衡軍は、「沼柵」から移動してここに立てこもり、最後は清衡・義家軍による兵糧攻めに耐えられず陥落しました。後に「後三年合戦」を描いた絵巻『後三年合戦絵詞』(ごさんねんかっせんえことば/国指定重要文化財)には、「金沢柵」から逃げ出してきた女性やこどもを義家が皆殺しにしたという、残酷な話も描かれています。

金沢城は、横手市中心部から北にある金沢地区の小高い丘にあり、「後三年合戦」から370年ほど後の足利時代末期に登場する中世の城ですが、本丸跡、二の丸跡、北の丸跡、堀などが発掘されています。その立地が『後三年合戦絵詞』に記述されている金沢柵に似ており、古くから金沢柵の跡地と考えられてきました。長年にわたる横手市教育委員会による発掘調査では、後三年合戦前後の時代の遺物が発見されていますが、「金沢柵」と特定されるには至っていません。発掘調査はまだ続けられていますので、今後の成果に期待がかかります。

国の史跡に指定されている陣館遺跡 ©横手市

金沢城跡から旧羽州街道を挟んだ反対側にある丘の上には、金沢柵跡の手掛かりとなる「陣館(じんだて)遺跡」があります。「陣館遺跡」は、「大鳥井山遺跡」と同様の立地で、後三年合戦と同時期の建物跡や遺物も出土しているのですが、こちらも確証が得られていません。しかし、清原氏に関する遺跡であることは間違いなく、「大鳥井山遺跡」の関連遺跡として国の史跡に指定されました。

金沢柵跡・陣館遺跡<INFORMATON>

  • 施設名称:金沢柵跡・陣館遺跡
  • 所在地:秋田県横手市金沢地区
  • 電話番号:0182-32-2403(横手市教育委員会教育総務部文化財保護課)
  • 金沢公園は散策自由、陣館遺跡は私有地なので立入不可
  • アクセス:
  • 鉄道/JR奥羽本線横手駅から大曲方面行き路線バスで約20分、金沢本町バス停下車徒歩約5分(後三年合戦金沢資料館)
  • 車/秋田自動車道・東北中央自動車道横手ICから約20分

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後三年合戦金沢資料館

後三年合戦金沢資料館 ©横手市

「後三年合戦金沢資料館」は、「後三年合戦」に関する『後三年合戦絵詞』の写本、秋田県指定文化財の経筒、遺跡調査時の発掘品、金澤八幡宮の宝物などさまざまな資料を展示する施設です。近くには金沢柵推定地のひとつ金沢城跡があります。

大鳥井山遺跡<INFORMATON>

  • 施設名称:後三年合戦金沢資料館
  • 所在地:横手市金沢中野字根小屋102-4
  • 電話番号:0182-37-3510
  • 開館時間:9:00~17:00
  • 休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、12月29日~1月3日
  • 入館料:高校生以上 100円、中学生以下無料(後三年合戦金沢資料館・かまくら館・
  • 石坂洋次郎文学記念館・横手公園展望台の4館共通))
  • アクセス:
  • 鉄道/JR奥羽本線横手駅から大曲方面行き路線バスで約20分、金沢本町バス停下車徒歩約5分(後三年合戦金沢資料館)
  • 車/秋田自動車道・東北中央自動車道横手ICから約20分
  • URL:後三年合戦金沢資料館

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“雁行の乱れ”の地に整備された「平安の風わたる公園」

雁行の乱れ 「後三年軍記」より 所蔵:東京国立博物館

「後三年合戦」の有名な“雁行(がんこう)の乱れ”は、雁が飛ぶ様子が戦いの勝敗を決めたという戦いです。

家衡は、西から金沢柵に向かってくる源義家軍を迎え撃つには格好の沼地だった西沼(横手市金沢中野)あたりに軍勢30名ほどを配置し潜ませていました。それとは知らず進軍してきた義家軍に奇襲をかけようと兵士たちが動きを見せたところ、上空の雁の群れが隊列を乱したのです。義家はそれを見て誰かいると察知し、奇襲は失敗してしまいました。

平安の風わたる公園  ©横手市

古戦場として伝わる西沼には「平安の風わたる公園」が整備され、往時を偲ぶことができます。

大鳥井山遺跡<INFORMATON>

  • 施設名称:平安の風わたる公園
  • 所在地:横手市金沢中野字三貫堰地内
  • 電話番号:0182-32-2725(横手市横手地域局横手地域課)
  • 散策無料/冬季閉鎖
  • アクセス:
  • 鉄道/JR奥羽本線横手駅から大曲方面行き路線バスで約30分、三貫堰バス停下車
  • 車/秋田自動車道横手北スマートICから約10分
  • URL:平安の風わたる公園

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後三年合戦を後世に伝えた軍事絵巻物「後三年合戦絵詞」

「後三年合戦絵詞」原本より(国指定重要文化財) 所蔵:国立国会図書館

「後三年合戦絵詞」は、前文や各巻の奥書きにより1347年に制作されたもので、全ての絵を飛騨守維久(ひだのかみこれひさ)が描き、詞書は各巻ごとに異なる能筆家が書いたことが知られています。この絵巻によって、後三年合戦の概要が後世に伝わることとなりました。本来は全6巻あったようですが、現存するのは後半の3巻、ほぼ金沢柵の戦いの場面によって構成されています。

『後三年合戦絵詞』は、国の重要文化財に指定されていて、東京国立博物館に所蔵されています。その全体は、デジタルアーカイブ東京国立博物館ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)において公開されていて、パソコンやスマホなどで自由に閲覧できます。

また、『奥州後三年絵詞』には写本も多く存在し、「後三年合戦金沢資料館」や「東京富士美術館」などで展示されています。




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