
【中編】伊達家の「食」戦略! 受け継がれる政宗のおもてなし精神|驕りへの戒めと将軍への全力接待
目次
伊達家は日常食も豪華だった?
前項では仙台伊達家の絢爛な正月料理の例を見てきましたが、では日常生活でも贅を凝らした食事をとっていたのでしょうか。
結論からいうと、大名といえども普段の食卓は意外なほどつましいケースが珍しくなく、仙台藩初代藩主となった政宗もそうでした。
グルメのイメージが強調される昨今ですが、戦国武将としてだけではなく一人の茶人として食に向き合った側面も印象的です。そうした姿勢において、食材と食に関わる人々への感謝を忘れなかったことをうかがえます。
そんな政宗の人柄を示すエピソードを、以下に2つご紹介します。
戦陣での「食べたいもの」談義

政宗と食べものに関する、こんな話も伝わっています。
慶長18年(1613年)、政宗の五男・卯松丸(伊達宗綱)の元服式が古参の腹心・茂庭(鬼庭)綱元の屋敷で執り行われました。
しかし翌日、政宗は茂庭屋敷で出された料理について不満を述べます。それは大豆飯・芋の子汁・焼いた生鰯という素朴な献立でした。
しかしこれこそ、およそ三十年前の戦の折に、まだ二十歳前だった政宗が「平和な世が訪れたら腹一杯食べたい」と綱元に語ったメニューだったのです。
綱元は家臣として、政宗の初心を思い起こさせることを願う意味でもあえてこうした料理でもてなしたのでした。
自身の驕りを恥じた政宗は、深く綱元に詫びたといいます。
上記のメニューは一見質素ともいえるもので、東北に覇を唱えた壮年期の政宗にとっては物足りなかったことでしょう。
しかし戦国の世においては必ずしもそうではなく、大豆飯の大豆は軍馬の重要な飼料であったことからあまり人の口には入らなかったともいわれています。
芋の子の汁にしても、当時戦陣で口にできる汁物といえば塩か糠味噌で調味されたものも多く、本式の味噌汁は贅沢なご馳走でした。

それに生の鰯というのも、内陸部の米沢で生まれ育ち塩蔵品や乾物が当たり前だった青年期の政宗にとっては大いなる美味だったのです。
こうした食にまつわるさまざまな体験と自省は、政宗に始まる仙台伊達家の重要な教えとして継承されていったのでした。
伊達政宗はほんとうに「料理男子」だった?

近年では、伊達政宗を「戦国時代の料理男子」と位置付けての記事や論調をよく目にするようになりました。
一つには政宗が料理に非常な関心を示したことが古記録からうかがえたり、宮城県伝統の料理や食材の中には政宗がその開発者であると伝わるものがあったりすることが由来であると考えられます。
もう一つは、政宗が徳川秀忠・家光といった将軍をもてなし、献立の考案や配膳まで自身で行ったと伝えられることも大きいでしょう。
さらには毎朝その日の食事の献立を考えていたなど、料理への関心の高さをうかがわせるエピソードが散見されるためです。
たしかにこうした事績を見ると戦国の料理男子なる二つ名も文字通り伊達ではなさそうですが、政宗を単純に現代的な意味におけるグルメや食通といった位置付けで理解しようとするには注意が必要かもしれません。
それというのも、伊達家に限らず戦国武将にとって食事や料理は兵糧および食卓外交に直結する、いわば軍事の一部でもあったためです。
したがって発祥に政宗が関わっているとの言い伝えもあるいくつかの郷土料理には、戦陣と深く結びついたものが認められます。

また、政宗は「千利休最後の弟子」とも称される、当代一流の茶人の一人でもありました。
よく知られるように茶の道は単に抹茶を点ててもてなすだけではなく、そのための道具・建築・美術品などを総合的にプロデュースする空間演出の妙術でもあります。
当然ながら菓子や懐石料理といった食べものにも細心の気を配るため、自然と料理にも関心を向けざるを得ない取り組みといえるでしょう。
そのため、政宗も料理好きが高じてというよりは、茶人としての亭主たる振る舞いが念頭にあったのではないかとも思わせます。
そうした繊細かつ広範な気遣いは、武将としてあるいは一国一城の主として、政治・軍事の両面で人心を掴むヒントになったのではないでしょうか。
政宗の食卓外交? 徳川将軍家への接待
料理が外交の場でもその力を発揮し、交渉事がスムーズに運んだり軍事的な緊張感を和らげたりといったことは、けっして絵空事ではありません。
名実ともに東北の覇者となった伊達政宗の勢力は、初期の徳川幕府にとってゆめゆめ警戒を怠ることのできない脅威の一つでした。
実際に天下を狙えると評されたとも伝わる政宗でしたが、しかしついぞ徳川に弓を引くことはありませんでした。
それでも緊張状態は長く続いたことがうかがえ、以下のような話が残されています。
政宗による徳川秀忠へのおもてなし

寛永5年(1628年)、二代将軍職を退いて大御所となっていた徳川秀忠を、政宗は江戸の仙台屋敷へと招いて饗応を行いました。折しも戦国を生き延びてきたいくつかの外様大名が改易や取り潰しとなり、徳川による統治体制がより強力さを増していった時期のことです。
もちろん秀忠の歓心を買うということもポイントだったでしょうが、もてなしによって真心を伝えることは強力な外様大名である伊達家の忠誠心や敬意を表す重要な外交的プレゼンだったともいえるでしょう。
政宗はメニューの考案や調理にまで携わったともいわれますが、特筆すべきはそれらの料理を自らの手で秀忠に配膳したということです。
しかしこの時、秀忠の側近が「毒見がまだである」という理由でこれを阻もうとします。
前・将軍で大御所の秀忠であることからある意味では当然の措置ですが、政宗へのあからさまな警戒という本音が出たシーンともいえるでしょう。
これを聞いた政宗は「十年前なら戦場で雌雄を決するのもいざ知らず、毒を盛ろうなどと思うはずもない」と激怒しました。
つまりは「見くびるな」と怒りをもって伝えることで、自身の赤心を示す結果につなげた出来事といえるでしょう。
この騒動を聞きつけた秀忠はかえって政宗の忠誠心に感じ入ったといいます。
もしかするとこれは、けっして叛意の無いことを武人らしさによって逆説的に印象付ける、政宗一流のパフォーマンスだったのかもしれませんね。
政宗を「親父どの」と呼んで慕った三代将軍・徳川家光

政宗は三代将軍の徳川家光も、自ら献立を考案して調理した料理で饗応しています。
家光は政宗のことを「伊達の親父どの」と呼ぶほどに慕っていたといわれ、政宗もこの思いによく応えました。
初代・家康を深く畏敬していたとされる家光は実戦を知らない初めての徳川将軍であり、歴戦の武将たちから戦陣の話を聞くことを楽しみにしていたといいます。
政宗は家光をもてなすために54種類にもおよぶ料理を用意したと伝わり、食材として格式の高い「鶴(つる)」を用いるなどの心尽くしを行いました。
鶴というと現在では禁猟のため食材としてのイメージは希薄ですが、古い日本料理の中で鳥肉としては最高位の格とされていたのです。
鶴とはいってもタンチョウヅルではなく、羽毛が灰色の「ナベヅル」や「マナヅル」が美味であるとされ食材に用いられました。


ちなみに当初の徳川家では鷹狩が盛んに行われたものの一時衰退し、九代・家重の時代には復活して「鶴御成(つるおなり)」という行事が挙行されるようになりました。
これは将軍専用の狩場で育てた鶴を鷹によって狩り、塩蔵して朝廷へと献上するというものです。
調理法としては吸い物などにすることが多かったようですが、貴人に差し上げる特別な食材として珍重されたことがうかがえます。
また、鶴の肉は非常に高額ながら一般にも流通していたことが分かっており、17世紀終わりごろから18世紀初めの元禄時代には歌舞伎役者の「坂田藤十郎」が銀10枚を払って鶴一羽を贖った記録が残されています。
【参考】徳川頼宣による、徳川秀忠へのおもてなし料理
政宗が秀忠・家光という主を手厚くもてなしたことはこれまでに見てきた通りですが、その料理のレベルはどれほどの高みであったのでしょうか。
そこで、寛永元年(1624年)の1月23日に、初代紀州藩主・徳川頼宣が実の兄である大御所・徳川秀忠を江戸城北側の竹橋屋敷でもてなした際の献立を参考に見てみましょう。
二人の間には23歳もの年齢差がありますが、いずれも徳川家康の実子でありその饗応料理は当代最高レベルのものが用意されたことは想像に難くありません。

なお、これらは一度に食べるものではなく、間に能や狂言の上演や酒席を挟んで長時間にわたって楽しむ本式の饗応です。
以下に当時の料理を書き出してみました。
徳川頼宣による徳川秀忠への饗応料理
〈本膳〉
- 飯
- 鶴と土筆(つくし)の汁
- 酒漬の鶴
- 鮑
- 鯛
- 栗生薑(くりしょうが)
- 縒(よ)り鰹
- 昆布と椎茸煮染
- 蜜柑
〈二の膳〉
- 鱁鮧(うるか:鮎の塩辛)の和え物
- 鳧(けり)の焼物
- 平貝
- 切蒲鉾
〈肴〉
- 海鼠腸(このわた)
- 金飩(きんとん)
- 水栗
- 御楊枝
- 豆の子
- 黒胡麻
- 山芋煮染
- 砂糖
〈初献〉
- 亀足の鳥(焼き鳥の紙巻き)
- 雑煮
- 餅
- 荒布(あらめ)
- 鯣(するめ)
- 菜
- 鰹
- 芋一重
- 餅五切
- 小串鮑
- 平鰹
〈二献〉
- 塩引き
- 鰭のものなど五種
〈三献〉
- 鱲子(からすみ)
- 鯣など三種
【祝賀の能七番】
【狂言一番】
〈本膳〉
- 湯漬け
- 塩引き
- 蛸
- 蒲鉾
- 和交(あえまぜ)
- 桶
- 含め鯛
- 香の物
〈二の膳〉
- 集汁(あつめじる)
- 鯉の汁
- 巻鯣(まきするめ)
- 削(そ)ぎ物
- 貝盛
- 鱲子(からすみ)
- 海月(くらげ)
〈三の膳〉
- 白鳥などの汁二品
- 羽盛
- 船盛
- 鰭(ひれ)の物
- 桜煎(薄切りタコのやわらか煮)
- 福良煮(アワビの煮もの)の吸い物
〈菓子〉
- 焼き麩
- 饅頭
- 姫胡桃
- 蜜柑
- 羊羹
- 豆飴
- 御楊枝
- 結び昆布
- 柿
- 榧(かや)
- 千鳥
〈本膳(引き替えの御膳)〉
- 飯
- 鶴の汁
- かき合え鯛
- 縒り鰹
- 生椎茸
- 独活(うど)
- 香の物
- 鱁鮧(うるか)の和え物
〈二の膳(引き替えの御膳)〉
- 汁
- 鮒の生馴れ鮓
- 煎鳥
- 萵苣(ちさ:サニーレタスに似た葉物野菜)
- 塩鯛
- 焼き鱒
〈三の膳(引き替えの御膳)〉
- 汁
- 焼き小鯛
- 白魚と昆布
- 韮の和え物
〈引き物〉
- 雲雀の煎鳥
- 烏賊の塩刺
- 煎子
- 牡蠣の吸い物
〈菓子〉
- 肥後蜜柑
- 枝柿
ずらりと並んだ上記料理の数々には、現代では味を想像しにくいものもありますが、やはり鶴の肉が使われていたり、伊達家の料理にも通じる食材が散見されたりします。
このことから、いかに政宗が秀忠や家光をハイレベルにもてなしたかの一端を垣間見ることができるのではないでしょうか。




















