古流武術(青森・岩手編)

【青森・岩手編】東北六県の貴重な古流武術! 今も伝承される特殊な技の数々とは?

武士の本分が戦うことにあったのは自明の理で、それゆえに歴史上数多くの武術が工夫研鑽されてきました。

古くは武芸全般のことを「弓馬の道」と呼んだように弓矢と乗馬は必須の技術で、さらにさまざまな白兵戦・格闘戦の心得も必要とされたのです。

俗に「武芸十八般」と表現されるように多岐にわたる戦闘技術が体系化され、有名なところでは剣術や柔術をはじめとして槍術・薙刀術・棒術など武器から徒手まであらゆる間合いでの武術が生み出されてきました。

一般的には明治以前に成立したこれらの武術を「古武道」と総称しており、幕藩体制の時代には各藩で多くの武術が教授され、武士たちを中心にその稽古が行われてきた記録が残っています。

そしてそれらの古流武術の中には今なお脈々と伝承され、現代でも実際に演武を見ることができる流派も少なくありません。

本記事ではそんな古武道のうち、東北六県に伝えられた特に貴重な流派について紹介したいと思います。


青森県】伝説の剣豪・塚原卜伝の名を冠する「卜傳流剣術」

青森県からは弘前藩で伝承された「卜傳流剣術(ぼくでんりゅうけんじゅつ)」をご紹介します。

この流派名からもわかる通り、流祖は戦国時代の伝説的な剣豪である「塚原卜伝(卜傳)」です。

武神を祀る鹿島神宮の神官家に生まれた卜伝は家伝の古流剣術「鹿島神流」や養父家に伝わった「香取神道流」を学び、やがて自身の流派「鹿島新當流」を開きました。そのため卜傳流は鹿島新當流の別名としても知られ、弘前以外にもさまざまな地域へと伝わっていきました。

ただし本稿での弘前藩伝の卜傳流は鹿島新當流とは異なる内容で、塚原卜伝の門弟の一人であった「師岡一羽」が編み出した「一羽流」の系譜を引く術技であるといわれています。

戦国の介者剣術と平服での素肌剣術、両者のハイブリッドスタイル

卜傳流の技術上の特徴としては、戦国期までの甲冑着用を想定した戦いと、江戸期以降の平服での白兵戦との両方のスタイルを併せ持つ点にあります。

前者の甲冑を身に着けての武技を「介者(かいしゃ)武術」、後者を「素肌武術」と呼ぶことがありますがもう少し詳しく見ていきましょう。剣術についていえば介者(剣術)の場合にはまともに斬りかかっても装甲に阻まれて致命傷を与えることは難しく、なおかつ自身の動作も制限されるため専用の術技が必要とされました。

具体的には甲冑の弱点となる装甲の隙間である喉輪や裏籠手、脇下や股下などを攻撃部位として特に狙い、構えも低く腰を落として足をハの字に開くどっしりとした体勢が一つのセオリーです。

また、先述したように自身も甲冑の着用によって自由自在に動くことが難しくなるため、鎧での可動範囲に即した太刀筋へと自然に集約されていきます。したがって豪快でありつつも、わずかな隙を確実に狙っていく繊細さを兼ね備えた剣風になることが多いといえるでしょう。

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一方の素肌(剣術)は戦場が遠のいた江戸期以降に一般的となったスタイルで、現代剣道のように背筋を伸ばして素早い足捌きでの戦い方が多く見受けられます。一部の流派では戦国時代にすでにその萌芽はありましたが、甲冑を着込んでいないことが当たり前となったシチュエーションでの斬り合いに最適化していった剣術とも例えられます。

文字通りに平服で戦うことが前提のため身体のどの部位であろうとまともに刀が当たればほとんどが致命傷となり、それゆえにより精妙な剣技が求められていったともいえるでしょう。

構や技に残る、鎧武者の剣法

卜傳流の形では後者の素肌剣術や現代剣道を思わせる背筋の伸びた姿勢で始まりますが、その構えの中には介者剣術時代の遺風を色濃く伝えるものもあります。

例えば「上段の構え」について剣道では頭の直上に拳を上げるのに対して、卜傳流では額のやや右横に拳を外すようにして構えます。これは兜を被っている場合を想定したフォームで、前立てなどの飾りがあると額の真上に拳を上げては構えられないことが由来です。また、「折身」といって深くしゃがむような低い姿勢で相手の懐に入り、立てるようにした剣で裏籠手や喉を攻めるといったインファイトも目を引きます。

流祖である塚原卜伝本来の奥義として有名なものに「一つの太刀」と呼ばれる技があり、その具体的な太刀筋は秘匿されているものの、一撃に全身全霊を懸ける剣であると推測されてきました。

それを物語るかのように弘前藩伝の卜傳流も左右に身をかわしたり引いて相手の攻撃を外したりしつつ、甲ごと打ち割るかのような気迫を込めた捨て身の一太刀を神髄としているといいます。

いずれにせよ、戦国期の鎧武者と江戸期の剣士それぞれの戦闘スタイルを併せ持つ卜傳流は武術という身体文化史においても、重要な無形の文化財であるといえるでしょう。

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岩手県】あまりの打撃力に他流試合禁止に!「諸賞流 和」

岩手県からは、盛岡藩に伝わった体術の流派である「諸賞流 和」をご紹介します。「和」は「やわら」と読み、いわゆる柔術の異称の一つです。

諸賞流 和は正式名称を「観世的真諸賞要眼狐伝流」といい、その遠祖を藤原鎌足であるとしています。狐伝流は鎌足からおよそ150年後に失伝の危機に瀕し、坂上田村麻呂が流名を「観世流」と改めて再興。

その後鎌倉時代の初めに源頼朝が主催した相撲の仕合で観世流第27代の継承者「毛利宇平太国友」が活躍を見せ、並み居る諸侯が賞賛したことからこの技を「諸賞流」と名乗るよう申し渡されたことが流派の由来と伝わっています。したがって当流において、毛利宇平太は「観世流第27代」「諸賞流初代」との位置付けです。

源流の開祖が藤原鎌足であったり坂上田村麻呂が中興していたりといった伝承が史実かどうかはともかくとして、流派の由来を古い時代やよく知られた人物と関連付けることは古流武術によく見られる事例といえるでしょう。

諸賞流の確実な創始がいつかは詳らかではありませんが、少なくとも『古事記』『日本書紀』には神代の徒手格闘の記事があり、雄略天皇の時代に初めて「相撲」という文字が記されるなど素手の格闘技術は非常に古い歴史をもつと考えられています。

源頼朝が生きた中世頃の相撲も現在の大相撲とは異なり、より総合格闘技に近いようなスタイルであったと思われ、諸賞流のような歴史ある体術の遣い手が活躍したことを想像できるでしょう。

肘打ちや鋭い蹴り、強力な打撃技

諸賞流の技術上の特徴としては、非常に激しい打撃技が挙げられます。特に肘当・足当と呼ばれる肘打ちや蹴りを重視し、他にも手刀や目潰しなど威力の高い攻撃方法が見受けられます。

諸賞流ではことのほか足当(蹴り技)の強力さが知られており、空手でいう前蹴りのような鋭さを演武の中にも見られるのは古流柔術の中でも希少といえるでしょう。

この足当は体重を乗せるタイプではなく、軸足の踵を上げて速度を重視することによって、衝撃を相手に伝える蹴り方であるのが特筆すべき点です。

こうした足当の技を身につけるため、諸賞流では吊るした手ぬぐいの真ん中だけを窪ませるように蹴ったり、蓋を下げた樽を後方へ飛ばすことなくその場で側板を蹴り割ったりできるように訓練するといいます。また、二人一組になっての対人稽古では「荷鞍」と呼ばれる極厚の胴のような防具を用いて、実際に蹴り当てる動作を行います。

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御前で見せた、鎧を破壊する打撃の技

諸賞流の打撃の強力さを示すエピソードとして、以下のような故事が伝わっています。

19世紀前半の天保年間、第12代盛岡藩主・南部利済の時代に藩内の各流派が集結した甲冑仕合が催されました。諸賞流からはのちに第57代継承者となる当時19歳の松橋宗年が出場しましたが、武具奉行から仕合に用いる鎧を選ぶようすすめられたところこれを辞退してしまいます。

宗年はその理由を示すといって柱に鎧を括り付け、胴に諸賞流の肘当を打ち込みました。奉行がその鎧を解いて検めてみると、なんと内側の蛇腹部分が肘打ちの衝撃で激しく損傷していたのです。

もっとも強力であるのは足当でしたが藩主の御前で蹴りを使うことを無作法として肘を用いたものの、あまりの威力に驚愕した南部利済は以後諸賞流に他流仕合を禁じ、藩外不出の御留流に指定したといいます。

この時の甲冑は大正時代初め頃までは現存していたといいますが、現在では失われています。

諸賞流が盛岡藩に伝えられたのは江戸時代中期、第6代藩主・南部利幹の時代でした。これをもたらしたのは盛岡の医家に生まれ諸国を武者修行して回った岡武兵衛で、鎌倉で学んだ諸賞流の第21代継承者となった人物です。

以降脈々と盛岡で伝承されてきた諸賞流は昭和54年(1979)に盛岡市無形文化財の指定を受け、現在も門人たちによって歴史ある技が受け継がれています。

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