
希少資源・青森ヒバ|檜になりたくてもなれなかった明日檜は「檜以上に有用な木材」だった
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ヒバは青森県を代表する樹木です。秋田スギほど知名度はないのですが、青森ヒバというブランド名で建築材料として重用されています。
過去には、1124年に建てられた平泉の「中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)」(国宝/岩手県平泉町)や1810年に再建された「弘前城(ひろさきじょう)」(国指定重要文化財/弘前市)などに使われていて、今でもほとんど建築当時のまま残っていることで知られています。
近年では太宰治の生家「斜陽館(しゃようかん)」(国指定重要文化財/五所川原市)や絶景名所「鶴の舞橋(つるのまいはし)」(北津軽郡鶴田町)などが青森ヒバによって建てられました。
また、流出や老朽化で何回も架け替えられている岩国の「錦帯橋(きんたいきょう)」(国指定名勝/山口県岩国市)ですが、2001年(平成13年)から4年間かけて行われた全面架け替えの際にも、最も耐久性、耐腐朽性(たいふきゅうせい)のある素材として青森ヒバが選ばれています。

青森県には全国の8割ほどのヒバが生育
ヒバはヒノキ科アスナロ属に分類される、スギやヒノキと同じように日本固有の樹木です。
生育地域は北海道南端部から九州の大隅半島(鹿児島県)までと広く、特に青森県には全国の8割ほどのヒバが自生しています。ヒバは、能登半島南部(石川県)や日光湯ノ湖(栃木県)付近を境に、南部に<アスナロ>が、北部には<ヒノキアスナロ>と呼ばれる2種が分布しています。

青森県に広く分布するのは<ヒノキアスナロ>で、一般的には“ヒバ(檜葉)”“青森ヒバ”と呼ばれています。青森ヒバの多くは津軽半島と下北半島に集中していて、その原生林は秋田スギや木曽ヒノキとともに日本三大美林と称されるほどです。
清少納言の著書『枕草子』に檜になれない木(明日檜=あすなろ)と記述
ヒバの学名[アスナロ]は、平安時代に歌人として知られる清 少納言(せい しょうなごん/966年頃~1025年頃)が書いた『枕草子(まくらのそうし)』に関連しています。
[アスナロ]は、葉がヒノキ(檜・桧/ヒノキ科ヒノキ属)と同じような形をしており、またヒノキのようなかぐわしい芳香もあり、ヒノキの一種と考えられていました。しかし、『枕草子』に
あすはひの木、此の世にちかくも見えきこえず。みだけにまうでゝかへる人などしかもてありくまる。枝ざしなどのいと手にふれにくげにあらくしけれど何の心ありて あすはひの木と つけけん。あぢきなきかねことなりや。たれにたのめたるにかあらんと おもふにしらまほしうをかし。
増補訂正 枕草子春曙抄 上 明治26年刊/@Wikimedia Commons
と記述されており、平安時代にはその木肌の違いなどから、ヒノキとは違う木だと認識されていたようです。
香りなど檜に似ていても今は檜じゃないんだ。明日は檜になっているかもしれないという希望を持つ木は、「明日檜/明檜」と書いて“あすなろ”と呼ばれました。
『枕草子』に書かれた“あすなろ”の木は、950年ほど時が経った1953年に、井上靖(いのうえやすし/1907年~ 1991年)の自伝的小説『あすなろ物語』(文藝春秋社月刊『オール読物』1953年1月号~6月号連載/代表作『氷壁』『敦煌』など/文化勲章受章)によって多くの人々に知られることになりました。『あすなろ物語』は、希望を持つ青年が社会や私生活の中でもがく姿を記した物語で、明日は檜になろうと願いながら、永遠になりえない“あすなろ”の姿に例えられたのです。
ヒノキのほうがアスナロより上位の木とみられていたのですね。
ヒバの正式な和名はカタカナの表記の<アスナロ>

“あすなろ”の正式な学名は江戸時代後期にドイツ人によってつけられました。江戸時代に来日したドイツ人医師のシーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト/1796年~1866年)がドイツに帰国した際、あすなろの木を持ち帰り、ヨーロッパにはない樹木だったので“ツヨプシス・ドラブラータ(Thujopsis dolabrata)”と命名したのです。
このラテン語の表記は、学名としては正式なものですが、日本ではカタカナで和名をつける習慣があり、正式な和名として“あすなろ”のカタカナ表記[アスナロ]となったのです。
その後、明治時代に入って日本初の林学博士で日比谷公園(東京都千代田区)や明治神宮外苑(東京都新宿区)などを造園した本多静六(ほんだせいろく/1866年~1952年)がヒバと呼ばれていた青森県のアスナロが、近畿や九州地方のアスナロと少し違うことを発見しました。
1901年(明治34年)になって高名な植物学者・牧野富太郎(まきのとみたろう/1862年~1957年)が[ヒノキアスナロ]と命名し今日に至っています。
能登地方でアテ(档)と呼ばれるヒノキアスナロ。輪島塗の木地や箸に使用
青森県では「青森ヒバ」と呼ばれている[ヒノキアスナロ]ですが、能登地方では「アテ(档)」と呼ばれています。一説によるとヒバを持ち込んだのは、平安時代に東北地方を支配していた奥州藤原氏といわれており、それが能登の地で広範囲に育成されました。やがてその木質の良さから輪島塗の木地や箸などに使用されるようになったのです。
青森ヒバは、樹高30m、直径80cmに達するスギやヒノキのような常緑針葉樹です。津軽藩や南部藩では“檜(ひのき)”と呼んでいたのですが、江戸時代中頃には林業の世界では“檜葉(ひば)”という呼び名が使われるようになっていました。
林業の場では、ヒバはヒノキとは違う樹木と認識されていて、その混同を避けるために“ひば”あるいは“青森ヒバ”と呼ばれるようになったというのが定説になっています。
青森ヒバは津軽藩や南部藩でも有力な財源のため厳しく森林を管理

青森県内で「青森ヒバ」が広がっている地域は、江戸時代には西半分が津軽藩、東半分は南部藩の領地でした。
江戸時代は今より多くのヒバの自然林があったといわれており、藩政時代以前に青森を支配した安東氏や南部氏も青森ヒバを何らかの財源にしていたと考えられていますが、残念ながら資料として残っていません。
江戸時代になって成立した津軽藩や南部藩は、藩の収入源として青森ヒバをはじめとするスギやマツなどを活用しました。
下北半島を領地とする南部藩では、はじめは半島の樹木は住民が自由に使っていたようで、ようやく1711年になって青森ヒバなどの針葉樹に関しては伐採を禁止し、藩が厳しく管理するようになりました。そのため下北半島では原生林の伐採が進み、造林された部分や他の樹木との混生された青森ヒバの森林が目立っています。

一方津軽藩では林業を奨励しており、“青木一本に首ひとつ”(ヒバを1本切ると首が飛ぶ)というほど厳しく管理されました。
青森ヒバはすべて藩のもので、財源として利用するために、自宅用に切ることも許されなかった時代もあったと伝わっています。また、伐採跡への植林や山林の保護にも力を入れました。津軽半島の青森ヒバの自然林は、“老齢一斉林(ろうれいいっせいりん)”と呼ばれる青森ヒバだけが生育、しかも樹齢の高い木がほとんどという森になっています。
久保田藩(秋田藩)における秋田スギのように、管理する以上に伐採が進み山奥以外の自然林を切り尽くしてしまったのに比べ、青森ヒバは多くの自然林が残ったのです。
現在利用されている青森ヒバは、樹齢約200年以上の天然林から伐採

青森ヒバの寿命は約300年といわれています。現在木材として伐採されているのは樹齢200~250年の壮年木で、それを選んで伐採(択抜)されています。藩政時代に誕生し、明治・大正・昭和・平成・令和と長い年月をかけて成長したものです。大きな木が伐採された跡には太陽が注ぐ空間が生まれ、芽吹いたこどもたちがぐんと成長します。この天然更新サイクルが森を長く保っています。

日本の森林面積は2,502万ヘクタールでそのうちヒノキが占める割合は約10%、257万ヘクタールほど(令和4年3月31日現在 林野庁)もあるのに対し、ヒバは6万ヘクタールほどにしかなりません。そのうち約5万ヘクタール(令和6年 青森県森林資源統計書)が青森県の[青森ヒバ(ヒノキアスナロ)]になっています。そのため建材としての流通量が少なく、マイナーな存在ですが、実はヒノキやスギよりも建材に適している特性があります。
ヒノキの芳香を持ち、抗菌・防虫効果があり、ヒノキやスギなどより硬いという青森ヒバ

[青森ヒバ]は、ヒノキに近い種類の樹木であるため、木の香りがよく、リラックス効果が得られます。さらにシロアリなどの忌避効果も高く、天然の殺菌効果も高いといわれています。[青森ヒバ]は日本の建築材料として優れていることが分かっていて、ヒノキより割安とのこと。マイホーム建築に青森ヒバ材の採用を考えてもいいかもしれませんね。
取材協力
- 名 称:青森県木材協同組合
- 住 所:青森県青森市大字高田字川瀬104-1
- 電話番号:017-739-8761
- 公式URL:青森県木材協同組合
※青森ヒバの森や巨木、青森県内の歴史的建造物などは次の機会にご紹介します。























