
仙台の名刹群! 伊達氏が帰依した「北山五山」とは?【中編】|政宗の祖先が制定した「伊達五山」と禅宗の種類
北山五山以前の「伊達五山(だてござん)」とは
北山五山が現在の場所に落ち着くまでには、伊達氏の領地が移っていく経緯による変遷があること、そして最初に五山を制定した伊達氏第四代・政依の時代とは寺院そのものに異なる点があることを前編で述べました。
そんな創建時の伊達氏による五山を、北山五山と区別して「伊達五山」と呼ぶことがあります。その寺名は以下に挙げた5つです。
- 光明寺
- 東昌寺
- 満勝寺
- 観音寺
- 興福寺
このうち「光明寺」「東昌寺」「満勝寺」は後の北山五山と同様で、観音寺は後代に臨済宗から浄土宗へと宗派を変更しつつも、伊達五山のうちでは唯一創建の地である伊達郡に残り、伊達氏の移転には随伴しなかったといいます。
興福寺は同じ名前の有名寺院として奈良の法相宗大本山がありますが、こちらの伊達五山では別名を「光福寺」とも表記しました。
先述の観音寺と興福寺は廃寺となりましたが、これらを北山五山の「資福寺」が吸収し、そこから同じ北山五山の「覚範寺」が独立する形で創建されています。
したがって、伊達五山と北山五山は寺院に違いがあるものの、正確にはその系譜は完全に途絶したわけではないともいえるでしょう。
交通の要衝にある「北山五山」の立地特性
北山五山の寺院が仙台城下の北方に位置し、奥州街道や根白石街道など重要な交通路の結節点になっていることは前編で述べた通りです。
これらは北山五山の名のもとになった「北山」と呼ばれる地域の丘陵に集中しており、交通の要衝の押さえとしても機能していたことが指摘されています。
寺院や神社のなかには丘陵や段丘などの高台、あるいは山岳地帯に位置するものも多く、信仰の対象としてよく目立つ立地を示すケースが珍しくありません。いわばシンボリックな施設として高い場所に祀るという心理も想定されますが、中世以降の戦乱の時代には天然の要害としても利用された例が見られます。
たとえば戦の折に高台や山岳地帯の寺院を接収してそのまま山城的に運用することは一般的な戦術で、史跡や文化財の地図を見ると「○○寺砦」「○○寺城」といった名前の頻出に気付くでしょう。
また、大寺院が持つ広大な敷地や建屋は部隊が駐屯するのにもうってつけであったことが想像され、武将がこれを接収して本陣を置いたり、宿所として利用したりした例も枚挙にいとまがありません。
これは戦国期に限らず、ずっと時代が下った明治時代初めの西南戦争においても、寺院が野戦病院として使われた事実からも、その立地と機能が戦時に利用されたことが理解できるでしょう。
邪気から守る神社仏閣による「鬼門封じ」

もう一つ、寺社のもつ信仰上の機能として「鬼門封じ」という表現もよく見聞きするのではないでしょうか。
鬼門というのは古代中国で鬼が北東の方向から侵入してくるという言い伝えに由来する言葉で、日本でも古くは北東を「丑寅/艮(うしとら)」と呼んで邪気が入り込んでくる方角であるとされてきました。
さらに反対の方角である南西も「未申/坤(ひつじさる)」といい、これを「裏鬼門」と呼んでいます。
そのため、鬼という言葉に象徴される不吉なものが侵入しないように神社仏閣を建立するなどして、目に見えない防衛線を張ったのです。
信仰による呪術的な都市防衛の一種とも言い換えられ、これは実際に平安京にとっては比叡山延暦寺がそれにあたるともいわれ、裏鬼門は石清水八幡宮が守っているとされています。
さらに京都御所の北西角は鬼門を避けるように切り欠いた形状をしており、延暦寺の鎮守である日吉大社の使いとされる猿の像が安置されています。
猿(申)は十二支を方角に割り振った際、丑寅の反対に位置することから鬼門を封じるカウンターの役割を果たすと考えられてきたことに由来するものです。
なお、江戸城でいえば表鬼門は「寛永寺」と「神田明神」、裏鬼門は「増上寺」と「日枝神社」によって守護されているとされています。
北山五山は仙台城下の鬼門封じって本当?
北山五山は仙台城下にとっての鬼門封じであるという説明を見聞きすることがありますが、これまで見てきた「北東」の方角とはどの程度の関係があるのでしょうか。もちろんどの地点を基準にするかによって変わってくる問題ではありますが、仮に仙台城跡を中心とした場合、北山五山の集中する丘陵はほぼ真北の位置です。
これでは「仙台城下町」と基準地域を広げたとしても、北山五山が丑寅の方角の表鬼門を守るという理論は成り立ちにくく感じますね。
事実、伊達政宗の時代に仙台城の表鬼門の押さえとして幕府に届け出られたのは、現在の宮城県庁前に存在した「定禅寺(じょうぜんじ)」というお寺でした。ここは禅宗である臨済宗ではなく、真言宗に属する祈願寺であったと伝わります。
また、承応三年(1654年)に仙台藩第二代藩主・伊達忠宗が創建した「仙台東照宮」も仙台の鬼門封じの役割を担っているといいます。所在地は現在の仙台市青葉区東照宮一丁目で、仙台城跡を起点にするとまさしく北東の方向です。
東照宮といえば徳川家康を「東照大権現」として祀る神社の総称で各地に存在しますが、仙台藩の鬼門封じとしても相応しい神格と位置付けであったことがうかがえるでしょう。
これらのことから、北山五山は呪術的な鬼門封じそのものというよりも、伊達家の崇敬を受けつつ交通の要衝に立地する、象徴的な寺院群であったと考えられるのではないでしょうか。
そもそも“禅宗”とは?
ここで閑話休題。たびたび「臨済宗」という宗派の名前が出てきていますが、一般には「禅宗」という総称で知られています。
しかし、そもそも禅宗とはいったいどのような仏教宗派なのでしょうか。

禅というと印を結んで独特の足の組み方をして行う瞑想法を思い浮かべ、世界的にもよく知られた仏教修行法の一つといえるでしょう。その教義の詳細は割愛するとして、日本で禅宗と呼ばれる主な宗派について概観しておきたいと思います。
以下、一度道統が絶えて再興されたものも含めて、禅宗の宗派を挙げました。
臨済宗(りんざいしゅう)
臨済宗は鎌倉時代の初期以降に、元々は天台宗で学んだ栄西(えいさい)によって中国からもたらされました。

座禅のほかに「公案」と呼ばれるいわゆる禅問答を重要な修行の一つに位置付けており、師から与えられる哲学的な問いに回答していく過程で悟りへと近づいていくこのスタイルを「看話禅(かんなぜん)」ともいいます。
座禅の方式としては一堂に会した僧が互いに向き合う形となるのが特徴で、これは共に励まし合って修行をするという意味も込められているそうです。
仙台藩の北山五山では同じ臨済宗でも東福寺派と妙心寺派がありましたが、現在は14ないし15もの派に分かれています。
曹洞宗(そうとうしゅう)
曹洞宗は13世紀初め頃の鎌倉時代に、臨済僧の明全(みょうぜん)に従って宋に渡った天台僧・道元(どうげん)によってもたらされました。

分派のない単一宗派であるとされますが、大本山は福井県吉田郡の「永平寺」と神奈川県横浜市の「總持寺」とがあり、現在はそれぞれの住職が2年交代で宗門の代表を務めています。
禅問答を重視する臨済宗の看話禅に対し、ただ一心に座禅を組むことに集中する「黙照禅(もくしょうぜん)」というスタイルが特徴です。そのため「只管(ひたすら)」に座禅をするこの姿勢を「只管打坐(しかんたざ)」という言葉で表しています。
臨済宗が修行僧同士向き合う形で座るところ、曹洞宗では壁に相対して座禅を組む点に大きな違いがあります。

これは禅宗の始祖ともされる「達磨大師」が、壁に向かって九年間座禅を続けたことによって悟りへと至ったという故事にちなむものです。
黄檗宗(おうばくしゅう)
黄檗宗は17世紀半ばの江戸時代、中国から来日した臨済僧の隠元(いんげん)によって開かれました。

京都府宇治市の萬福寺を本山とするこの宗派はもともと臨済宗の一派であり、教義や儀礼、修行法などは同様であるとされています。
しかし特筆すべきは経文や用語などを近世の中国語風に発音することで、独特の風情をもつ禅宗宗派として知られています。

宗派として独立したのは明治九年(1876年)のことで、中華風の調理が施された「普茶料理(ふちゃりょうり)」という精進料理も著名です。
普化宗(ふけしゅう)
普化宗は13世紀半ば頃の鎌倉時代に、臨済僧の心地覚心(しんちかくしん)によって中国・南宋からもたらされました。
臨済宗の一派としても捉えられ、普化宗と公に名乗って活動を始めたのは近世になってからのことといいます。

ちなみに時代劇などでおなじみの、深編笠をかぶって尺八を吹きながら托鉢する虚無僧(こむそう)はこの宗派の修行者のことです。
武家の庇護を受けて長く活動しましたが明治三年(1871年)に政府の命により解体されましたが尺八の奏法などが継承され、昭和二十五年(1950年)に宗教法人として「普化正宗 明暗寺(みょうあんじ)」が再興されました。
NEFTの記事づくりを応援してください!
NEFTでは東北各地の歴史・文化・観光情報等を取材し記事として発信しています。
この記事を楽しんでいただけましたら、今後の取材や記事制作、サイト運営へのご支援を検討いただけますと幸いです。
※「チップ」をクリックすると外部サービス「codoc」のチップ送付画面が開きます。















