黒石よされ③

日本三大流し踊り「黒石よされ」とは?踊りの種類や歴史、名前の由来を解説【青森県】

青森県黒石市の夏を彩る「黒石よされ」。

そろいの浴衣に編笠をかぶった踊り手たちが、三味線や太鼓の音色に合わせて市街地を進む光景は黒石を代表する夏の風物詩です。

徳島県の「阿波踊り」、岐阜県の「郡上おどり」とともに「日本三大流し踊り」の一つに数えられ、祭りでは「流し踊り」「廻り踊り」「組踊り」という性格の異なる三つの踊りが披露されます。

今回は、黒石よされの歴史や「よされ」という名前の由来、祭りを構成する踊りの特徴について紹介します。


黒石よされとは?

黒石よされ②
「黒石よされ」の伝統衣装を纏った踊り手

「黒石よされ」は青森県黒石市に伝わる歴史ある盆踊りで、核となるのは踊り手たちが列を組んで市街地を踊りながら練り歩く「流し踊り」。そろいの浴衣と編笠を身に着けた大勢の踊り手が黒石よされの唄や三味線、太鼓に合わせて踊ります。

祭りではその他に、観客も飛び入りで加わって輪をつくって踊る「廻り踊り」や、津軽民謡手踊りを複数人で披露する「組踊り」も行われます。

決められた振り付けを美しくそろえる華やかさと、居合わせた人が一緒に踊れる盆踊り本来の開放感。その両方を楽しめることが黒石よされの大きな特徴です。

「よされ」の語源は?

黒石よされ⑨
黒石よされの提灯

「よされ」の語源には定説がなく、黒石観光協会や黒石市が紹介している代表的な説には、次のようなものがあります。

豊作を祝い、凶作を避ける二つの意味があるという説

豊作を祝い、凶作を避ける二つの語意があるという以下の説が一番有力であるといわれています。

  • 豊作の際は「仕事をよして、楽しく踊りなされ」

豊作を迎えた年には、仕事の手を止めて踊りを楽しむよう呼びかけた言葉で「仕事をよして」と「踊りなされ」の一部が合わさり「よされ」になったとされています。

  • 凶作の際は「このような世の中は早く去れ」

凶作の年には、このつらい世の中が早く過ぎ去るようにと願い「世」と「去れ」が結び付いて「よされ」になったとするものです。

豊作の喜びと凶作からの解放という異なる語意を同じ言葉に重ねることで「うれしい時も悲しい時もとりあえず踊る!」という…黒石の人達の気質をよく表しているような説です。

「与三郎」にまつわる説

「与三郎」という人物を酒席から立ち去らせるために発した「与去れ」が、「よされ」に変化したという説も伝わっています。

特定個人を避ける文句が現代まで伝わっているというのはかなりかわいそうな気がしますが…説の一つとして実際に語られているようです。

その他にも「止され、おかされという羅城門の洒落から出たもの」や「庄内節の変化」など…様々な説が存在しますが、いずれも語源の確定に至る証拠があるわけではないので「よされ」には複数の由来が伝えられていると理解するのが適切です。


踊りの起源は500~600年前?黒石よされの歴史

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流し踊りの様子

黒石よされの起源は500~600年ほど前とされ、もともとは盆踊りの場で唄われた男女の恋の掛け合い唄だったとされています。

ただしこれは起源にまつわる伝承的なもので、現在の黒石よされが500~600年前から同じ姿で踊られていたという意味ではありません。

民謡や盆踊りは、人から人へと唄や振りが伝えられるなかで少しずつ姿を変えてきました。黒石よされもまた、古くから津軽地方にあった唄や踊りを土台としながら、地域の歴史とともに現在の形へ発展したものと考えられます。

江戸時代後期に境形右衛門が盆踊りを奨励

黒石よされの原型である盆踊りが盛んになったのは、江戸時代後期の天明年間(1781~1789年)頃といわれています。

当時の黒石は弘前の津軽宗家から分かれた黒石津軽家が治める土地で、家中の実力者だった境形右衛門(さかいぎょうえもん)が近隣から人を集めて町を繁栄させるための政策の一つとして、盆踊りなどの催しを奨励したと伝えられています。

この政策は初代・境形右衛門から2代目・境形右衛門へ受け継がれたとされ、文化6年(1809年)に黒石津軽家が1万石の大名となり弘前藩の支藩である黒石藩が成立した際、2代目・境形右衛門は黒石藩初代の家老に就任しています。

盆踊りは単なる娯楽ではなく、人々を町へ呼び込み城下を賑わせる役割も担っていたようです。

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様々な囃子を奏でる黒石よされの山車と「こみせ」の風景

幕末期の黒石の様子を記した「分銅組若者日記」には、当時の盆踊りについて「鼓・太鼓・三味線が数え切れないほどあった」という趣旨の記述が残されており、黒石の盆踊りが多くの楽器と人々で賑わう大規模な催しになっていたことが窺えます。

当初は夜に催された群衆の踊りだったものが、文化文政(1804~30)の頃から町方による「組踊り」と古式の「流し踊り」という形式をとるようになり、天保の頃(1830~43)から「よされ節」と呼ばれる踊りが人気を得て、黒石盆踊りの特色の一つとなったとされています。

明治時代の衰退から戦後の復活へ

明治時代になると近代化推進の風潮から盆踊り・郷土芸能の類いは取り締まりの対象になることがありました。黒石の盆踊りもその影響を受け明治30年(1897年)以降に一度途絶えてしまいます。

その後一時的な再興は何度か試みられたようですが、現在につながる本格的な復活が進められたのは戦後のことでした。

黒石の商工関係者が地域振興を目的として盆踊りを復活させ、昭和35年(1960年)以降は黒石商工会議所や黒石観光協会が観光行事として発展させていきました。

「黒石の盆踊り」から「黒石よされ」へと呼称が変更されたのもこの頃からとされています。


黒石よされを構成する三つの踊り

黒石よされは、主に「流し踊り」「廻り踊り」「組踊り」の三つで構成されています。それぞれ楽しみ方や踊りの性格が異なり、三つを見比べることで黒石よされの奥深さが分かります。

市街地を踊り歩く「流し踊り」

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黒石よされを象徴する「流し踊り」

黒石よされを象徴するのが「流し踊り」。

浴衣と編笠を身に着けた踊り手たちが団体ごとに列を組み、三味線や太鼓、唄に合わせて市街地を進みます。

黒石市中心部の、藩政時代から続く木造のアーケード「こみせ」などの歴史的な町並みを背景に、揃いの浴衣姿の踊り手が連なって進む光景は城下町として発展した黒石ならでは情緒を感じさせます。

観客も輪に加われる「廻り踊り」

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廻り踊りの様子

「廻り踊り」は、踊り手や観客が円を描くように踊る、盆踊りらしい参加型の踊りです。

流し踊りの合間に円陣がつくられ、観客を巻き込んだ大きな踊りの輪へ発展します。

整然と進む流し踊りとは異なり、踊る人と見る人の境目が薄いことが廻り踊りの魅力で、振り付けを知らない人でも周囲の動きをまねながら参加でき、祭りの熱気を間近で味わえます。

津軽民謡手踊りを披露する「組踊り」

「組踊り」は、正式には「津軽民謡組踊り」と呼ばれます。

一人で披露されることの多い津軽民謡手踊りをもとに、複数人の踊り手が動きをそろえて演じるものです。

近隣地域などから集まった踊りの団体が、三味線、太鼓、唄に合わせて磨き上げた演舞を披露します。祭りでは伝統的な津軽民謡だけでなく、創作的な振り付けが披露されることもあり、団体ごとの衣装や構成の違いも見どころです。

さらに祭りの終盤には誰でも自由に参加できる「おどりはだり」が行われます。

「はだり」は津軽地方の言葉で、ねだったり、せがんだりすることを意味する言葉で、まだまだ踊り足りない人たちのアンコールを表しています。


黒石よされ踊元踊は黒石市の無形民俗文化財

黒石よされの伝統的な振り付けである「黒石よされ踊元踊(くろいしよされおどりもとおどり)」は、昭和57年(1982年)11月4日に黒石市の無形民俗文化財に指定されています。

「元踊」は現在の多彩な踊りの基礎となる伝統的な型です。

元踊を文化財として継承することにより昔ながらの歴史と伝統を守りつつ、新しい表現を拒絶せず受け入れ共存し続けてきたことも、黒石よされが長く受け継がれてきた理由の一つだといえます。


伝統を守りながら、誰もが参加できる祭り

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夕闇と流し踊りの風景

城下町を賑わせた江戸時代の盆踊り、近代における衰退、戦後の復活、誰もが踊れる振り付けの整備を経て、黒石よされは現在の姿へと発展してきました。

「流し踊り」「廻り踊り」「組踊り」と三つの異なる踊りが共存していることから、見る人も踊る人もそれぞれの立場で祭りを楽しめます。

訪れた際は見るだけでなく、踊りの輪へ加わることでその魅力をより深く感じてみてください。

黒石よされ<Information>

INFO

開催日程、会場、交通規制、参加方法などは変更される場合があります。訪問前に公式サイトで最新情報をご確認ください。


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