
【縄文時代の青森③】豊かな森と海が育んだ縄文人の暮らし…人口約9000人の時代へ
縄文時代は、氷河時代の1万5000年以上前から始まり、1万年ほどをかけてゆっくりと進んでいきます。その間には気温の大幅な上昇があり、大型ほ乳類は絶滅しましたが人間にとっては生活環境が非常によくなっていった時代です。
食料が手に入りやすい水辺に建物を建て定住生活が始まります。雪が降り、日本海側気候や太平洋側気候、ブナやクリ、クルミなどの森ができたのもこの時代です。
本稿では『世界遺産「北海道・東北の縄文遺跡群」公式ホームページ』に準じて時代分けし、『青森県史』に沿って縄文時代を期別および期の中を前葉、中葉、後葉に細分化した時代分けを使用しています。
前葉、中葉、後葉の時代分けは以下の通りです。
| 縄文時代 | (年数はおおよそ) | |
| 草創期 | 16,000年~12,000年前 | |
| 早期 | 12,000年~ 7,000年前 | |
| 早期前葉 | 12,000年 ~ 9,500年前 | |
| 早期中葉 | 9,500年~ 8,000年前 | |
| 早期後葉 | 8,000年~ 7,000年前 | |
| 前期 | 7,000年~ 5,000年前 | |
| 前期前葉 | 7,000年~ 6,300年前 | |
| 前期中葉 | 6,300年~ 5,800年前 | |
| 前期後葉 | 5,800年~ 5,000年前 | |
| 中期 | 5,000年~ 4,000年前 | |
| 中期前葉 | 5,000年~ 4,700年前 | |
| 中期中葉 | 4,700年~ 4,300年前 | |
| 中期後葉 | 4,300年~ 4,000年前 | |
| 後期 | 4,000年~ 3,000年前 | |
| 後期前葉 | 4,000年~ 3,700年前 | |
| 後期中葉 | 3,700年~ 3,300年前 | |
| 後期後葉 | 3,300年~ 3,000年前 | |
| 晩期 | 3,000年~ 2,400年前 | |
| 晩期前葉 | 3,000年~ 2,900年前 | |
| 晩期中葉 | 2,900年~ 2,600年前 | |
| 晩期後葉 | 2,600年~ 2,400年前 |
縄文時代の時代分け・詳細(世界遺産「北海道・東北の縄文遺跡群」公式ホームページにより作成・諸説あります)
7000年で気温が7℃上昇。青森県で雪が降り始める
1万6000年前頃は最終氷期といわれるものすごく寒い乾燥した気候で、青森県でも雪は降らなかったのですが、その後急激な温暖化により、7000年間で気温が約7℃上昇します。
そのため氷ばかりだった海は海水となり、日本海側では南から温かい海流(対馬海流)が青森県まで流れ込み、その水蒸気が冬の寒冷期には偏西風にのって山にぶつかり、日本海側には雪を降らし、太平洋側には乾燥した風が吹き下ろすという現在の日本海側気候と太平洋型気候が成立したのです。

青森県の植生も大幅に変わっていきました。氷河時代はマツやモミなどの寒さに強く、水が少なくても生き延びられる亜寒帯針葉樹林に覆われ、木の生えない草原も多かったといいます。
その後の温暖化により亜寒帯針葉樹林が減少し、それまで育たなかったカバノキなどの冷温帯落葉広葉樹が増え、雪が降り始めた約9000年前には、ブナやミズナラ、さらにおいしい実のなるクリ、クルミといった木々が進出を始めたのです。
豊富な貝や魚、そして海獣。人々は海沿いを定住の地に
人々は大型の哺乳動物のかわりに、小型の動物たちや、海や川で魚介やオットセイなどの怪獣たちを食料として調達し始めます。
そのため大きな動物たちを追いかけていた生活が、ひとつの場所にとどまって生活できるようになり、住居は恒久的に住めるようなしっかりした建物になりました。縄文時代早期中葉頃より竪穴式住居と呼ばれる新しい形が一般的になっていったのです。

食材も大型ほ乳類の肉を焼くか乾燥させて食べていたのが、土器が伝わり、水が手に入りやすい水辺に住むことにより、煮炊きすることができるようになりました。植物も秋には実のなる落葉広葉樹が増えることにより、縄文時代早期後葉には食生活も豊かになっていったのです。
海進が進んだ前期前葉。海水が押し寄せ、人々は高台に避難
地球の気温は、早期から前期に移り変わる約7000年前に、最も高くなります。そのため氷が溶け出したため海水が増え続け、海岸線がどんどん陸側に進出してきます。これを海進(かいしん)といって、最も海進が進んでいた時代には、今より数kmから50kmほど海岸線が後退していたのです。
海進が進むにつれて、人々は内陸に移動していきます。そして、安全な川や海沿いの高台に生活拠点を設けました。
縄文時代前期から中期、生活が安定し人口が飛躍的に増加
人々の生活は、温暖化により冬も過ごしやすくなり、食料も安定してきたため、個から集団へと変化していきます。集落というものの、10人からせいぜい100人程度が暮らす小規模な集落でした。
最も前期前葉の頃は東北地方全体では1万9000人程度の人口と推定されていて、今の東北6県の人口比を当てはめると、当時青森県の人口は3000人~4000人程度になります(ある研究からの推測値です)。
青森全域で3000人しかいなかったのですから、家族以外の人間に出会う機会はほとんどなかったでしょうし、その集落は海や川沿いにポツンとあったと考えられています。
それからの1500年間は、気候変動もありさらに暮らしやすくなり、中期に入る頃には東北地方で4万7000人、青森県でも9000人程度まで人口が増え続け、集落もまた大型化していきました。
人間は食料の安定化にも頭を巡らせます。長期保存するために頭を使い、干物のような乾燥技術、いぶることによる殺菌効果を高めた燻製、クリやブナなどの果実は水に浸けてアクを取ったり、虫がわくのを防いだりしました。それにより生活しやすくなり、人口が増えていったのです。
大きな実のクリの木を選んで栽培し、食料の安定化を図る

三内丸山遺跡(国指定特別史跡、世界文化遺産登録、出土物は国指定重要文化財)は、前期中葉から中期後葉(約5900年前~4200年前)の遺跡ですが、その最盛期(約5100年前~4800年前)には500人以上が暮らしていた大変大きな集落でした。
1700年もの間続いた「三内丸山遺跡」からは、1000軒以上の住居跡が見つかっていますが、同時期にあったのは100棟程度で、最大で500人と推定されています。

集落周辺は森となっていて、ブナやクリ、クルミなどのさまざまな広葉樹林が広がっていました。
しかし、集落を囲っていたのはクリやクルミだけだったのです。クリなどは自然界ではまとまって生えることはなく、しかもクリの実は、森の中のものに較べて大きく、これは人々が移植し、栽培していたのだろうと結論付けされました。
多くのクリの木から大きな実を付けるものを選定し、それを増やしていった知恵は人間だけに与えられた大きな財産となりました。
縄文時代早期の尖底土器から、円筒形土器が主流に

縄文時代の土器は、草創期から早期の早い段階では、煮炊き専用の道具として使われていたため、底に向かって細くなり、火の通りが均一になる“尖底土器”がほとんどでした。
その後、人々は定住生活になり、小動物や海産物、木の実などが豊富に手に入るようになった前期頃からは、青森を含む東北北部を中心に、土器の底を平らにして、煮炊きだけでなく床や棚にも置けるようにした“円筒形土器”に変わりました。
この“円筒形土器”の時代は、その後1400年もの間続きました。
三内丸山遺跡<Information>
- 名 称:三内丸山遺跡・縄文時遊館
- 住 所:青森県青森市三内字丸山
- 電話番号:017-781-6078(三内丸山遺跡センター)
- 料 金:一般 500円、大学生等 250円、高校生以下無料
- 見学時間:9:00~17:00・ただしGW中と6/1~9/30は18:00まで開館(入場は閉館の30分前まで)
- 休 館:第4月曜日(祝日の場合は翌日)、12月30日~、1月1日、所内整理日(不定)
- 公式URL:三内丸山遺跡
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食料が豊富な入り江、古小川原湾に面した世界遺産の遺跡「二ツ森貝塚」

二ツ森貝塚は、縄文時代前期前葉から中期末葉にかけて営まれた大規模な集落・貝塚遺跡です。
七戸町役場の北東8.6kmに位置し、標高25~33mの段丘にあり、現在の小川原湖まで約4km内陸に位置しています。当時は海進が進んで、現在の小川原湖は入り江(古小川原湾)になっていて、遺跡のあったところまで海岸だったのです。
二ツ森貝塚は、三内丸山遺跡と同じように、世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産のひとつで、国指定史跡です。
遺跡からは大規模な貝塚跡や住居跡、円筒形土器など多くの遺物が見つかっていますが、前期中葉から後葉のものが多く、その中には県重宝である
- 鹿角製櫛
- 鯨骨製青竜刀形骨器(げいこつせいせいりゅうとうがたこっき)
- 鹿角製尖頭器(ろっかくせいせんとうき)
- 猪牙製垂飾品(ちょがせいすいしょくひん)
- 鹿角製叉状品(ろっかくせいさじょうひん)
など優れた骨角器が出土しています。

「鹿角製櫛」は[青森県立郷土館](長期休館中、再開時期未定)、「鯨骨製青竜刀形骨器」、「鹿角製尖頭器」、猪牙製垂飾品」、「鹿角製叉状」は[二ツ森貝塚館]で展示しています。
二ツ森貝塚<Information>
- 名 称:二ツ森貝塚
- 住 所:青森県上北郡七戸町字貝塚家ノ前地内
- 電話番号:0176-58-5530(七戸町教育委員会 世界遺産対策室)
- 遺跡見学:日没まで
- 見学料金:無料
- 休 園:年中無休 ※但し、冬期間は公園閉鎖
- 公式URL:二ツ森貝塚
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二ツ森貝塚館<Information>
- 名 称:二ツ森貝塚館
- 住 所:青森県上北郡七戸町字鉢森平181-26
- 電話番号:0176-68-2612
- 開園時間:10:00~16:00
- 休 館:月曜日(祝休日の場合は翌日)、祝休日の翌日、年末年始(12月27日~1月4日)
- 料 金:無料
- 公式URL:旅の蔵七戸
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主食はヤマトシジミ、集落間の交流拠点だった田小屋野貝塚
田小屋野貝塚は、前期前葉から貝塚を伴う集落跡です。貝塚からはヤマトシジミを主体とした汽水系の魚介類やノウサギなどの小動物の骨も出土しています。
田小屋野貝塚は、津軽半島の西側付け根付近、海岸線から2kmほど内陸に入った5m~10mの台地(つがる市)に位置しています。海進が進んでいた当時目の前まで海が迫っていた場所で、今でも多くの池沼が残っています。
目の前の海(古十三湖と呼ばれ、現在の十三湖よりかなり南に位置する)には近くに岩木川の真水が流れ込み、汽水状態でよく育つヤマトシジミがよくとれたのでしょう。主食だったと考えられています。

集落には、竪穴建物、墓、貝塚、捨て場、貯蔵穴などがあり、この時期の典型的な集落構造を示しています。
貝塚からは汽水域に棲息するヤマトシジミなどの貝類を中心に、コイ、サバなどの魚骨や、ガン、カモなどの鳥骨が出土しています。
日常的な祭祀・儀礼の場でもあった捨て場からは、土器や石器のほか、クジラやイルカなど、大型ほ乳類の骨で作った骨角器も出土しています。土坑墓からは出産歴のある20代だと思われる女性の埋葬人骨が発見されました。

特に、ベンケイガイ製の貝輪の未製品が多数出土したことから、集落内で貝輪製作が行われていたことが明らかになりました。
田小屋野貝塚からは北海道産黒曜石が出土し、北海道では貝輪が見つかっていることから、北海道との交易があったことが判明し、貝輪造りが仕事として成立していたと考えられています。
田小屋野貝塚は世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産のひとつで、国指定史跡です。田小屋野貝塚の南側には、晩期の亀ヶ岡石器時代遺跡があります。
田小屋野貝塚<Information>
- 名 称:田小屋野貝塚
- 住 所:青森県つがる市木造館岡田小屋野
- 電話番号:0173-49-1194(つがる市教育委員会文化財課)
- 見 学:自由
- 冬季閉鎖(12月1日~4月半ば)
- 公式URL:田小屋野貝塚
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7000年前頃から、地球の気温はまた下がり始め、東北北部の人口は減少
気温は中期に入る約7000年前をピークにまた徐々に下がり始め、中期中葉の約6000年前頃から海岸線が後退(海退)し始めます。東北北部の生活環境は悪くなり人々は南へ移動してしまいました。三内丸山遺跡など賑わっていた集落はどんどん縮小し、4200年ほど前の中期末頃には消滅してしまいます。
気温の低下は現在も続いているといわれていて、2000年ほど前には、ほぼ現在の海岸線になったのです(実際には地球の気温は環境破壊などにより上がり続けているのが現状ですね。困ったものです)。



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