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伊達政宗の忍集団?黒脛巾組の伝説とは【後編】|有名戦国大名たちが用いた忍者集団

戦国武将が用いた高名な忍者集団の例

伊達政宗が「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」という隠密を組織したという伝承が江戸時代中期の歴史書で語られていますが、他の有力な戦国武将にもやはり特殊な任務に就いた忍者集団がいたという伝説が語られています。

実際には虚実入り乱れて真偽のほどが定かではないものも多いですが、諜報や工作を行った隠密は実在したと考えるのが自然でしょう。

そんな戦国武将の忍たちのうち、よく知られた例をいくつかまとめてみました。

実在が確証されている集団もあればそうでないものもあるため、あくまでもそうした影の存在を思わせる伝承をメインとしてご紹介します。

徳川家康:伊賀衆

駿府城跡の徳川家康像(静岡県)
駿府城跡の徳川家康像(静岡県)

三重県の「伊賀」といえば滋賀県の「甲賀」と並んでもっともよく知られた忍者集団といえるかもしれません。

そしてその頭領として著名な人物が「服部半蔵」で、初代半蔵は第十二代室町将軍・足利義晴と徳川家康の祖父・松平清康に仕えました。

その縁から二代・服部半蔵は家康の家臣として活躍し、陰に陽に天下取りを助けたともいわれています。

伊賀忍者の末裔は後に「伊賀同心」または「伊賀組」として徳川幕府の御家人に編成されており、江戸時代には実際に忍者としての任務を果たしたわけではありませんでした。

また、伊賀衆は地侍であり、二代・服部半蔵も武将として従軍した人物です。

しかしながら天正十年(1582年)に起こった本能寺の変の後、家康にとって危険地帯となった近畿から領国の三河へと脱出した「神君伊賀越え」の際、護衛と誘導に伊賀衆が大きな役割を果たしたと伝えられています。

江戸時代の「伊賀組」といえば忍者そのものではなかったことは先に述べた通りですが、以来子々孫々に至るまでその名が存続したことは特筆すべき事実といえるでしょう。

武田信玄:三ツ者

甲府駅前の武田信玄像(山梨県)
甲府駅前の武田信玄像(山梨県)

「三ツ者」とは甲斐の虎・武田信玄が組織したとされる忍者集団の通称です。

実際には信玄在命中の史料にその名は確認できず、江戸時代前期に成立した忍術書である『万川集海(ばんせんしゅうかい)』や軍学書の『甲陽軍鑑』にある記述をもとにしてそう呼ばれるようになったと考えられています。

これらの文献によるとすなわち、信玄は「間見」「見分」「目付」といった三種類の任務を帯びた人材を使い分けたとされることから、「三ツ者」との呼称が定着したというものです。

「間見」は遠方から敵の様子を観察すること、「見分」は至近距離から敵を観察すること、「目付」は敵勢力の中に入り込んで観察することを指し、情報戦・諜報戦に関わる要員の運用法を示したとされています。

この「三ツ者」という呼び方自体は後世のものですが、信玄が実際に忍の者を用いて敵方の城への侵入や攻撃、情報収集や攪乱を行っていたことが記録されています。

上杉謙信:夜盗組

春日山城跡の上杉謙信像(新潟県)
春日山城跡の上杉謙信像(新潟県)

越後の龍・上杉謙信も忍者集団を用いたといわれており、後世の軍記物には「夜盗組」「伏齅(ふしかぎ)」「聞者役」などの名が見られます。

もちろん軍記物ですので創作的な様相が強く、史料的信憑性を評価することは難しい面がありますが、やはり諜報活動を担った部隊を運用していたと考えるのは自然なことといえるでしょう。

ちなみに歴史小説などの創作物で謙信の忍者集団を「軒猿(のきざる)」と紹介していることがありますが、実際には越後でそのように隠密を呼んだことはないといいます。

江戸時代前期の忍術書『万川集海』に忍者の別称として紹介されているほか、小田原の後北条氏配下が用いた忍者が「軒猿」と呼ばれたとも伝わっています。

毛利元就:座頭衆

郡山城跡の毛利元就像(広島県)
郡山城跡の毛利元就像(広島県)

安芸の戦国大名・毛利元就も「座頭衆」という忍の集団を運用したと、江戸時代中期の軍記物『陰徳太平記』で描かれています。

座頭とは盲目の琵琶法師の階級のことであり、やはり漂泊の芸能者としての面を持っていました。

元就は敵対する尼子氏の元に「角都(かくづ)」という座頭衆を家臣として潜入させ、遊興の技を駆使して取り入ることで内部から攪乱することに成功したと伝えています。

『陰徳太平記』自体が創作とされているため真偽のほどは定かではありませんが、職能者に偽装した隠密が敵地に潜入して諜報や工作を行うという、高度な作戦行動は実に忍者らしいものといえるでしょう。


古式泳法にみる城郭への侵入技術

忍者といえば特殊な技能としての「忍術」を駆使したイメージがありますが、実際にそうした術の一部が伝わっています。

潜入や偵察のための道具操作や身体操作を含め、薬学の知識や暗号通信の方法等々、多岐にわたる諜報活動のスキルを総称したものというとわかりやすいかもしれません。

それには忍者だけの技ではなく、武芸十八般とも呼ばれるあらゆるジャンルの武術の中から、隠密に適した術の修得も含まれていたと考えられます。

本記事ではそのうち「水術」とも呼ばれる、いわゆる「古式泳法」の技をご紹介しましょう。

泳法、つまり水泳の技術は武士にとっても重要なスキルであり、流れが速く水量の多い河川を渡ったり、船戦で転落した場合に生存率を上げたりするのに必須といっても過言ではありませんでした。

そんな泳法の中でも、非常に忍者的な風情を感じさせる技術を伝える流派があります。

薩摩に伝わる「神統流」です。

これは現在も脈々と継承されている古式泳法の一流派で、この中には「城の水堀の底を歩いて渡る」という術があります。

「底被(そこかつぎ)」と呼ばれる技で、城内への潜入にも使えることを思わせます。

肺の空気をすべて吐いて水底に沈み、体を前傾させる姿勢で渡るという高度な技術で、酸欠になるおそれがあるため連続で行うことは禁じられているといいます。

また、これらの古式泳法には甲冑を着用したまま泳ぐ技や、立ち泳ぎの姿勢で剣を振るう、あるいは弓矢や銃を扱うといった技を含むものも多く、戦う泳法として洗練されてきました。

仙台藩伊達家ではなく宇和島藩伊達家の例ですが、ここでは熊本藩から学んだ「小堀流踏水術」という泳法が伝わりました。

これは非常に強く立ち泳ぎを行うことが特徴の流派で、伝書の絵巻には立ち泳ぎの姿勢で長い槍や薙刀を振るう様子が描かれています。

忍者は諜報活動や潜入工作の過程で過酷な環境下を生き延びたり、会敵した場合には迅速にこれを排除したりといった必要に迫られることもあったことでしょう。

そうした場合の対処法の一つとして、水術は彼らにとっても重要なスキルになったのではないでしょうか。


まとめ

仙台城跡の伊達政宗像(宮城県)
仙台城跡の伊達政宗像(宮城県)

歴史的な真偽のほどはともかくとして、「黒脛巾組」なる伊達政宗の忍者集団に関する伝説が語られてきたことを概観しました。

それ自体は多分に創作的な要素を思わせるものの、忍の者が実在し陰から戦国史に影響したことは事実であったと考えてよいでしょう。

彼らの事績の大多数は歴史の闇の中かもしれませんが、後世の歴史家たちはその来し方に思いを馳せて筆を走らせたのかもしれませんね。


連載:伊達政宗の忍集団?黒脛巾組の伝説とは


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