黒脛巾組_ic1

伊達政宗の忍者集団?黒脛巾組の伝説とは【前編】|江戸中期の歴史書に現れる「政宗の諜報部隊」は実在した?

はじめに

鎧武者たちが剣槍弓馬の技を駆使して戦いの火花を散らした戦国時代――。

これはステレオタイプな切り取り方であり、こうした単純な一言では語ることができないほど往時の戦闘は数多くの兵種や役割があったのは周知の通りです。

時代の一側面としてはたしかに武者たちの攻防がありましたが、純粋な力比べだけで勝敗が決したわけではありません。

そこで極めて重要視されたのが「情報」です。

通信手段が限定的であった当時において、敵対勢力の情報は国の命運を左右するほどの価値があり、国力や兵力、軍事行動の兆候等々をいち早く把握することは優位性の確保に直結する関心事でした。

そんな情報を入手するために戦国武将たちが用いたとされるのが、いわゆる「忍者」です。

その言葉は非常に有名で、現代風には諜報員やスパイといった表現に置き換えられるかもしれません。

こうした職能者が実在したことはわかっているものの、工作員という性質からその全貌は詳らかではなく、伝説の域を出ないような神秘性を感じさせるエピソードも少なくありません。

しかしそれらは戦国武将にとっても情報戦、あるいは諜報戦が重要な位置を占めていたことの証左とも考えられ、有名武将が頼りにしたという忍びの者たちの伝承が散見されます。

その一つが、独眼竜・伊達政宗が用いたという「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」です。

仙台城跡にある伊達政宗像(宮城県)
仙台城跡にある伊達政宗像(宮城県)

結論からいうとこれ自体は史実としての信憑性が高いものではないと考えられていますが、政・軍ともに絶妙なバランス感覚で乱世を駆け抜けた伊達政宗に、忍者的な工作員が仕えていたとしても不自然ではないでしょう。

そこで本記事では文献に残る「黒脛巾組」について概観しつつ、戦国武将にとっての「忍者」がどのようなものであったのかご紹介したいと思います。


黒脛巾組とは?

「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」とは、伊達政宗が創設した忍の部隊とされています。

名の由来となった脛巾(はばき)とは脛(すね)に巻き付けて足元を保護したり、歩行の疲れを軽減したりする効果があるとされる道具のことです。

脛巾を着用した旅人のイメージ
脛巾を着用した旅人のイメージ

後には「脚絆(きゃはん)」と呼称され、近現代の日本でも「ゲートル」として一般的でした。

黒脛巾組は文字通りに黒革でできた脛巾を揃いで身に着けていたとされていますが、このエピソードからは黒で統一された伊達家の軍装をイメージさせます。

ただし忍者という秘匿性が重要な職能者において、本当にユニフォーム的な装備を制定していたのかは疑問の残るところです。

文献上に見られる黒脛巾組の任務の特徴は戦闘員としての武力行使ではなく、諜報や攪乱などの情報戦に特化していたこととされています。

そのため山伏や商人といった職能者に擬態して諸国に潜入し、工作を行っていたと文献に記されています。

政宗は陸奥国南方の諜報を担当していた信夫郡の鳥屋城主「安倍重定」に命じ、50名の忍者を選抜して「柳原戸兵衛」「世瀬蔵人」という人物を隊長に任じたというのが文献での記述です。

身分によらず工作員としての素質や格闘戦の技術によってメンバーは選ばれ、出自が農民でも下級武士相当の待遇で召し抱えられたともいいます。

ただし繰り返しになりますがこれらは史実としての蓋然性は高くなく、後世の創作や仮託であるとの考え方が大勢を占めています。

そもそも諜報員としての性質が強い忍者が公式に記録されることの方が異例であるといえ、伊達政宗がそうした集団を用いていたとしても詳細が伝わるとは限らないことも理由の一つです。

次に、この点についてもう少し詳しくみていきましょう。


黒脛巾組について記した文献の詳細

「黒脛巾組」と呼ばれる忍者集団の存在が史実ではないと考えられる最大の理由として、伊達政宗が在命した時代の一次史料には一切その記録が確認されていないことが挙げられます。

その名が初めて登場する、成立年代のはっきりしている史料は江戸時代中期のものであり、伊達政宗の死後130年あまりが経過してからの著作なのです。

また、来歴不明の文献もあり、史料的価値という面でも事実確認を難しくしているといえるでしょう。

そんな文献ではありますが、黒脛巾組についてどのように言及しているかを確認しておきましょう。

『伊達秘鑑』

これは仙台藩士の半田道時(はんだみちとき)が古記録や伊達家の伝承をもとに著した歴史書で、明和七年(1770年)に成立しました。

ここに黒脛巾組に関することが記されており

  • 忍の素質がある者を50人選抜して召し抱えた
  • 彼らは商人・山伏・行者などに偽装して諸国に潜入し諜報活動に従事した

等が述べられています。

そうして得た情報は内密に政宗へともたらされ、他に情報を知る者はいなかったといった文意の記述もされています。

ただし何分にも政宗の時代から一世紀以上も後に書かれたものであり、そこまでの重要機密がどのように代々伝わったのかも詳らかではありません。

先にも述べたように政宗が生きた時代の記録には黒脛巾組の名が一切確認できないこともあり、後世の付与と考えるのも無理からぬことです。

ただし、政宗が忍者といえる諜報員や工作員を駆使した可能性までを否定できるものではないことは前提でしょう。

『老人伝聞記』

もう一件、黒脛巾組について言及のある文献が『老人伝聞記』です。

これは著者不明・成立年代不明という著作であるため、史料としての扱いには細心の注意が必要となるタイプの文献といえるでしょう。

このなかでは黒脛巾組のさらに詳しい構成に触れており

  • 50名および30名で一組が構成されていた
  • 打ち物、つまり剣術や槍術といった白兵戦に優れた者が選抜された
  • 陸奥国各地の武勇に秀でた地侍を組頭(隊長)とし、それは6名いた

等を記しています。

また、諜報や工作以外にも武器や兵糧を運搬するといった兵站も担当したと伝える点も特徴的です。

それが事実であれば、忍者によって構成された補給部隊でもあったと解釈することができ、真偽はともかくとして非常に興味深いトピックであるといえるでしょう。

日本史上、補給に関する部隊はどちらかというと軽んじられてきた部分があるともいわれますが、実際にはあらゆる作戦行動で明暗を分けるほど重要な役割です。

特に交通路の整備が充分ではなかったと思われる往時に、戦闘区域を含むであろう危険なエリアを横断しての補給には高度な作戦遂行能力が必要だったことは想像に難くありません。

そうした点においては情報網の掌握に優れた忍という専門集団は、補給部隊として適任だったのではとも考えられるでしょう。

『老人伝聞記』は先にも述べたように具体的な著者や成立年代が不明な文献ですが、これを19世紀に仙台藩の中級武士身分である「大番士」によって書かれた可能性に言及している論文(堀田幸義「仙台藩の武士身分に関する基礎的研究」『宮城教育大学紀要 巻 51』 宮城教育大学 2017 https://mue.repo.nii.ac.jp/records/536 )もあります。


『政宗記』に見る伊達家の「忍」

一方、政宗が生きた時代の確実な文献の中に、「忍」の存在を記したと思しきものがあります。

伊達成実像(仙台市博物館蔵)出典:Wikipedia
伊達成実像(仙台市博物館蔵)出典:Wikipedia

政宗の重臣であった伊達成実(だてしげざね)が著した『政宗記』です。

これは政宗が伊達氏の当主となった天正十二年(1584年)から寛永十三年(1636年)に死去するまでの出来事を、軍事行動だけではなく日常生活や趣味に関することまで幅広くまとめた一代記です。

成実は自ら戦陣に加わった武人であり、政宗のきわめて近い位置からの実体験をもとに執筆しているため『政宗記』は高い史料的価値を認められている文献といえます。

その記述の中に、「草」という語を使った部分があります。

これは奥州の軍事用語で隠密を意味しており、すなわち忍者に関する言及の一部です。

そこでは草の役割として「調儀」「入る」「臥(ふす)」「起す」「捜す」といった行動内容が記されています。

「調儀」とは策略を巡らせることや敵を襲撃すること、「入る」とは敵の勢力圏に潜入すること、「臥」は潜伏することを指すといいます。

また「起す」は敵方の諜報員を討伐すること、「捜す」は自国領に潜伏している敵の諜報員を探索することです。

このように「草」という暗号的・符丁的な言葉で呼ばれた忍の者が存在したことを、一級史料の記述に認められることは重要な事実であるといえるでしょう。

したがって後世の文献に見られる「黒脛巾組」そのものが実在したかどうかはともかく、忍者の集団を政宗が用いていたことには高い蓋然性があるといえるのではないでしょうか。


NEFTの記事づくりを応援してください!

NEFTでは東北各地の歴史・文化・観光情報等を取材し記事として発信しています。

この記事を楽しんでいただけましたら、今後の取材や記事制作、サイト運営へのご支援を検討いただけますと幸いです。

※「チップ」をクリックすると外部サービス「codoc」のチップ送付画面が開きます。

その他の記事