【秋田県・男鹿半島】ビューポイント満載。地球が創り出した壮大な公園、男鹿半島

2万年前に誕生した男鹿半島。6,000年前は島だった

男鹿半島。日本海に突き出た半島は約2万年前に地上に姿を現しました。時代は氷河時代。海の底にあった男鹿半島は、北半球や南極の氷が増えることによる海面の低下により陸地になったのです。しかし、氷河時代が終わり、地球温暖化が進むと、海面は上昇し6,000年ほど前には一部を除いて再び海の中に沈んでしまい、沖の方に島が残りました。男鹿半島ではなく男鹿島になったのです。6,000年前は日本の歴史からは縄文時代の後期に当たりますが、この時代が地球の気温が最も温かった時期で、海面は今より2~3mも高かったといわれています。

2,000年前には海峡を砂が埋めて再び半島に

地球は約4,000年前に再び冷えてきます。現代はその途中といわれていますが(人間が起こした“地球温暖化”とは関係ありません)、そのため、海面が少しずつ下がってきました。これには、「海面が下がった原因は、寒冷化ではなく、増大した海水の重みで海底が少し沈下し、その下にあったマグマが陸地側に押し出され、その結果陸地が隆起。隆起した分陸地が増えて、見かけ上海面が下がった」という説もあります。

ともあれ、男鹿島はまた地上部分が大きくなり、本土との海峡部分も狭く、浅くなってきたのです。特に島の北分は米代川(よねしろがわ/河口部は能代市)が運んできた砂がたまった砂嘴(さし/水流で運ばれた砂などでできた細長い高まり)が発達し、2,000年前頃には陸続きになってしまいました。


干拓前の八郎潟は日本第2位の広さを誇る湖

八郎潟湖畔
明治41年頃の八郎潟湖畔。対岸が見えないほどの湖だった 所蔵:国立国会図書館

その時の男鹿半島は、南の部分はつながっておらず、非常に浅い海が広がっていました。やがて南にある雄物川(おものがわ/河口部は秋田市)が運んだ砂による砂嘴が広がっていき、南部も海岸線が陸続きになったのです。その時内陸部の浅い海は取り残され、大きな湖(汽水湖/真水と海水が混ざる湖)になりました。これが八郎潟で、琵琶湖に次ぐ日本第2位の広さがありました。しかし農地を増やす目的で1977年(昭和52年)に干拓により八郎潟の対部分が陸地に変えられたため、現在湖の面影はほとんどありません。干拓により陸地となった八郎潟跡地はもともと海の底でしたから、今でも標高は0m以下なのです。

大潟村
八郎潟の干拓で生まれた大潟村(水路で囲まれた部分)は、標高0m未満の土地がほとんど(青い部分) ©国土地理院

島と陸地が砂嘴でつながった男鹿半島は、陸繋島(りくけいとう)と呼ばれています。その特徴は陸とのつながり部分は砂地で、外海側は岩場。元の島部分には男鹿三山(本山/標高715m、真山/565m、毛無山617m)ヤマユリの群生地として知られる寒風山(355m)などの山々が連なっています。


火口に水がたまった国の天然記念物「一ノ目潟」

一ノ目潟
右から「一の目潟」「二ノ目潟」「戸賀湾」。戸賀湾の下が「三の目潟」 ©国土地理院

男鹿半島西部戸賀湾(とがわん)近くには3つの丸い池があります。一ノ目潟(いちのめがた)、二ノ目潟、二ノ目潟と呼ばれています。この池はいずれもマールと呼ばれる爆裂火口に水がたまったもので、一ノ目潟が6万~8万年前、三ノ目潟が2万~2万4,000年前、そして二ノ目潟がその中間あたりに形成されたものと推定されています。

戸賀湾も半円形をしており、火口です。こちらは約42万年前のマグマ水蒸気爆発によるもので、爆発により噴出した軽石が湾の周りの高台に分布しています。

戸賀湾
八望台からの眺め。上方の湾が噴火口だった戸賀湾 ©男鹿なび

男鹿半島のビューポイント「八望台」からは眼下に二ノ目潟、海の方に目をやると戸賀湾のパノラマが望めます。一ノ目潟は国の天然記念物、三ノ目潟は秋田県の天然記念物に指定されています。


東側は砂、それ以外は岩場と対照的な海岸

もともとユーラシア大陸の一部だったところが海の底になり、そして隆起して地上に現れた男鹿半島。地球誕生以来46億年の歴史の中で積み重ねられた大地は、その生成された時代によりさまざまな地層を創り出しています。西や南の海岸部分には多くの珍しい形をした岩が顔を出しているのですが、それぞれに硬さや色などが違い、調べてみると古くは9,000万年前のものも見つかっています。9,000万年前は白亜紀といわれ、恐竜が闊歩していた時代です。


縄文時代には人が住んでいた男鹿半島

男鹿半島に人が住み始めたのはいつ頃かよく分かっていませんが、秋田県には1万5,000年~3万5,000年前と考えられる米ヶ森遺跡(よねがもりいせき/大仙市)が発見されていて、男鹿半島にもその時代には人が住んでいたかも知れません。日本列島に人が渡ってきて住み始めたのは約3万8,000年前と考えられているので、非常に早くから人がいたのですね。

男鹿半島で一番古い遺跡は、大畑台(おおはただい)遺跡で4,500年前~6,000年前の縄文時代中期のものと推定されています。大畑台遺跡は男鹿半島の南側付根近く、製油所の敷地内にあります。そのため、遺跡自体は一般公開されていませんが、縄文土器や石器などの出土品は、男鹿市歴史資料収蔵庫(旧脇本第二小学校)にて希望すれば見学可能です。

<大畑台遺跡出土品>INFORMATON

  • 施設名称:男鹿市歴史資料収蔵庫(旧脇本第二小学校)
  • 所在地:秋田県男鹿市脇本樽沢字刈沢156
  • 開館時間:9:00~21:00
  • 休館日:12月29日~1月3日
  • アクセス:
    • 鉄道/JR男鹿線脇本駅から約50分またはタクシーで約7分
    • 車/秋田自動車道昭和男鹿半島ICから約40分

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男鹿の名はもともと住んでいた人の名前が転じたもの

男鹿半島の男鹿という名前の由来は、飛鳥時代に大和朝廷が支配下になかった蝦夷(えみし)といわれた東北地方を制圧するために、都から阿倍比羅夫(あべのひらふ)らを送り込んだ頃に男鹿に住んでいた蝦夷の長、恩荷 (おんが) の名前が転じた、という説が有力です。それに異を唱えたのが民俗学者の柳田国男(1875年~1962年)で、男鹿が日本海に浮かぶ“陸(おか)”に見えることから男鹿に転じたと唱えています。

いずれにせよ、男鹿には「鹿落とし(ししおとし)」という断崖があるほど多くの鹿が生息していたため、“恩荷”“陸”という読みに“男鹿”という文字をあてたのは間違いないようです。

鹿落とし
代表的観光地入道崎にある、増えすぎた鹿を追い落としたと伝わる「鹿落とし」 ©男鹿半島・大潟ジオパーク

男鹿半島はナマハゲに代表される伝承文化やその遺跡、「大桟橋(だいさんきょう)」「舞台島」など奇岩の数々、一ノ目潟などの火山が創り出した絶景、さらには石焼料理と見どころや絶品グルメが満載です。最近ではアカデミー賞受賞で人気再燃の「ゴジラ岩」や映えスポット“秋田のウユニ塩湖”鵜ノ崎海岸がSNSで大人気。温泉もあります。観光にはJR男鹿線男鹿駅からの『男鹿半島あいのりタクシー なまはげシャトル』や観光タクシー、レンタカーが便利です。今面白さ爆発の男鹿半島、是非訪れてはいかがでしょうか。

ゴジラ岩
“火を食うゴジラ”大迫力のゴジラ岩 ©男鹿なび

<男鹿半島・観光遊覧>INFORMATON

  • 施設名称:あいのりタクシー なまはげシャトル
  • 運行期間:4月1日~10月31日
  • 利用方法:完全予約制
  • インターネット/前日19:00までの申し込み
  • 電話/前日17:00までの申し込み
  • 利用人数:1名から
  • 料金:男鹿駅~入道崎 2,500円(その他目的地によって変動)
  • URL:男鹿半島あいのりタクシー なまはげシャトル
  • 路線バスに関しては「男鹿なび路線バス時刻表」参照
  • 自家用車:秋田自動車道昭和男鹿半島インターを利用するのが便利

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鵜ノ崎海岸
“秋田のウユニ塩湖”鵜ノ崎海岸 ©旅東北

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