大東流合気柔術【中編】

合気道の源流は会津にあり⁉大東流合気柔術と武田惣角【中編】|会津秘伝の武術「御式内」と惣角青年期の謎

大東流の源流とされる会津藩御留武術「御式内」とは?

大東流の伝承では「御式内(おしきうち)」という殿中で用いる藩外不出の武術が流派のベースになっており、これを再編して世に広めたのが武田惣角であるとしています。

言い伝えによると御式内は会津藩において歴代藩主やごく一部の上級武士の間に伝承され、他藩の者には教授しない御留武術であったとされています。

しかしながらこの御式内という武術は実態が定かではなく、明確な文献も残っていないことから謎の流派ともされてきました。

西郷頼母(さいごう たのも) 出典:Wikipedia
西郷頼母(さいごう たのも) 出典:Wikipedia

武田惣角は元・会津藩家老で福島県伊達郡の霊山神社神職であった西郷頼母(さいごうたのも)より御式内を伝承し、明治30年(1897)頃にこれを世に広めるよう諭されて全国を巡る旅に出たとされています。

史実としての信憑性については後の項で触れるとして、御式内とははたしてどのような技であったのかを少し考察してみましょう。

「御式内」の意味

まず「御式内」という言葉を辞書で引いてみると、平凡社の『世界大百科事典(旧版)』に【合気道】の項目内で言及がありました。

会津若松城(鶴ヶ城)

それによると「殿中護身武芸」との説明があり、殿中つまり御殿や城の中という特殊な状況下で用いる技術と位置付けられていることがわかります。

殿中は一般的に将軍の居所を指していうことも多いですが、ここでは会津若松城や江戸城といった城中を意味すると考えてよいでしょう。

また、他の説明では殿中での作法も含まれるとする場合もあり、格技だけではない包括的な体系であったとも予想されます。

御式内が示す「殿中」での格技

ここで重要なのは殿中では基本的に帯刀が禁止され、装備といえば腰に差した短刀の類のみであるのが原則という点です。

当然のように殿中において争うことも厳禁で、仮に短刀を抜き放って闘争に及べば厳罰を科されることは有名な『忠臣蔵』のシーンからも想像できるでしょう。

すなわち殿中における武術というのは、

  • 室内で素手で戦う
  • 刃物を持った相手を制圧する
  • 相手をできるだけ殺傷せず取り押さえる

といった要素が重要です。

これらは現代風にいうと逮捕術に類する要求であり、そのため柔術的な技法が高度に洗練されたと考えられます。

大東流や合気道に限らず古流柔術の多くに「座捕り」などと呼ばれる座り技が存在するのはその名残りでもあり、室内で正座をして過ごすという日本独特の身体文化を抜きにしては語ることができません。

御式内の全容は定かではないものの、このように相手を迅速に制圧・捕縛することを目的に練り上げられてきた技が、大東流のルーツの一つになっていると予想されます。


大東流合気柔術の達人・武田惣角の経歴の謎

ではいよいよ、大東流を世に広めた会津の武術家・武田惣角のプロフィールを見ていきましょう。

ただし結論からいうと、惣角の生い立ちと前半生についての正確な記録はほとんどありません。したがって旧来は大東流における伝承や惣角本人が語ったとされるところが根拠となっていました。

しかし中には史実と整合性の取れない部分も多々あり、流派の歴史に関してはある種の権威付け的な仮託があった可能性を指摘する研究成果も示されています。

ここでは高久達英氏の研究(「大東流史実と合気の意味の研究」『武道学研究』第52巻:日本武道学会:2019)をもとに、伝承と史実を対比する形で惣角の経歴を見ていくことにしましょう。

生い立ちと武術歴

武田 惣角(たけだ そうかく) 出典:Wikipedia
武田 惣角(たけだ そうかく) 出典:Wikipedia

武田惣角(たけだ そうかく)は安政6年(1859)、現在の福島県河沼郡会津坂下町に生まれました。

父は従来では会津藩士の武田惣吉であると伝わっていましたが、調査の結果士分ではなく足軽の農民であったことがわかっています。

父・惣吉は四股名を「白糸」といった宮相撲の大関でもあり、戊辰戦争の折には力士隊隊長として約150名を指揮し、大砲の運搬等を任務として従軍した人物でした。

惣吉は相撲だけではなく文武に優れており、惣角は初めこの父から柔術や槍術などの武術を学んだとされています。

苗字も幕末時点では武田ではなく「竹田」と表記され、明治5年(1872)の「壬申戸籍」に同じ村の4家が武田と改めたものです。

また、会津藩士の渋谷東馬に師事して小野派一刀流剣術を学んだと伝わりますが、渋谷は従軍した戊辰戦争の敗戦で維新期以降の教授は困難でした。また、士分の子ではない惣角が直接教わることは考えにくいことなどが指摘され、渋谷の高弟であった師範代・武田善十郎が本来の師である可能性が高いといいます。

ちなみに小野派一刀流は徳川将軍家が学ぶ流派の一つであり、会津ではもちろん全国的に修行されやがて現代剣道に大きな影響を与えた名流です。

惣角は幼少より体術のみならず剣術にも秀で、小柄な体躯もあり「会津の小天狗」の異名をとったとも伝わっています。

大東流には現在も小野派一刀流の系譜を引く技が併伝されているケースがあるのはそのためで、剣術との深いつながりがうかがえます。

伝承によると惣角は13歳頃に武術修行のため江戸へ出て、かつて幕府の講武所剣術師範や14代将軍・徳川家茂の個人教授を務めた剣聖・榊原鍵吉に師事して直心影流を学び、その他種々の武術修行や他流試合に明け暮れたといいます。

ただし実際に榊原の道場に入門できたかどうかは定かではなく、江戸の他流派を修めた可能性も指摘されています。

空白の青年期から戸籍に見える婚姻・姻戚関係

惣角の青年期までのほとんどは正確な記録がなく、10代後半のときに兄・惣勝が亡くなり家督を継ぐため呼び戻されたといいます。

西郷南洲(西郷隆盛)肖像 出典:Wikipedia
西郷南洲(西郷隆盛)肖像 出典:Wikipedia

しかし出奔して明治10年(1877)の西南戦争で西郷隆盛軍に入隊しようとしたものの実現せず、九州をはじめとして全国を渡り歩いて武者修行をしたというのが伝承です。

しかしなぜ会津出身の惣角が仇敵であるはずの薩摩・西郷隆盛のもとに参じようとしたのか、日本史上最後にして最大の内乱であった西南戦争という緊迫した状況下で九州各地を自由に移動できたのか等々、謎は尽きません。

しかし20代半ば頃まで漂泊の旅路にあったであろうことは想像でき、正確な記録が登場するのは明治18年(1885)5月に長女のテルが誕生したことを示す戸籍によるものです。

妻はかつて会津藩主の護衛である「御供番」を務めた佐藤金右衛門の孫・コン。惣角は岳祖父にあたる金右衛門から会津秘伝の御式内を学んだのが実際ではないかというのが、近年の研究による蓋然性の高い仮説とされています。

また、近隣に住まう占術家で易聖と称される中川万之丞から修験道や真言密教の行法を学んだことも、武術修行のうえで重要なファクターであったと考えられるでしょう。


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